基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ソラリス by スタニスワフ・レム

ハヤカワ文庫通巻2000作品。ハヤカワ文庫補完計画の一貫で国書刊行会からポーランド語からの訳で(従来の英語からの重訳でなく)出たものの文庫化となった。移動させるにはなかなか面倒もあっただろうけれど、こうやってきちんと文庫の形で読めるのがありがたいところ。2000番に相応しい作品でもあるしね。Amazonのreviewで訳については多少辛辣なコメントがついているけれども、一読して僕は大きな問題を感じなかった。もっとも元の訳と突き合わせたわけでもなければ、ポーランド語が読めるわけでもなく英語で確かめたわけでもないけれども。

今読むと、さすがにちょっと古くさいかなと危惧していたことはあったのだけれども──いやいや、なんの問題もなかった。この本を僕がはじめて読んだのは2007年のこと。初読時は意思を持った海に表面を覆われた惑星というイメージにすっかり魅了されてしまったことを覚えている。今では僕の中には惑星ソラリスがどっかりと腰を下ろしているから、同じような概念に出会ったとしてもソラリスの隣のポケットに収まる程度で終わってしまう。しかし今考えてもスゴイよね。

普通エイリアンといえば人型とはいわないまでもなんか「個体」と一目でわかるものだろうという「常識」で生きてたのに「海それ自体が思考する生命である」「しかもそいつは別にこちらに対して何のリアクションも返してこない」といわれたら「そうか!!!! そういうこともあるのか!!!!! そうか!!!!!!!」とびっくりしてしまう。「考えたこともなかった」概念を提示されるのは、そのまま僕の中の「世界とはこういうものである」という世界観が一度破壊され、別の形に組み直されていくことでもある。

いきなり意思ある海など語り始めてしまったけど、簡単にあらすじでも紹介しておこうか──と思ったけどなんだか気がのらないから簡単にすませてしまおう。主人公であるところのケルヴィン君は惑星ソラリスという何十年も前から意思ある海があるとされている惑星に心理学者として調査に赴く。そこの調査員はみんな狂ったようになってしまっており、彼自身もそこでかつて死に別れた昔の恋人と突然遭遇することになって──殺しても死なないそうした幽霊のようなもの、これは意思をもった海の仕業なのか? そうであれば、なぜ? 我々は正気なのか? 狂っているのか? というような、ホラーと恋愛とSFと色々なジャンルが混じったような作品だ。

どうもあらすじの紹介に気がのらないのは僕がこれを基本的には描写の小説として楽しんでいるからである。意思ある海とはいってもこの海は別段「はろー」などといって話しかけてくるわけではなく、物を三回投げ入れたらばしゃーんとどこかで水柱が立つなどの再現性があるわけでもない。じゃあそこに意思があるかどうかなんてなんでわかるんだと思うが、電気的、時期的、重力的インパルスを発生させており数学の言語を話していることはわかっている──などなどまあいろいろと理屈はついている。要するに何を言って・やっているのかはさっぱりわからないがそこには意思を仮定しなければ説明の付かないパターンが現れているということだ。

異星の生命体をレムのような形で書いた元祖は誰だったのかわからないが、今ではこの『ソラリス』があるもんだから、誰もがこのイメージからすっと離れるというわけにはいかない。だからフォロワーも随分現れたし、アップデートもかけられているわけだ。これをはじめて読んだときは僕もまだSFビギナーだった。随分とその後たくさんのSFを読んできた、そういうことも踏まえて「古くさい」と思う可能性があるかなと思っていた。ところがレムは原初的なアイディアの提示とはまた別の、描写のレベル、病的なまでにこの惑星ソラリスと意思ある海という未知なるものを描写することで、アイディアが古びるのとはまったく別の次元で本作をSFとして成立させているのだ。

何しろ何も言わないし、再現実験もできないわけだからそこは必然的に「ソラリスの海はこういうもんなんじゃねえの」と解釈合戦の体をなしてくる。あいつらはいったいなんなのか。我々は既に異星生命体とファースト・コンタクトをしているといえるのか、いえないのか。レムはほとんど一冊を通してこの海がいかによくわからないものなのか、そしてそこにはどんな可能性がありえるのかを手を変え品を変え延々と描写していく。「わからないもの」を「わからないまま」に描写していくのはけっこう難しいことだ。何しろ描写した部分についてはわかってしまうということであり、わからないと言い続けるには「何がわからないのか」をきちんと明確化しなければならない。

ギーゼはたいして想像力が豊かではなかったのだが、この性格はソラリス研究者にとっては弱点以外のなにものでもなかった。想像力と迅速に仮説を作り出す能力がこれほど有害にならないところは、おそらく、他にはないだろう。結局のところ、この惑星ではどんなことでもあり得るのだから。原形質が作り出す様々な模様についての記述は、どんなに信じがたく思えるものであっても、おそらく十中八九は真正なものである。ただし、だいたいの場合、それを確かめることはできない。海が自分の変化を繰り返して見せることはめったにないからだ。

こうした語りではじまる「ソラリスとは何なのか、とりあえずいまわかっている断片的な事象は何なのか」についてのおよそ30ページにも及ぶ語りは、あまりにも詳細でそれでいて「わからない」ことだけはよく伝わってくるという徹底さだ。もちろん描写がそれだけで終わるはずもなく。徹底した描写の数々に面白いとか以前に「いったいなんなんだこれはすげえ」と単純に驚いて「何がここまで執拗に描写に駆り立てるんだ……」と若干引いてしまった。執拗に問い続けていくものの、そこに明確な答えが与えられることはない。未知は、未知である。

ちなみにこうした「異常な描写」をはじめに読んだ時以上に感じたようにも思うが、それはポーランド語からの直訳に転換したことにより「ロシア語からの重訳時に、ロシアverから削除された部分を補填した結果」の一つでもあるのかなと下記記事を読んだりすると思う。記事ではどのような部分がロシア語verから削除されており、また復活したのかが詳しく書かれているので参考にされたし。booklog.kinokuniya.co.jp

最初に読んだときは架空の書物について書かれた序文を集めたレムの『虚数』を読んだことがなかったが、この特異な、この世に存在しないものを文章だけでありありとこの世に現出さあせてみせる想像力はレムの特質・特性だったのだな。僕にとってこの『ソラリス』はやはりいつまでも「未知そのもの」として鮮明に記憶されていくのだろうなと思う。

ソラリス (ハヤカワ文庫SF)

ソラリス (ハヤカワ文庫SF)