先日こんな記事を書いた⇒みならいディーバという奇跡 - 基本読書 書き終わった後、ふう疲れたと一旦リラックスしてそれを他人が読んだもののように眺めてみたら、なんかこれはけっこうちゃんとした文章だなあと思った。なかなかこの作品についてこれだけ書ける人間はいないだろうと。作品の良さをよく捉えられているように思うし、何より書いている人が本当にこの作品を楽しんだことが伝わってくる文章だ(自画自賛だが客観モードの時はこんなかんじだ)。気持ちをここまで文章に載せるのもそうそう簡単なことではない。そういう時、素直に自分で自分を褒めてあげたくなる。
こうした深い内的な満足さえ得られれば、反応なんてなくたって構わないというのが僕がブログ(に限定しておこう。たとえば依頼された文章は達成目標が増える)で文章を書く上での基本姿勢だし、依然その姿勢は変わっていない。ただ現実認識の方は変わっていく部分もあったなと思う。ブログというパーソナルな場所で書く以上、反応が得られなくても満足感があれば問題ないのはその通りではあるのだが、内的な満足のハードルをクリアしていく過程が結果的に普遍性を獲得していくことがあるようだ。
内的な満足をクリアする為のハードルって、一回一回高くなっていくものなんだよね。みならいディーバの記事も書き終わった時にまじまじと読み返して満足感に浸ることができたけれども、次は少なくともそこは越えていかないと満足感も得られない。自分という人間が他の人間と好みが著しく異なっているかといえば別にそういうこともないのだから、自分が本当に満足できるものを追求して、ハードルが上がっていく、あるいはより深く掘り進んでいく過程は最終的に内的な領域を越えていくように思う。
カート・ヴォネガットの『国のない男』という本の中にこんな一節がある。
芸術では食っていけない。だが、芸術というのは、多少なりとも生きていくのを楽にしてくれる、いかにも人間らしい手段だ。上手であれ下手であれ、芸術活動に関われば魂が成長する。シャワーを浴びながら歌をうたう。ラジオに合わせて踊る。お話を語る。友人に宛てて詩を書く。どんなに下手でもかまわない。ただ、できる限りよいものをと心がけること。信じられないほどの見返りが期待できる。なにしろ、何かを創造することになるのだから。
どのような理屈でそうなるのかということはわからないがとにかく最初に読んだ時から好きで、事あるごとに思い返していたのだけど、先に書いたような事とも通じているのかなと思った。ずっと理屈もわからず信じていたことをあとづけで理屈を思いついたわけで、どうでもいいような話かもしれないけれども、こういう小さな気付きが日々積み重なっていくのもまた楽しいものだ。
だからなんだという話でもないけれど、たとえそれが非常に内的な満足の繰り返しであったとしてもそれを続けていった先には普遍的な部分に通じることが何事にもあるのかなという話だった、ということにしておこう。