基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

動物の言葉を話す男と古代のおとぎ話を忘れた近代社会が対立する、エストニア発の傑作ファンタジィ──『蛇の言葉を話した男』

この『蛇の言葉を話した男』は、エストニアで歴代トップ10に入るベストセラーに入り、フランス語版も大ヒットして14ヶ国語に翻訳されたファンタジィ長篇である。帯には、『これがどんな本かって? トールキン、ベケット、M.トウェイン、宮崎駿が世界の終わりに一緒に酒を呑みながら最後の焚き火を囲んで語ってる、そんな話さ。』という惹句がついていて、最初から期待して読み始めたのだが、いやはやこれが期待を遥かに上回ってきた。今年読んだ外国文学の中ではピカイチの作品と断言できる。

本作は、蛇やクマといった動物と言葉を交わし、強制的に命令を発することもできる「蛇の言葉」を扱う森の住民たちと、そうした古の文化を忘れ、科学技術を得て新しい社会を築き上げてきた近代社会の摩擦、戦いの話であり、リアリストの語り手の少年を筆頭に、人間の女にすぐ惚れてしまうクマ、暴力ですべてを解決しようとするヤバいジジイ、伝説の蛇サラマンドルなどキャラクタや生物の魅力が飛び抜けている。

エストニア発の作品なので、その歴史が色濃く反映されてもいるのだけれども、普通に読む分には意識しなくても問題はない。基本は蛇の言葉を話す最後の男となった少年が成長し、すべてを失いつつ戦いに赴く話なので、何も考えずに読んでも、アクの強いキャラクタたちと、感情の導線に従って、まるでマーベル作品を鑑賞しているかのように楽しむことができるだろう。特に終盤は本を持つ手が震えてくるほどの展開で──と語りたいことが山ほどあるので、具体的に紹介していきたい。

世界観など

舞台になっているのはエストニアだが、時代は中世〜近代あたりのまだあまり技術レベルが発展していない段階のどこかのように読める。そんな世界では、かつて存在していた古き伝統の「おとぎ話的な世界」は、だんだんと忘れ去られつつある。

たとえば、「蛇の言葉」という動物と会話をすることができる特殊な言葉がこの世界には存在する。森で暮らすある部族は、この言葉を駆使して狩りをしたり、蛇やクマたちと共生することに成功している。さらには、この蛇の言葉を使う者が1万人集まって音を一斉に鳴らすことで、森ほどのとてつもない大きさで空を飛ぶ、伝説の蛇サラマンドルを呼び起こすことができるといわれているなど、他様々な伝承がある。

だが、今ではこの「蛇の言葉」を話せる人間はほとんどおらず、物語開始時点では、語り手レーメット少年のおじさんを始め10人ほどしかいない。1万人集めるなんて夢のまた夢。だが、レーメットはそのおじさんから直接蛇の言葉のレクチャーを受けることで、森における最後の蛇の言葉の使い手として成長していく。この蛇の言葉は比喩的に動物と話ができるわけではなくて、明確に蛇やクマと意味のある会話ができるので、本作には普通に喋る登場人物として動物たちが現れることになる。

失われていく物語

そんな世界で繰り返し描かれていくのは古の伝統と新しい時代の対立だ。レーメットらが暮らす森のすぐ近くには村があり、そこでは誰も蛇の言葉など信じていない。新たに開発された道具を使い、城や鎧といった新しい道具に慣れ親しんでいる。パンを食べ、肉はほとんど食べれないが、それでも十分幸せだと感じている。城や宮殿に住む人間がいる時代に、森で狩りをして暮らすなんて狂っている、というわけだ。

一方森の住人のレーメットらからしてみれば、蛇の言葉を知らないから家畜を集めてそれを管理し、餌を与えるなんて馬鹿げたことをやらないといけない。鎌やら熊手やらといった馬鹿げた道具を必要とするのは、かつて存在していた古き伝統と技術を忘れてしまったからで、森にいれば好きなだけ美味しい肉を食べることができる。

森に住んでいる人間のこうした主張には理もあるといえばあるが、作中では森の部族はあくまでも滅びゆくものとして描かれていく。森の人々はどんどん村に移住し、レーメットやその母親とおじさんのような、ごく一部の人間だけが今や森に残っていて、文化の継承ももはや途切れつつあり、その流れは変えようがない。

つまり、これは「伝統の終わり」についての話なのである。あらゆる文化はいつか終わりを迎えるが、レーメットは最後の森の男であり、蛇の言葉の最後の話者であり、と様々な「最後の男」「かつて存在していた文化の看取り手」になっていく。本作の中心にはレーメット少年の成長譚があるが、物語はシンプルな成長譚にはおさまらない。彼の人生は常に彼の身の回りにかつてあったものの喪失と共にあるからだ。

何を信じるのか。

そう書くと失われていく古い伝統をノスタルジックで感傷的に描き出した物語なのかと思うかもしれないが、実際はまったく違う。終わりを受け入れる物語ではあるのだが、タダで受け入れてやるわけではない。そこには強烈な怒りの発露がある。

レーメットはもともと森を捨てた父親によって、村で産まれ育てられたが、その後父親の死に伴い森に帰ったという経緯があり、森と村をまたにかける存在として描かれている。そんな彼にとって、伝統の森か近代の村、どちらが理想的な世界、ということはない。心情的にも身体的にも森に居心地の良さを覚えているが、最後まで森に残ることを選択した他の人間は、それはそれで思想や心情が歪んでいるのである。

たとえば、森にはもう人間がほとんどおらずその数は少なくなる一方であることを受け入れられない人間がいる。もはやそれは戻ってくることがないにも関わらず、サラマンドルなど過去の栄光にすがり、そのことばかり語る。また、古き良き伝統が失われていくことを認められないがために、その反動から最も昔の風習にしがみつき、誰も信じていない呪いの話に執着し、それを他者に押し付けて疎まれる。

 ウルガスとタンベットは村に移り住んだ者たちを皆憎んでいたが、彼ら自身も、すでに真の森の住人とは言えないことをぼくが理解したのはずっと後になってからだった。彼らは、古代の森の風習が死に絶えつつあるのを辛く苦々しく思いながら暮らし、その反動から、最も昔の秘された魔術と風習にしがみついていた。

森にそんなやべーやつがいるなら村に行けばいいじゃないか、と思うかもしれないが、村は村で、また別の偏見と思想が支配している。キリスト教が蔓延し、さらには自分たちが立ち入ることのできない森に過剰な幻想をいだいているせいで、人狼がいると思い込んだり、精霊や闇の力を持った存在がいると妄想しているのだ。レーメットは、森の住人の言い分にも村の住人の言い分にもバカバカしさを感じてしまう。

どこにいっても居心地の悪さを感じる彼に、安住の地はなかなか訪れない。物語は半分を過ぎたところから凄まじい勢いで加速していくが、その加速のきっかけとなるレーメットの師は、戦いに生きがいをもとめるある種の狂人で、だがそれ故に真実を言い当てることで、レーメットに新しい方向性と、何より怒りを与えるのだ。

物事とは、本当は何もかも簡単なのだ。自分たちはどこか遠くに住み、もう邪魔しないから、ぼくたちを放っておいてくれとタンベットを説得してみようなどという案は、馬鹿馬鹿しく思われた。本当に間抜けな話。殺してしまえば問題はすべて解決なのだ。
(……)そこには、生き生きとして、怒りに燃え、野放図で残酷、独立心に満ち、何がどうなっても構わないという態度があった。この老人にはサラマンドルの炎にも似た力があった。ぼくたちの内部ではその炎は消えていた。でもひょっとしたらその炎が燃え上がるかもしれない。

おわりに

物語の終盤のカタストロフは凄まじいというほかない。それでいて、神にも精霊にも祈らないレーメットは、蛇の言葉が消えゆく存在であることをごく自然に受け入れ、ラストをとても静かで、そして幻想的に迎えることになる。エンタメ的にも文学的にも、傑作という評価をいささかもためらう必要のない、圧巻の作品だ。*1

*1:本作は2007年に刊行された作品だが、古の伝統や文化が消え、新しい文化が勃興してくることはこれまで何度も行われてきたことだ。いつ読んでもその時に起こっている何らかの事象を当てはめられる、普遍的な物語として読める。