「幻覚剤の有用な側面」とひとことでいっても、これは非常に限定的な話で注意が必要だ。たとえば、抗うつ剤を十分量で十分期間(1〜2ヶ月)使っても本来の調子とならない治療抵抗性のうつ病のように限られた精神疾患にたいして、十分に量がコントロールされた幻覚剤を、セラピストの診察と共に服用することで、治療に効果が現れるエビデンスが上がってきている──という、何重もの前提があっての話である。
得体もしれない連中がそのへんで売っている、何が混在しているのかわからない幻覚剤を、うつ病に効くから──といって好きなだけ使って良いという話ではない。不安症、疼痛、ADHDなど、様々なうつ病以外の症状にも幻覚剤が役に立つのではないかという研究も上がってきているが、まだ限定的で、広く支持されているわけでもなければ、世界で広く解禁されているわけでもないのが現状だ。
目下MDMAとマジックマッシュルームに含まれるサイロシビンが、世界ではじめてオーストラリアで医薬品として正式に承認(2023年の7月1日以降処方可能に)されている。アメリカでも医療用幻覚剤は今後解禁されるというが、今年に入ってからも米国食品医薬品局(FDA)はMDMAのPTSDへの治療利用について、データの信用性が足りず否認となっている(8月)。臨床試験では、MDMAを服用した患者は、プラセボ群と比べてPTSDスコアの大幅な低下が見られたことから承認への期待は高まっていたが、MDMAの幻覚作用によって患者とプラセボ群は自分がどちらかわかってしまい二重盲検が機能していないなどと指摘されたことが否認理由のひとつだそうだ。
FDAは承認申請していたライコス社に対して、薬物療法のさらなる試験を要求しており、今後アメリカでの医療用幻覚剤がどのような未来をたどるのかいまいちみえない状態といえる。追加の試験や他社の薬が次々承認される可能性もある。個人的には治療用の幻覚剤を解禁してほしいわけではないが、幻覚剤が本当に治療の難しいうつ病にたいする有効な一手となるのであれば、斬って捨てるには惜しい話だと思う。
うつ病の患者数は世界で2.8億人もおり、その3分の1から40%ほどが治療抵抗性だといわれるから、もし本当に効果と安全性が保証されるのであれば、治療薬としての幻覚剤が持つ意味は大きい。著者はいうまでもなく医療用幻覚剤の解禁推進派なので、本書の内容をそのまま信じ込むのは危険だが、エビデンスが乏しい部分や検証が怪しい面についてはそのまま正直に書いてあるので(たとえばFDAの諮問委員会での指摘事項であった、プラセボがプラセボとして機能していない問題についても本書内で何度も言及がある)ある程度信頼はおけそうだ、という感触がある。
幻覚剤を摂取するとなぜ幻覚を見るのか?
本書でおもしろいポイントのひとつは、幻覚剤を利用した時、人の脳内で何が起こっているのかを記載している点にある。幻覚剤はその名の通り、摂取すると現実ではありえない幻覚をみることからその名がつけられている。そうであるならば、幻覚剤を摂取した後の脳内では視覚系の血流が増加しているのだろうと思うだろうが、実際には幻覚剤を摂取しても視覚にかかわる活動には変化がない。
むしろ起こっているのは、通常の脳活動の「低下」なのだという。脳波計や脳磁図を用いた著者らの研究では、幻覚剤の摂取によって、脳の典型的な、リズミカルな脳波パターンが失われることが明らかになっている。『強いアルファ波が弱まり、代わりにより浅い、非同期の脳波が出現することが観察された。』
特になにもタスクに集中しておらず、ぼんやりしている状態の時、脳では神経回路のデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)が活発に活動し脳を統制するのだが、幻覚剤の影響下にある脳を測定したところ、このDMNがオフライン(オフラインの意味がよくわからないが、たぶん活動が停止したという意味だろう)になったのだという。
DMNは、アイデアや信念、心の持ち方などを含む「自分」、「自我」のような人間を統合する思考にかかわっているから、幻覚剤摂取時にこれが止まると、人は一時的に自己を忘れ習慣的な思考を外すことが可能になるのではないかという。
幻覚剤は、手かせをはめられた心を解き放つための手段になるかもしれない。幻覚剤の影響下でDMNがオフラインになったとき、人は習慣的な思考や自分自身についての思いこみから一歩足を踏み出し、いつもの事前知識から逃れるチャンスを手に入れられると私たちは考えている。たとえば、「私は価値のない人間だ」の代わりに、「私は子どもの頃に虐待を受けた。だから、自分には価値がないと思いこんでしまったのも無理がない。そのことを理解した今、私はそのような考えと決別することができる」と考えるのだ。(p.104)
それだけでなく、通常、脳は隣接した領域と相互作用しているが、サイロシビンとLSDの影響下にある時は脳を横断した繋がりが増える。被験者が経験した幻覚が複雑であればあるほど、視覚野と脳の他の領域との間に新しい繋がりが増えたという。こうした、「新たな脳内のニューロン同士の繋がり」が形成されることで、古くからの思い込みや悩みを見直したりが可能になるのかもしれない(と、著者が書いている。)
うつ病にきくのか?
で、それって本当にうつ病にきくの? というのが最大の疑問点だが、少なくとも臨床試験上はどれも成果をあげているようだ。25ミリグラムのサイロシビンの単回投与とセラピーを組み合わせた実験では、深刻な副作用もなく、難治性のうつ病患者に現在提供されているどの単回治療よりも強力な抗うつ効果が得られることを示した。
具体的には、サイロシビンの投与から一週間以内にうつ病の度合いを示すスコアが半減した。臨床試験に参加した患者のうち数人は(初期の限定的な研究なので対象は12人のみ)8年以上うつ病と無縁の生活を送ることができた。著者らは続いて、選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)の主流薬(日本ではレクサプロ)との比較実験を行い、こちらは患者をサイロシビン治療とSSRI治療でランダムに振り分ける二重盲検試験で実施されている。こちらもやはり、ほぼすべての指標において、サイロシビンの方がSSRIの薬よりも迅速に効果が現れ、その効果も高いことが確かめられた。*1
ただ、先にも書いたように幻覚剤利用の場合セラピストも患者も幻覚の有無により自分がどちらかほぼ確実にわかってしまうので事実上二重盲検試験になっていないんじゃないかという問題があり、このあたりに関しては今後の課題でもあるのだろう。
おわりに
と、要点に絞って紹介してきたが、本書では他にも、不安症、慢性疼痛、終末期、アルツハイマー病や認知症、摂食障害、注意欠陥・多動性障害(ADHD)など数々の疾患・症状にたいして現状幻覚剤がどの程度きくエビデンスがあるのか(ほぼ研究されていないものもあるので別に全部にきくわけではない)の紹介があったり。
今流行しているとされる、幻覚が出るほどではない微量の幻覚剤を摂取することで、リラックスしたり精神を前向きにさせる「マイクロドージング」の検証だったり(ちなみに、現在判明している研究の限りではプラセボ以上の効果は存在しないらしい)、そもそもなぜ世界各国で幻覚剤が禁止されたのか(有害性が理由ではないという)の歴史だったりと、幻覚剤を中心に広汎なテーマを扱っているので、この分野に興味がある人はまず手に取るべき一冊といえるだろう。
*1:具体的な効果の差については本書のグラフ参照