基本読書

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ハドリアヌス帝の回想 by マルグリット・ユルスナール

大震災が起こった時に、だれもそれを「たいしたことなかったね」という人がいないように、芸術のような価値判断の決まったものさしが存在しない分野でも、誰もが足を止め隅々まで制御の行き届いた、それでいて常に想像の範囲外に逸脱しつづけていくような、だれもが圧倒される作品というものがある。「たいしたことなかったね」なんて、誰が読んでも本書にたいしてはつぶやけないだろう。圧倒的な質量を誇る描写、文章、一人の皇帝の人生の前に、ただねじ伏せられる。

本書が本国で出たのは1951年のことである。日本で出版されたのは2001年だったようだ(その後2008年に新装版出版)。今更この本を読んだのはブックファースト新宿店での『名著百選 私が今年、出会った一冊』という作家がみなそれぞれ自分の今年出会った一冊を上げている中で、円城塔さんの推薦文が目を惹いたからだった。それは次のようなものである。短いながらも円城塔さん以外誰も書かないような推薦文で素晴らしい。

「コウモリであるとはどのようなことか」を人間にわかるように書くことはできないが、「皇帝であるとはどのようなことか」を皇帝の視点から描くという不可能事を、ユルスナールは成し遂げている

本書は分類でいえば歴史小説といっていいだろうか。推薦文にもあったように、ローマの五賢帝のうちの一人に数えられるハドリアヌス帝が、その死を目前にしたとき、のちの皇帝となることを期待しているのマルクス・アウレリウスへ向けて自身の人生を振り返っている、一人称視点の回想がそのまま物語になっている。出来事は史実によっているとはいえ、歴史小説だ。史実では「あった出来事」しか語られないが、歴史小説は、その空白を埋める。ハドリアヌス帝は62歳にして亡くなっている。その事実はわかるし、変わらない。しかし死をいざ前にして、ハドリアヌス帝が何を思ったのかは誰にもわからない。

しかし一人の人間を描き出すというのは大変なことだ。それが皇帝という特殊な立場ある人間であれば尚更のこと。「絶対に正しい」「立体的な」描写が限られた文字数、制限された言語の中では不可能な以上、そこには無限の想像力と、絶えざる限界への挑戦が必要とされる。著者のユルスナールは驚異的な執着力と誠実さで見事ハドリアヌスを描き切ってみせた。最後、死へと向かうハドリアヌスの心情の描写は今まで読んだどんな作品よりも優れた迫真さと、高貴さをはなっている。

ユルスナールの文章はなめらかだ。しかしなめらかだからといってそれをすぐに通りすぎることができるわけではない。細心の注意を払って構築されたローマの情景、ハドリアヌスの心境に寄り添っていくうちに、ほんの一行を書くのにいったいどれだけの時間が費やされたのだろうと思うほど思考が凝縮されることに気がつく。ただしそうした力み、「歴史公証とかがんばったよ」ということを一切感じさせないからこそ、するすると読めるのである。そしてそうした歴史考証的な正しさと負けず劣らず、美しい語句の使い方に引き込まれる。

ダメな歴史小説のような、人物造形に関して行き過ぎた理想化はなく、極端な卑下もない。ディティールを派手に誇張したり、書くべきことと書かずにいることのバランスを崩したりもしない。注意深く、ハドリアヌスという存在がなにをなしたのか、何を考えたのか、そしてどんな存在になろうとしたのかを描写していく。ユルスナールが本書に着手したのは二十歳の頃だったが、中断をいくどもはさみつつ最終的に書き上がったのは48歳の頃であった。発表するや否や絶賛の嵐であっという間にユルスナールは本書で評価を揺るぎないものにした。ユルスナール自身は覚書の中で下記のように語っている。

いずれにせよ、わたしは若すぎた。四十歳を過ぎるまではあえて着手してはならぬ類の著書というものがある。その年齢に達するまでは、人と人、世紀と世紀とを隔てる偉大な自然の国境を誤認し、人間存在の無限の多様性を見誤る危険性がある。あるいは反対に、単なる行政区画や、税関や、守備隊の哨舎などに、重きをおきすぎるおそれがある。皇帝とわたしとの距離を正確に計算することを学ぶために、わたしにはそれだけの歳月が必要だったのだ。

二十八年もの間自分の中にハドリアヌス帝を存在させ続けるというのはどのような効果を著者の中に産むのだろうか。より親しみが増すのか、より理解が進むのか、あるいは自分自身との同一化が進むのか。なんにせよそうした著者の長い長いハドリアヌスとの付き合いは作品にとってよいことだったのだと思う。僕は読み終えた時に著者が女性だというのを知って驚愕した。この文体、この皇帝の人生を、異なる性別の身で書けるものなのかと。ジェンダーの差は多くの場合思い込みだとは思っている。人間の能力はそんなこと軽く超えてみせる。しかし、それでもだ。それでも驚いてしまった。

ユルスナールはブリュッセルで1903年産まれ。そしてその十日後に彼女の母親は亡くなった。まだ子供を産むことが今ほど安全でなかった時代である。その後ユルスナール9歳の頃にパリへ移り住み、学校へはいかずに幾人かの家庭教師に教わっている。このあたりの生い立ち情報はNew York Timesの記事を参照しているのであしからず。*1。優れた作品を世に放つ作家が努力や理屈を超えて幼少期からその才能をいかんなく発揮していることがあるように、ユルスナールもまた才能としかいいようがない幼少期からの特別な文章能力を発揮していた。9歳の頃には自身で学ぶ方法を覚え、詩を書き始めていたが、その詩が既にすごい。

彼女はバイセクシャルであった。その影響か、作品の主人公には同性愛者が多いという。本書の主人公ともいえるハドリアヌスもまた有名な男色家だ。当時はとくに禁じられたことでもなかったこともあって、美男子への愛があけすけに描かれている。様々な書き手のタイプがいるが、ユルスナールは自身を作中人物に重ねあわせ没入していくタイプの作家だったのだろう(キャラクタの内面に没入しないで書ける人間なんてそうそういないのかもしれないが)。彼女もまた一時期において相手を男女に問わず性に放逸だった時期があったが、その間でさえも絶えず書き続けていたという。

僕はハドリアヌス帝がどんな人間であったか、どんな皇帝であったのか、といった知識をほとんどもっていない。賢帝出会ったらしいことは知っているし、男色家であったことも知っている。平和を築き上げたことも知っているが、実際にどんな人間だったかなど知りようがないのだから。だからこそハドリアヌス帝にたいする「リアリティ」みたいなものの判定基準を持っていない。漠然と「皇帝はこんな人なのだろうか」というイメージを持っているぐらいだ。が、ユルスナールが描くハドリアヌス帝は信じられないぐらい魅力があり、力ずくで納得させられてしまう。

自身の人生への絶対的な納得感。自分を世界の中でのたんなる一皇帝、されど一皇帝であるとして、その権限と能力が後世に及ぶ範囲を冷静に見つめている客観性。周りにいる人間の個性と考えを把握し、人間に存在する限界を正しく把握し受け入れることの出来る知性。完璧な人間ではなく、いびつな部分があるのだがそれもまた皇帝のスケールに見合ったようなとんでもなさだ。

愛する美男子が事故で死んだ時などは神殿をつくり都市をつくり帝国中に彼の像を建てた。いったいその時彼の治世下にいた人々は何を思ったのだろうか。皇帝ご乱心どころの騒ぎじゃない、愛する人が死んだからといってその像を街中にたてられたり神殿をつくられたりしたらたまったものではないぞ。しかしそれがハドリアヌス帝だった。ある部分においては賢明であり、ある部分においては狂っていたのだろう。

皇帝自身が自覚していたと書かれているように、彼は決して普通の人ではなかった。こんな陳腐な表現の数々じゃ決して表現しきれない、人間性の描写はあまりにも素晴らしく、冒頭から本をとりおとしそうなほどの震えがくる。人間が時間をかけて、そして才能をあらん限り費やして構築された文章は、時間を超えて人間を震わせ、なんてことのない場面でさえ一瞬で涙を出させるのだ。これだ、これが文章の力なんだよ、文章ってのはここまでできるんだ。

医師の面前で皇帝たるは難い。人間としての資格を保つこともむずかしい。職業的な目はわたしのなかに、体液のかたまり、リンパ液と血液のあわれな混合物をしか見ていなかった。今朝、こんな考えが、はじめて心に浮かんだ──肉体、この忠実な伴侶、わたしの魂よりもわたしのよく知っている、魂よりもたしかなこの友が、結局はその主をむさぼりつくす腹黒い怪物にすぎないのではないかと、だがもうよい……わたしは自分のからだを愛している。このからだはあらゆるやり方で私によく仕えてくれたのだ。いまとなっては世話のやける彼の面倒を見ないわけにはいかぬ。しかしわたしはヘルモゲネスがいまなお当てにしていると主張するようには、薬草のすばらしい効能や、東方にまで彼が求めに行った鉱物塩の的確な調剤などを、もう信じてはいない。頭がよいくせにこの男は、だれもだまされないほどつまらぬ気休めの曖昧な処方をわたしにすすめた。彼はわたしがこの種のペテンをどんなにきらっているか知っているのだが、しかし全然いんちきなしに三十年以上も医術を施すことは人間にとってまず不可能なことなのだ。わたしの死をわたしから隠すための努力を、わたしはこのよき僕にゆるしている。ヘルモゲネスは学があり、懸命ですらある。誠実さにおいても彼はありきたりの宮廷医よりはるかにすぐれている。幸いなめぐり合わせによって、わたしは病人として最善の看護をうけることになろう。しかし何人も定められた限界を超えることはできぬ。もはやわたしの腫れあがった足は長々しいローマの儀式のあいだじゅうわたしを支えてはいられないし、呼吸も苦しい。そしてわたしは六十歳である。

すべてを把握し、未来を見通しているかのようなハドリアヌス帝だが、いくどかの失敗、挫折を味わっている。そうしたことも含めて彼は回想として語っていく。何もかもが常軌を逸していたわけではなかった。よき軍人ではあったが偉大な武人ではなく、芸術の愛好者ではあったが突き抜けた芸術家ではなかった。数百年は残るであろういくつかの改革をしたが、何千年残るような改革を行うことは出来なかった。かといって誰もがたどるような中庸な道を歩んできたわけではない。こうした絶妙なバランス感覚はユルスナールの絶えざる努力の賜物だろう。

詩人はまるでこの世とは思えないような甘美な世界を歌い上げてみせる。歴史家はすっかり血の気を失った死体のような、完全な体系をつくりあげようと苦心を続けている。ユルスナールは片足を歴史の中に、片足を神秘的な詩の世界へとおきながら見事にその両者を融合させている。本書は死、つまりは歴史から非現実に至る物語であるが、まさにその死へと向かっていくハドリアヌス帝の描写は優しく、心境は愛情に満ちている。この愛情は無根拠な、博愛的なものでなく、他人に対しても自分に対しても、これまでたどってきた失敗や成功や喪失を何もかも把握した上での愛情なのだ。

『人生は無残なものだ。それはわかっている。だが、人間の条件からたいしたことを期待していないからこそ、まさにそのゆえにこそなおさら、幸福な時代、部分的進歩、再開と継続の努力が、もろもろの悪や失敗や怠慢や過誤の膨大な集積をほとんど償うに足るほどのすばらしい脅威と思われるのだ。』皇帝という畏れられ、敬われ、神のように扱われる存在。『人々はわたしを崇めている。わたしを愛するにはあまりにわたしを敬いすぎている。』それはある意味では絶対的な孤独だが、彼は自分や他人に関わらず、その弱さをも愛したのだった。

偉大な皇帝の死へとのぞむ皇帝の心境に、最後は涙が止まらなかった。悲しいのではなく、その偉大さにたいして。

ハドリアヌス帝の回想

ハドリアヌス帝の回想