映画は極力前情報を仕入れずに見に行くのが好きなので、この映画もタイトルしか知らずにみてきたのだが、当たりだった。ウサマ・ビンラディンを長い期間にわたって追いかけ、HitするまでをCIA全面協力プラス多数の証言を元に構成した映画になる。
見た後で調べて判明したのだけど、ハート・ロッカーの監督だったのか。一秒も途切れずに画面にみなぎっている緊張感が、ハート・ロッカー共々素晴らしい。いったいこれはどういう理由で成立しているんだろうな。役者の表情が常に張り詰めていることもあるけれど、拷問に次ぐ拷問、そしていつどこでテロの被害が怒るのかわからない、だから一刻も早く問題を解決しなくてはならない、しかしそれが諸々の理由で前に進んでいくことがない。
一刻も早く解決せねばならず、そしてどのタイミングでテロが起こるのかわからない。この緊張感というのは、当事者の立場に立ってみなければわからないが、恐ろしいだろう。とても彼ら彼女らの立場に立ちたいとは思わなかった。どの場面を切り取っても存在しているからかもしれない。ああ、なんかあらすじもかかずに内容に触れていっているが、すぐに解説するのでちょっとおまちを。
テロを起こす方は無数の選択肢の中から選ぶことができるが、テロを防ごうとした時に想定しなくてはならないことは無限かと思うほど広がっていき、あらゆる可能性の中から自分たちにさけるリソースを最適に配分していかなければならないが、そこまでしたところで自由に決行できるテロが防げるわけではない。無理ゲーなのだ。そして止めようとしているのは彼らしか居ない(それは知らないが、とにかくビンラディンを追っているのは基本的に彼らだけだ)。
この無理ゲーをいかにして攻略していくのか。
簡単なあらすじ。ビンラディンのCIA捜索班が、いかにしてビンラディンを探し、追い詰めていくのかが話の主軸になっている。実際にビンラディンの暗殺が決行されたのは5月2日(米国東邦夏時間では5月1日)になる。シールズのチームが6つ、突撃を行なっているが長らくその背景は明るみにでることはなかった。今回CIA全面協力という文字が宣伝を賑やかしている。証言を元に構成しているというし、ある程度の真実は含まれているのだろう。
主役として描かれるのが20代なかばの美人なお姉さんで情報収集、分析でその力を発揮する。それだけなら有能なただの一捜査員だがいくつかのイベントをきっかけにしてビンラディン殺害に誰よりも執念を燃やすようになり、そしてその有能な実力を個人としてではなく他者を動かす力として、遺憾なく発揮させていく。
タイトルのゼロ・ダーク・サーティの意味がよくわからなかったのだが、レビュー記事のメールインタビューで答えが出されている。Bin Laden movie 'Zero Dark Thirty' shows hunt for 9/11 mastermind | Inside Movies | EW.com 午前12時30分を指す軍事用語と、作品全体を覆っているなが〜く続いたシークレットミッションからくる陰鬱な雰囲気の二つを指している感じらしい。
Bigelow explains the significance of the title: “It’s a military term for 30 minutes after midnight, and it refers also to the darkness and secrecy that cloaked the entire decade long mission.”
そうそう、とにかくこの物語を覆っているのは「これはリアルな出来事だったんだぜ」という共通理解を求めてきているところで、あらゆることが物語的にうまくいかない。拷問をすれどもすれども確信できる情報を捕虜が吐かない。そうしているうちに自爆テロは頻発し、被害者は累積していく。敵の幹部は表に出てこず、そうやすやすと捉えられない。
膨大な情報が寄せられるがそのどれがデマで、どれが真実なのかという裏取りに悲惨なほど時間がかかる。すべての場所に調査員を派遣できるわけでもなく、拷問で得た情報も、敵のスパイだと思っている人間が言ったことでさえ容易く信用できるものではない。一筋の光明がみえたとしても、どれが真実に至る道だとはっきり言うことは誰にもできない。
作中で一度、状況が完全に膠着し、CIAのお偉いさんがこのビンラディンを追跡する部隊にたいして「俺達の他に秘密組織がいると思っているのか? そんなわけねーだろ! ここにいる俺らが全部なんだよ! 俺らがやらなかったら永遠に捕まらねえんだよ!!」と檄を飛ばすシーンがあって(もちろん精確な引用ではない。適当にイメージを書いた)、うひい、そりゃあ大変だなあ思ってしまった。
たしかに。アメリカだって世界の支配者なわけではない。いちばん色んな意味で力を持っているだけであって、すべてを完全なコントロール下に置いているわけではないのだ。そしてウサマ・ビンラディンを追跡するのに無尽蔵な資産と人材を使えるわけではない。しかも相手陣営は捨て身でかかってくる。雲隠れした人間一人を捉えるのがいかに大変なのか、痛いほど画面から伝わってくる。
そして、かなり確度の高いウサマ・ビンラディンの居場所を捉えたとしても、今度は大きくなってしまった組織、国家としての足かせが響いてくる。確実にそれがウサマ・ビンラディンであると証明できなければ突入もできない。もし違った場合の非難が大きくなりすぎるからだ。そこまでの捕虜への拷問の実態も含めて、非人道的な行為に対する非難は日に日に増している所であった。
何もかもうまくいかない。身軽に動けるはずもなく、情報が正しいか、間違っているかなんて誰も確信をもって断言できない。自分の身すら危なく、そうした常に綱渡りの状況が画面の中で演出されている。人間の表情に多くの情報が込められていて、(特に主演の女性は圧巻だった。なんだこれは、すげえ)多くを言葉では語らない。焦りが刻々と積み重なっていく。
そして、その解放がもたらす物語のカタルシス。いやあ素晴らしかった。
一方で批判はあるだろうと思う。特に米国内でのレビューは絶賛一辺倒というわけでもないみたいだ。というのも、本作が描いているのは完全に「CIA側、というか追い詰めていく側」の描写であって、だからこそ拷問は必要な物のように描かれるし、また映画の目的=ウサマ・ビンラディン殺害の為にはまったくもってそれは確かに必要不可欠なものだった。
しかし拷問をすることに対する良心の呵責のようなものが一切感じられない画面はどうなのだろうと思うのもわかる(実際そんなふうには感じなかったが)。CIAの宣伝映画じゃねえか、とかね。でもまあ、そんなところまで描いていたらこの映画いつ終わるんだよ、という話でもある。難しいところ。
ただこの作品に関しては描写が一面でしかないというのはちょっと違うかなと思う。肯定的に書かれているわけでもないし、否定的に書かれているわけでもない。動き出してしまった歯車が、途中で止めることはできないのだ、という無力感のようなものが画面と表情からは伝わってくる。特に最後の場面があるのでね。