基本読書

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乳しぼり娘とゴミの丘のおとぎ噺 by ラティフェ・テキン

1984年に出た本の訳書が本書『乳しぼり娘とゴミの丘のおとぎ噺』になる。そんなに前に出た本が訳書として出るんだから、さぞや有名な人が著者なんだろうなと思ったら、著者のラティフェ・テキンさんはトルコの作家でノーベル賞作家オルハン・パムクと並んで、現代中東文学を代表する作家として世界的に注目されているらしい。オルハン・パムクと並ぶとははあ、知らなかったなあ。きっとこんなふうに世界的には有名でも訳書が出てないばっかりによく知らない作家がたくさんいるのだろう。

文章はきっちりと締まっており無駄がない。陰惨な出来事を多数扱っていながらもどこか描写自体はどこかコミカルに、まじめに語りながらも常におかしみに転化される部分を含んでいるような文体で、お話全体のバランスを適切に保っていく。読んだ感じで一番近いのは『百年の孤独』の街バージョンってところで、まあそこまで現実から飛び去っていくわけではなく、あくまでも現実と地続きな世界観ではあるのだが、歴史が圧縮され描写されていく様はまるでシムシティをやっているみたいだ。

トルコの作家ということで、本作の舞台も、トルコではあるようなのだが読んでいる間はあまり国を意識することはない。重要になってくるのはあくまでもゴミの丘であり、そこに暮らす人々である。そう、そこが本作最大のおもしろポイントで、特定の誰かを追っていく話ではないんだよね。乳しぼり娘とタイトルに入っているけれども、これは誰か特定の人間を指した呼称ではない。重要なのはゴミの丘の方だ。ゴミで埋め尽くされた丘に、なんだかよくわからんがとにかく人間が家をつくって住み着いて、最初は少数派だった彼ら彼女らの元になんだかよくわからないうちに人が集まってきていつのまにかゴミの丘の家々は「花の丘」なる素敵な名前で呼ばれるようになる。

名前だけ素敵になっても実態は人間が突如集まってきて家を一夜で建てたような残念な街、というよりかは家があるだけで他に何があるわけでもない。ないものは自分たちで作らなければならない。街には様々な人達がいる。様々な人達は様々な物語を持ってやってきて、さらには街を形作っていく部品になる。誰かを中心にして語られていくことはないが、花の丘に住む人々について特徴的な人間がピックアップされて、花の丘に新たな施設が誕生すれば、その形成過程について語られていく。人は誰しも自分の人生を物語として本を一冊ぐらいは書くことができるというが、様々な人々の様々な物語が断片的に語られ、それが花の丘の中で統合され多角的に立ち上がってくる。

あんまり類似する作品を読んだことがないから表現するのがえらく難しいのだがこの個人の内面を掘り下げていくのではなく、とある共同体の中に住む人々固有の環境、固有の歴史、そしてそこから生み出されていく固有の心情にフォーカスを当てて、とある共同体自身の変化を書いていくところが本当に面白かった。個人にクローズアップして一息に一生を描写してみせたかと思えば、ロングショットに切り替えて街全体の歴史と運動を描写していく、その緩急によってこちらの頭のなかに花の丘がマッピングされていくことになる。たとえば個人に焦点をあてた節はこのように始まる。

 ラドこそ、ゴミの丘の珈琲店が生んだ最初の英雄だ。彼は<花の丘>に越してくるずいぶん前から、熱に浮かされたように夜闇を生き、比類ない冒険を重ねてきた博打うちだった。のちに<花の丘>には<ナトー大通り>だけで百五十軒もの喫茶店が軒を連ねることになるのだけれど、そのころでさえラドの冒険譚は一夜建ての住人たちの口承文学の好例として語り継がれたものだ。「博打を発明した人間が偉大なのか? さもなければ、すべての創造主たる神が偉大なのか?」ラドは生涯にわたってこの問いの答えを探し求めた偉人であるのみならず、その独特の服装や博打から足を洗い、自らの人生を書き綴ろうと小説の執筆に献身した後半生、あるいは四人の妻たちと別れた理由等々──それらすべてによって英雄に祭り上げられた男だ。ラドは博打の名人であるがゆえに、人生のあらゆる局面で大きな賭けに打って出ることで、かくのごとき名声を得たのである。

こうやって個人を描写していくこともあれば、街に銀行の支店ができて住人が驚愕するエピソード、住人たちが家を建てた後最初にしようとしたのがモスクを建てることだったエピソードなど、だんだんと時間を経るごとに街に新しい施設ができ、人が増え、発展していくのもシムシティみたいで面白い。といってもシムシティで公害が発生したり火事が起こるように、発展はいいことばかりではない。物事というのはそれがどれだけ悲惨な出来事であれロングショットでみると一瞬で過ぎ去り、物悲しさ、悲劇性といったものは消失していくものだ。本作はあらゆる出来事が歴史に回収されるようにさらっと流されていくが、扱われている事態は深刻なものが多い。

最初に金もなくゴミを拾っている男たち、女たちもそうだが仕事もなく工場で奴隷のようにこきつかわれ、工場周囲に娼婦が溢れかえり、公害病が発生する。地元出身の人間が猛烈に働いて花の丘すぐそばに工場をつくってみれば、いつのまにか最初に創った人間は作業着を着なくなりきれいな身なりで新しい工場長を外から導入し、近代的なシステムが導入され正規職員と期間工にわけられ給与体系も一変させられてしまう。なんだかどこかでみたような暗黒環境があっという間に構築されあのゴミしかなかった花の丘がどんどんと大きくなり同時にその在り方は変質していく。

ゴミの丘に突如家を建てた集団からこの花の丘の物語は始まるわけだが、それだって簡単にいったわけではない。当然ながらゴミの丘には所有者がいて、最初は建てた家が解体業者にばらばらにされてしまっている。それでも驚異的な粘り強さで舞い戻って、雑草が何度踏みつけられても力強く生き返るように住人たちはそこに家を、街を築き上げていく。後にいくつもの悲劇と困難がこの花の丘を襲うが、民謡や踊りや、まじないのような宗教的儀式を経て、その純粋さを糧にその度ごとに乗り越え、よりしなやかになって生き返ってくるような、個人の力強さも街の歴史と共に描写されていくのである。

悲惨な事態や起こる問題の数々はトルコの歴史との呼応として読むこともできる。たとえば解説を読む限りでは説明が削ぎ落とされ絵空事にしか思えなかった「突如人間がゴミの丘に家を建てて住み着くようになる」ことも金のない農村からやってきた仕事を求めた超貧乏人たちが、なんとか都市の郊外部に住み着こうとして一夜建ての家を構築して行政が容易に手出しできないように既成事実を創りあげてしまおうとする。行政は当然それを阻止しようと解体業者を送り込むが、次から次へとやってきて一夜建てを作るので行政は不法移住を見逃さざるを得なくなってしまう。そうか、そんなことが本当にあったんだな。

しかし本編ではそうした事情は削ぎ落とされ、語られることはない。だからこそおとぎ噺的に抽象化された花の丘の物語として読むと普遍的に訪れる個人の苦境を描いているものとして捉えることができるし、だいたい僕は読み終えた時点でトルコの作家であることを知ったぐらいなのでそこはあまり重要ではない。人間というのはだいたい集まって発展すれば同じようなプロセスを経るものであり、何より街の発展というすべてを見られないほど大きくはなく、かといって一つ一つをじっくりみるには大きすぎる対象が変化していく様を見守っていくこと、それ自体が歴史だ何だのは抜きにして楽しかった。

人に歴史があるように、街にも歴史があるものだ。何もかもが出来上がって受け継いでいくしかない現代ではあるが、ここには街の……というよりかは、人間が集まって発展させていく現象そのものの起源がある。

乳しぼり娘とゴミの丘のおとぎ噺

乳しぼり娘とゴミの丘のおとぎ噺