- 作者:イアン・ヴォルナー
- 発売日: 2020/03/28
- メディア: 単行本
本書は、広く壁一般についての本である。とはいえ、人類の歴史上あらゆる場所に壁は存在していたわけで、それらを網羅的に語ろうという本ではない。取り上げられていくのは万里の長城、ベルリンの壁、ハドリアヌスの長城、それにトランプの壁など有名なものばかりである、その政治的、軍事的、歴史的意味、さらにはもっと抽象的な「壁の意味」についてと横軸は豊かに語っていく。語り口に詩情が溢れていることもあって(「壁」を語る上では必要なものだっただろう)、非常におもしろかった。
ルポタージュと神話、現在と過去を組み合わせて示し、心と身体で壁の感覚をより身近に感じてもらえるようにしたいのだ。本書全体の目的は、こうした建造物とそれを取り巻く物語の感情面の意味を、単なるメタファーとしてではなくありのままに伝えることにある。
最古の城壁
最初に取り上げられるのは紀元前8000年頃、既知の中では最古の城壁があるイェリコだ。最古の城壁はどのような目的で作られたのか? 普通に考えたらその第一の機能である防衛のためだろう、となりそうなところだが、実はイェリコの壁は戦争とは無関係だったとみられている。紀元前8000年代に激しい戦争があった形跡はない。
最初の壁が作られた時代の埋葬地を発掘しても、男性の寿命は当時としては長かった。では、なぜ城壁はつくられなければいけなかったのか。一つ仮説としてとなえられているのは、「イデオロギー的な理由」だったのではないか、というものである。壁の内側には高さ8.5メートルの巨大なタワーがあり、太陽が沈んだ時背後の丘陵のおかげでタワーがちょうど集落に重なるように影を落とす。周囲の壁は近隣の山を象徴したもののようにも見え、『壁とタワーがつくられたのは、だれかを締め出すためではなかった。人を感動させて招き寄せるたためだったのだ。』という。
この考えを聞いたら、啓蒙時代の思想家たちは驚いただろう。世界で最初のこの壁は、おそらく特定の目的のためにつくられたわけではなかった。壁の存在理由そのもの──差異の概念それ自体──をつくりだしたのである。「われわれ」だけでなく「彼ら」もいるという考えがここに産まれたのだ。考古学によってわれわれはイデオロギーと神話の世界にあと戻りし、へーレム、ヨシュア、ゴグとマゴグの時代にさかのぼることになった。
トランプの壁
一方で現在進行系で作り上げられようとしているのがメキシコとアメリカの国境のトランプの壁だ。本書は原題が「The Great Great Wall」であるだけあって、主題のひとつに「なぜ、トランプの壁はつくられてしまったのか?」という問いかけが含まれている。そもそも、メキシコと国境の間に壁を作ろうとしたのはトランプがはじめではなく、フェンスや監視システムはその何年も前から建設されていた。
国境にそって1000km以上のフェンスを建設する「2006年安全フェンス法」が上院を圧倒的多数で通過するなど、麻薬や不法の移民に対する強い排斥感情はアメリカの中に根強く残っているのである。だから、トランプが「壁を作る」と言い出したのは、歴史的な敬意からみると突飛な発言というわけではない。ただ、トランプ自身は大統領候補になってそうした発言を始めた時はそうした歴史的経緯について、すでに1000kmものフェンスが設置済みであったことは一切知らなかったとみられている。
『「わたしは大きな壁(a great wall)をつくる」。この新顔の大統領候補はそう宣言した。「わたしよりうまく壁をつくる者はほかにいない。信じてほしい。それにわたしは、とても安くそれをつくるつもりだ。大きな大きな壁(a great,great wall)を南の国境につくるのだ」。』とトランプは語るが、重要なのは偉大さ(great)の強調、アメリカが偉大な国家へと返り咲くことへの強調とイメージを呼び覚ますことなのであって、実際的で機能的な「壁」に対する興味は彼の中には存在しないようだ。
というのも、アメリカの全体では62%が壁に反対していて、支持は34%に過ぎなかった。だから、単純に選挙のことだけを考えれば壁の話は出さないのが懸命といえる。そのことについて問われたトランプの答えがおもしろい。『「ちょっと退屈になってきたな、客がひょっとしたら帰ろうとしているのかも、と感じたらこう言うんだ。”われわれは壁をつくる!”そうしたら一気に盛り上がる」。』
壁には様々な役割があるが、トランプの壁は、国境の壁が実際に移民の制御に意味があるかなど関係なく単純に政治のための手段だった。
おわりに
「象徴」としてのイェリコの壁。「分断」「隔離」のためのベルリンの壁。政治の手段としてのトランプの壁。最初は防衛のために、以降時代ごとに異なる役割を与えられてきた(あるいは与えられてこなかった)、万里の長城。防衛拠点としてだけではなく、諸民族を束ねる場として機能としたハドリアヌスの長城など、壁と一言でいってもそれが果たす・求められる機能はどれ一つとして同じではないのがおもしろい。
現代では軍事的にはほぼ無意味になったとはいえ、市民の移動を妨げたり区切ったり、何より象徴としての壁の機能は依然として有効である。2016年、フランスはカレーの街に壁をつくり、チェニジアは隣国リビアからの暴力の飛び火を防ぐために数百万ドルの壁の建設に着手。エクアドルはペルーとの国境の間に壁をつくろうとしていて──と、壁をつくることで「われわれ」と「彼ら」を区別しようというのは、人間の感情や本能に根ざしたものなのかもしれない。そうした、人間心理に潜む「壁」にまで射程がおよぶ本なので、興味のある人はぜひ手にとってもらいたい。