村上春樹訳で見たことのない著者だったので読んでみた。僕はわりと村上春樹さんと近い嗜好を持っているようで、彼がどこかから見つけてきて訳した本はみな楽しく読んでしまう。マーセル・セローの極北とか、凄く好きだったな。huyukiitoichi.hatenadiary.jp
とまあそれはおいといて本書『NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』だが、これはまたヘンテコな話で面白いかと言われると「おもしろ……いや……変な小説だよ」と言い切ることのできないためらいを含んでいる。まあとにかくヘンテコな小説であることは保証しよう。しかし突き放した、それでいてソリッドな文体は身体にじんわりと染み渡ってくるようだし作中で主人公のおっさんが直面する問題はなんだか自分のこととして考えてしまうような「日常の延長にある切実さ」がある。そうした日常──のようなものを描いておきながら彼は「とても日常とは言いがたい」変な方向へと舵を切っていくからこそのヘンテコな話なのだが──。
ちなみにこのヘンテコな書名はそのまんまの意味で、著者であるソールスターさんにとっての11冊めの小説で、18冊目の著書だということである。わりとすっきりと終わっているような気もするが本国(ノルウェイの作家なのだ)では続編が刊行されていてそっちはNovel17なのだというから笑ってしまう。無骨というか、書名に対する興味のなさがすごい。ノルウェイにおいては代表的な作家で、世界的にも読者の多いそうだがこれが二本では(たぶん)初のお披露目のような形になる。まあ、狭い領域で成立しているような作品で、ただ世界のどこにでもこの小説が響く人は(決して多くないにせよ)いるだろうなと思わせるような内容だ。
一応あらすじでも紹介しておこうか。物語の主人公はビョーン・ハンセンという五十歳になったばかりの男だ。十四年間連れ添ったツーリー・ラッメルスと別居し、その後四年間ほどコングスベルグ在住。省庁に勤務し、熱心に仕事をしたこともあってそこそこ速い出世を重ねている。彼はなぜあまり楽しそうにも思えない省庁の仕事を熱心にこなしたのだろうか? 『仕事とは必要悪であるというのが、ビョーン・ハンセンの考え方だ。』と語られていく。仕事を遺漏なく片付けることによって、その後にはじめて人生の真の意味に身を捧げることができるという、シンプルな原則。仕事と呼ばれる共同体内の公的活動に携わり、車輪を支障なく動かし続け、社会を機能させること。それを自分に課し、特に大きな疑問を抱くこともなくそれに邁進することのできる人間だ。そこに人生の意味などを問いかけることもなく。
彼の生活には別の側面として、アマチュアの演劇団での活動がある。こちらでも彼は特段大きな自己主張をせず、淡々と別人になりきってみせる。なかなかの脇役っぷりを発揮しているようだ。だが別にそこに人生を賭けているというわけでもない。まるでちょっと腰掛けているだけとでもいうように、どこか距離をとっている。それは彼がずっと一緒に暮らしているツーリー・ラッセルに対しても同じことで、どこか冷めた目で彼女を観察している。
要するにビョーンを支持していたのは、自分は何かしらの魔術によって、内側は若い娘のままでずっといられると思いこんでいる一人の女声だった。しかしビョーンの目から見れば(ずいぶん残酷な言い方ではあるけれど)、それに同意する人はもうどこにもいないようだった。おそらく彼女は、自分の身の動きを見れば、自分がまだ若々しいことは誰の目にも明らかなはずだと思い込んでいたのだろう。たしかに彼女の身の動きは今でも実に溌剌としていたが、その溌剌さは結局のところ、豊富な訓練と技巧の賜物でしかなかったし、そこからは優雅さがすっかり失われてしまっていた。
彼は冷静な観察者というよりかは、特に人生において惹かれるものがないからこそすべてのものから距離をとることのできるのだろう。特に思い入れがないからこそ長年の連れ添いと、演劇からも離脱することができる。仕事への執着も、それほど大きなものではない。それは何しろ彼にとっては社会の歯車としてまっとうな役目を果たすための一つの指標に過ぎない。ふわっと、それまでの生活を捨てて別の場所にうつることができる軽さがある。物語が次に大きく動き出すのは、彼の元に息子が大学に通うために同居させてもらえないかといってくるあたりだ。
これも、そんなに大きな事件に発展するわけではない。息子はやってくる。ビョーン・ハンセンはやはりそれなりに嬉しく思う。それでも共同生活に彼は不慣れで、どうにもうまく息子に馴染めない。息子はあまりうまいこと礼儀も知らないし、もちろんナメてかかってくるわけではないが、時にけっこう失礼なことをしでかす。話はつまらないわりにしゃべり倒すし、思い込みは強いし扱いにくい男の子だ。二十ぐらいの男なんてみんなそうだという気がしないでもないが、息子は友人間でもそれなりの厄介者のようで、うまく周囲に溶け込めないでいる。仲の良い友だちも、いないみたいだ。それならそれで開き直ってくれれば別にどうということもないのだろうが、まるで友人がいるかのようにして遅い時間に──ただし毎回きっかり同じ時間に、アリバイをつくようにしてかえってくる。
読んでいてしみじみと考えてしまった。自分の息子が、友だちが作れずに、それを親に悟られたくないばかりにわざと遅い時間に帰ってくるような時、どうしたらいいんだろう? 何かいうべきなのか? 放っておくべきなのか? それ以前に、自分の息子があまり良いやつじゃない、嫌味なやつで自己本位な人間だったとしたらどんなことを考えるんだろう? 人間の性格なんてそうそう変えられるものではない。怒って性格が変わりゃあ苦労しないのだ。慰めの言葉をかけようにも、親に慰めの言葉なんて言われたらいっそう惨めになるだけではないか?
冷静に考えると、やっぱり放っておくしかないんだろうな、とは思う。似たような状況は多かれ少なかれ誰にでもあるものだろう。ちっぽけなプライド、悟られたくない自分の心中。どうにかできるものであれば、どうにかしている。だからこそ気づいていないフリをして、たとえば温めれば食べられるものを用意して置いといてやるとか、さりげないサポートでその期間を支えてやるぐらいのことしかできないだろうと自分だったらどうするかをついつい考えてしまう。
ビョーン・ハンセンからしてみればことはもう少し複雑だ。二歳の時に別れた子供である。子供の側からすれば捨てられたも同然だ。居心地の悪さがある。自分の息子なのに、面倒くさいしちょっとどっかいってくんないかなという、他人のような気持ち。できればなんとかしてやりたいとも思う親心。なんともやりきれない。物語はその後、ビョーン・ハンセンが医師と共に企てたある奇妙な計画の実行のパートにうつって、終盤へと向かっていく。それで一応物語は締めになるわけだが、でもやっぱり描写の物語だな、と総括するしかないように思うな。
世界から隔絶され浮き上がっているようなビョーン・ハンセンの人生。そんな彼がほんのちょっと望んだことも、まああまりうまくはいかない。だからといってそこまで強い絶望に陥るわけでもない。「人間って、いったいなんなんだろうな?」とでもいうような、浅くもなく深くもない人間そのものへの純粋な疑問が形をとったような小説だ。
NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン
- 作者: ダーグ・ソールスター,村上 春樹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2015/04/09
- メディア: 単行本
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