自分の中でひとつの文体が固まってきた感覚がある。
七年もblog書いて、書いた総文字量が四百万文字を越えようかというのだから、いまさらな話ではある。つい最近までひとつの記事の中でですますとだ、であるが混ざっているぐらいだったから、月日も書いた分量も対して問題にはならぬのかもしれないが。と前置きはこれぐらいにして今日は文体の話。しかし文体を語るのは、いつも思うのだが難しい。
文体を語る文章それ自体が文体の中に含まれており、「これこれこういうものだよ」と相手に提示しにくい。それは文字の並びであり、そこから生み出される感覚はパラメータ的に評価できるものではない。もちろん小説における文体と、こうしたくだけた文章における文体と、お固い学術書のようなものを書くときでの文体は異なってくるから一概にいえるものでもない。
文体ができてきたといいながらもどうも僕の文章はかもしれぬ、とか気もするとか、一概にいえるものでもない、とか、あやふやな印象をあたえる言葉で塗り固められている。このへんもっと断定的にして、すっと通るような文章にできればいいのだが、そのあたりには、あまり興味がわかない。
自己確認の為の文章がまず第一目的にきているからであり、文章を売るようになればまたそちら方面への興味が湧き、異なった文体になっていくだろうと思われる。つまりこの文体はblog専用、それも特にPVを意識することのない、書き散らし専用のものだといえよう。とまあ、ここからは小説についての文体の話に話題を絞っていく。
小説における文体
小説を書くにしても、作品ごとに文体というのは変わるものだ。一人称小説であれば、主人公が変わったのに文体が変わらなかったらおかしい、と僕は思う。文体とはある意味世界の見方である。たとえばなんの変哲もない小学生の一人称が難しい漢字を使いまくった昭和の文豪みたいなスタイルだったら違和感があるだろう。そんな感じ。もちろん文体が変わらない(変えられない?)作家も幾人もいることだろうが、それが良い作用を生んでいることはあまりないと思う。
ただ漫画家毎に絵柄があるように、作家の文体にも人それぞれの得意不得意というものがあり、その強みを見つけ、その方面での能力を強化していくことのできた物書きはみな強いと思う。
強烈な個性を持った文体の作家たちは、それだけで好きになってしまう。村上春樹はいうに及ばず、夢枕獏に町田康に筒井康隆、北方謙三に円城塔にサリンジャーに──きりがないからやめよう。逆に森博嗣とかは、僕は大好きな作家だが文体の個性としてはだいぶおとなしめだと思う。スカイ・クロラで一瞬で行を切り替えていく演出などは独特だが、あれは文体ではなく演出技法だという認識になる。
好きな文体の中では──たとえば筒井康隆の文体は乾いており、現状を正確に捉えつつも、どこかしら常にユーモアを含んでいる。ドタバタと特殊な状況下であたふたする人間を書く場面になると、その乾いた描写は異常な状況をより引き立てることになる。北方謙三の文章は岩を削っていくような硬質な文章だが、そこには同時に成熟した男の色気をにじませてくる(それは三国志のような歴史物でも同じだ)。
中でも町田康ときたら、これはもう説明不可能。その最高傑作である『告白』の冒頭をみよ。
安政四年、河内国石川郡赤阪村字水分の百姓城戸平次の長男として出生した熊太郎は気弱で鈍くさい子供であったが長ずるにつれて手のつけられぬ乱暴者となり、明治二十三年、三十歳を過ぎる頃には、飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な無頼者と成り果てていた。
父母の寵愛を一心に享けて育ちながらなんでそんなことになってしまったのか。
あかんではないか。
あかんではないか、でぞわぞわっとくる。まず最初の文章がほぼ漢字だけではじまるところでなんじゃこりは、なにやら難しい話が始まったのかなと思う。そのすぐ後に、気弱で鈍くさいとか手の付けられぬ乱暴者とか、やたらと小気味いい文章が続く。そして一息ついたかと思ったら、「作者が世界にツッコミを入れてくる」。
なんだ、それ。滅茶苦茶だ。「作者がツッコミを入れたら、あかんではないか!!」と思わずツッコミを入れたくなってしまう。しかもこれ、「だめじゃないか」だと完全に作品が死ぬよね。「あかんではないか。」と関西弁だからこそそれまでの雰囲気がすべて吹き飛んで、物語がぐるんと回転して得体のしれないところへと踏み込んでいく。なんなんだ、これは、と。
一定していない文章だ。漢字だらけかと思ったら突然くだけた文体になり、そうかと思ったら突如真面目に時代小説を書き始め……たと思った瞬間にメタ視点からのツッコミが入る。縦横無尽。あらゆる要素がぶちこまれていることがこの短い一文でもわかるだろう。円城塔さんの不安定な文体などは町田康に似ているが、種類としてはまたまったくの別物で、文体というのもこうして一人一人千変万化し語っても語りきれるものではない、奥が深いものだと思う。円城塔先生の文体について - 基本読書
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