基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

認知科学の観点から最適な脚本を導き出すための一冊──『脚本の科学 認知と知覚のプロセスから理解する映画と脚本のしくみ』

先日認知科学の観点からみた、最強の英語の勉強法について書かれた『英語独習法』の記事を書いたばかりだが、今度は認知科学meets脚本術! 脚本技術について書かれた本は数多くあるが、認知科学・神経科学からのアプローチははじめて読んだ。

数多くある脚本術の本だが、矛盾していたり、違うことを言っているケースも珍しくない。脚本を17のステップにわけたり、22にわけたり、全体を三幕にわけたり、七幕だったり、さまざまな理論があり、読むと全部もっともらしく見えるが、それに反するヒット作も多々ある。本書は、そうした先行する脚本術を拾い上げながら、人間の視覚や脳の認知的に、よく用いられる三幕構成にはどのような意味があるのか、どんな技術を用いることで人の注意を持続させられるのかを解き明かしていく一冊だ。

科学的知見の中には、「キャラクタに葛藤させるのが人を惹き付けるためには重要だ」みたいな、「神経科学的説明で説明されなくても当たり前やろがい!」と言いたくなるような解説もある。が、そういった当たり前のものに対してもちゃんと理屈づけていくのがまたおもしろい。基本的に映像作品の脚本についての話だが、キャラクタの作り方や人間の注意の引き方など、小説など他媒体に活かすこともできる。

スキーマの破壊

最初に取り上げられていくのは、認知科学では最重要概念である「スキーマ」だ。物事を理解して行動するための、ひとかたまりの知識の体系で、我々は過去の体験や記憶からぐるるるる、と唸っている犬は怒りか敵意を抱いており、逃げる必要がある、と判断する。映画的にいえば、「スキーマ」は「シーン」の内側にある。ラッピングされた箱の山、リボン、紙のお皿とフォーク、巨大なケーキが置かれているシーンがあったら、それは自然と「ああ、お誕生日会だな」と理解されるだろう。

映画におけるスキーマは「起こることへの期待・予測」だ。誕生日会の場が整えられていれば、陽気な人々が入ってくるかもしれないし、クラッカーが突然なるかもしれないし、と期待が観客には巻き起こる。優れた脚本では、このスキーマ通りに物語を作ったり、破壊・裏切りを繰り返すことで視聴者の注意を惹き付ける。たとえば、お誕生日会でハッピーバースデーの歌を歌いだすことは何の不思議もない。しかしその直後に銃を持った男がケーキから飛び出し人を銃殺すれば、スキーマは破壊される。

具体的な映画でいえば、『アダム氏とマダム』(49)という映画には、男性で銃を持ったアダム氏が女性と対峙しているシーンがある。最初銃は女性に向けられており、これは今まさに女性が撃たれることを予感させるシーンだが、次の瞬間アダム氏は銃を自分の口の中に突っ込む(スキーマの破壊1)。その行動は自殺を予感させる。しかし、その後にアダム氏は銃を噛み砕いて喰ってしまい、「自殺するかも」というスキーマは再度破壊される。アダム氏が持っていた銃はキャンディーでできていたのだ。

観客に「こうなるかも」と予想をするように仕向け、それを操作する(裏切られ続けたら疲れてしまう。緩急が重要だ)ことができれば、脚本全編にわたって観客の注意、関心を惹き付けることもできる。

主人公は猫を救わなくてもいい

『SAVE THE CATの法則』のスナイダーは、観客が主人公を最初に目にする時、その人はなにか賞賛すべきことをしていなければならない(たとえば、猫を救うとか)という。そうすれば観客はその登場人物を好きになるからだ。とはいえ、『ブレイキング・バッド』での主人公など、最初のシーンで賞賛される行動をとっていない人気キャラクタなどいくらでも挙げられるだろう。猫を救うのは必須ではない。

人間の感覚器官はすべて、思考を担当する大脳皮質に到達する以前に、感情の中枢を経由し、数々の手がかりや断片を通して一人の人物像を勝手に作り上げる。だから、その人物がたとえひどい悪事に手を染めていても、感情的に共感できれば問題はないというのが本書の結論だ。『ブレイキング・バッド』の主人公は違法なメタンフェタミンの製造に手を染め、悪の道を突き進んでいくが、彼の行動は家族のためのものであって、そこに我々は尊敬することができ、感情的な絆は視聴中ずっと維持される。

キャラクターの活動/手がかりが、私たちが共感を覚える行為──たとえば、血縁者がするような行為──と一致しているかぎりで、私たちは家族の絆を作ることができ、それゆえ感情的にキャラクターとつながる。(……)ストーリーの作者はキャラクターを好きになってもらうためにわざわざ猫を救っているキャラクターをひねり出す必要はない。単に誰もが共感できるような活動をさせておけば十分だ。

感情的な絆が観客と主人公の間に生まれれば、観客は自発的に「探索」(探索システムはヤーク・パンクセップ教授によって提唱されている概念で、探索・探求することそれ自体が報酬であるとする)し、「彼女はこの窮地から抜け出すのか?」「彼は莫大な金を手に入れるのか?」と問いかけをするようになる。そして、こうした問いかけをして、その結果を心待ちにすることそれ自体が快楽を生み出すのだ。

人間の「探索したがる」志向と、「スキーマ」に従って見えている情報から未来に起こることを推測する志向は、映画でどうやって情報を開示していくのか、という状況説明にも応用できる。冒頭からその世界観をべらべらべらと台詞で説明したり、登場人物たちが何に困っていたり何を目的としたりするのかを独白させると状況説明の情報量としては完璧だ。しかし、事実をただ述べただけの情報を漫然と聞かせることは、生来の観客の知覚プロセスを利用しないので、その情報は注意をひかない。重要なのは、情報を仄めかし、キャラクタがどのような背景を持っていて、どのような思想・動機を抱えているのかといった情報を、パズルのように理解させることだ。

おわりに

他にも、視覚的なコントラストに脳がどのように反応するのかを通して最適な映像演出を考える第3章コントラストの科学であったり、眼がどのように注意を誘導されるのか、という生理学的な理解からいかにして映画監督は観客の注意を操作するかなど、実際の映画のスクリーンショットがないと説明が難しい(から本記事では紹介をはぶいた)部分などもおもしろい。恐らく原文がかなりの悪文と思われ、うん? と思うような文章もあるが、脚本に興味のある人は要チェックだ。