基本読書

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人生なんて、そんなものさ―カート・ヴォネガットの生涯 by チャールズ・J.シールズ

2007年に亡くなったカート・ヴォネガットの評伝。ひとりの人生を総括しようというのだから当然なのかもしれないが(実際他の作家の評伝も軒並み長いし)、600ページを超える大著だ。長々としていて、刈り取って欲しいという部分もあれば、ここは足りないんじゃないの、と思う部分もある。が、おおむね網羅的に、微に入り細を穿った内容で、良いところもあれば悪いところまで書こうとする、読んでいてヴォネガット自身をとても身近に感じるような、そんな一冊だ。

ヴォネガットの小説が僕は好きだ。アメリカ文学であるとか、SFであるとか、そういうジャンルを抜きにして、自身の文体と世界観だけでまったくオリジナルな世界を創りあげてみせる異常な才能だと思った。もちろんまったくオリジナルなわけではないけれど。軽く読めるのに笑えて、しかもある社会を常に通常考えられているところとはまったく別の角度からみせてくれる。それは練り上げられた文章と、それを支えているリズムによっているのだろう。

ユーモアがよく話題になるヴォネガットの文章だが、実際の人柄もそうやって周囲の人間を笑わせて楽しく生きてきたのかというと──これが意外といえば意外なことに、まったくそんなことがない。まあ、あまり素晴らしい人生ではない、といってしまうといきなりなんなんだという感じだが、カート・ヴォネガット自身も自分の人生を総括した時に「素晴らしい、文句のつけようのない人生だった!」とはいうまい、と思わせるような内容だ。

最初の妻はヴォネガットの売れない時代をずっと支えてくれたにも関わらず、ヴォネガットは浮気を繰り返し離婚。酒に溺れタバコをしこたま吸い付き合った女はあまり素晴らしい人間ではない。人生においてもっとも手助けをしてくれた人たちとの謎の絶縁を何度も起こし、一時絶頂期を体験したかとおもいきやその後の著作は売れはするものの自身の評価も評論家による評価もあまりよくはない。そんな気むずかしく選択には難があり「はたから読んでいると幸福とは言い切れない」人生を描写する評伝になっている。

無闇矢鱈と悲惨にしているか?

ただこれは語り口に起因するところも大きいと思う。けっしてヴォネガット自身が言っていないし思ったかどうかも定かではないことを書くのだ。たとえばこんなかんじに。『カートはパーティに出席しても楽しくなかった。知った顔に会うこともなかったし、パーティの目的は新しい年や仕事の達成を祝うことだが、カートの心には喪失感しかなかったからだ。』おいおい、なんでこの著者にはカート・ヴォネガットの心の中に喪失感しかないなんてことがわかる?*1

評伝なんてものはそんなものだといってしまえば、まあそうなのかもしれない。けど僕は常にこうした書き方は気に入らないし、うそ臭いと思っている。評伝という名の、著者による人生の勝手な一解釈の押し付けにしかなっていないものも多々ある。本書もその傾向があるのはいうまでもないが(そもそも著者の解釈抜きで書くことなんて不可能である)ところどころ気になるところがあるぐらい、だいたいは誠実なものだと感じた(クズだ! と言いたくなるのは『あんぽん 孫正義伝』みたいなやつである)。

気になるな、と思ったのはヴォネガットが亡くなった姉の子ども達を引き取った所で、子ども子ども子どもでたしかに大変だったとは想像するが、そこでヴォネガットはとても無愛想な、いってみれば子どもたちからはあまり好かれていない、嫌な人間かのように描かれている。ヴォネガットからしてみれば邪魔で仕方がなかったみたいな感じだ。実際付き合いづらい人間であったのは確かだろうが、こうしたところもなんだか説得力にかける描写が続いている。

作家として大成する兆候

スティーヴン・キングがまだまだ幼い頃から母親にオリジナルなストーリーを聞かせていたというエピソードにも見られるように、いずれ偉大な作家になる人間には若いころからその徴候があるものだ。たとえばヴォネガットは、幼い頃末っ子という立場から両親の注意を惹きつけるための一手段として突飛な話を、もっといえばそのころからユーモラスな語りの才能があったことを本書ではほのめかしているし、高校生のころには学校新聞に寄稿するようになる。『人にはそれぞれ、とても簡単にできてしまうことがある。ほかの人がどうして苦労するのかわからないくらい、簡単に。ぼくの場合、それは書くことだった。』

もっとも後年ヴォネガットも思うように書けなくなるのだが。その後も仕事として記者を選択するなど、その時に培われたシンプルな文章をわかりやすく書くことがその後の小説における著作にも充分にいかされている。そうしたヴォネガットの作品に関連するエピソードを丹念に拾い上げていくところは本書の良いところだ(アタリマエの作業であるともいえるが)。キングも学内新聞で小説を書いていたというし、ヴォネガットも書いていたし、学生新聞という文化をあまり日本の学校で観たことがないのでエピソード的に新鮮だったりする。

才能を開花させ、次第に評価されるようになっていくヴォネガットの人生はそこそこ明るい(結婚や悲惨な戦争による捕虜経験、それから度重なる不倫というあっちゃーなできごとが続くが)。その後国民的作家へとのぼりつめていくが、とにかく周りには嫌な女や、うまくいかない人間関係や、それでもしっかりと続いてきた子どもたちとの友好関係があって、そうしたぎりぎりの繋がりが、ヴォネガットという人間の、人間性の複雑さを際立たせている。

引き取った姉の息子が晩年のヴォネガットに向けて送った手紙が象徴的である。そこには『あなたはあなたで、なんというか、つき合いづらいところもあります。でも、それでもぼくがあなたのことを愛していることには変わりありません。』と書かれているが、わざわざ感謝を伝える手紙で「つき合いづらいところもあります。」と書かずにはいられないというのは、やはり文面に書かれている以上につき合いづらい人間だったのだろうと想像してしまう。

不倫を繰り返し、ダメ女にくっついて、自身の作品を駄作だといいながら書評家にけなされるとひどく落ち込み、酒に溺れタバコを吸い続けた弱い人間。しかしこうも思うのだ──、そうした人間的な弱さ、社会でやっていくには適さないポイントをいくつも持ったヴォネガットだからこそ、あれだけ悲惨な状況を(フィクションにせよ自身の従軍経験にせよ)前にして、「そういうものだ」といいながら暖かいユーモアで世界をくるむことが出来たのだと。

 唯一わたしがやりたかったのは、
 人々に笑いという救いを与えることだ。
 ユーモアには人の心を
 楽にする力がある。
 アスピリンのようなものだ。
 百年後、人類がまだ笑っていたら、
 わたしはきっとうれしいとおもう。 ──『国のない男』

人生なんて、そんなものさ―カート・ヴォネガットの生涯

人生なんて、そんなものさ―カート・ヴォネガットの生涯

*1:何らかの根拠となる証言・証拠はあるのだろうけれども