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存在しない書物についての書評集にして、レムの代表作の一つ──『完全な真空』

完全な真空 (河出文庫)

完全な真空 (河出文庫)

この『完全な真空』は『ソラリス』のスタニスワフ・レムの代表作のひとつにして、存在しない書物についての書評集である。もともと単行本として国書刊行会から1989年に出ていたのだが、今回それがはじめて(河出から)文庫化とあいなった。

僕は数あるレムの著作の中でも本書と、存在しない書物への序文だけで構成されている『虚数』を最も愛している。だから、今回『完全な真空』が文庫になったと知った時は大変に嬉しかったものだ。もちろんすでに単行本で読んでいるが、この広大な想像力を一冊の中に閉じ込めた、人生の中でも特別な位置を占めるこのような傑作が文庫の形で本棚に鎮座している事実は、ひっそりと僕に勇気を与えてくれる。

レムの作品をたとえひとつも読んだことがなかったとしても、この本を読めばレムがどのような作家なのか、またその知性がどれだけ広範にわたっていて、切実でありながらも同時にバカげている、愛すべき作家であるかがわかるだろう。

書くにはしんどすぎる内容の本

架空の書物に対しての書評のスタイルを採用することには、幾つかの利点がある。まず、「実際に書くにはしんどすぎる内容の本」についての書評を書くことで、実際には本を書かずにしてそうした本がまさに実在するかのように扱うことができること。

たとえば、書くことの可能性の限界に達した最初の小説であると(架空の書評子であるレム氏によって)評される、『とどのつまりは何も無し』は「何もないを書いた」小説である。何もないことを書くとはどういうことか。何もないことを書くのは、結局何も書かないのと同じなのではないか。そもそも書くとして、何もないことは書けるのだろうか。だが、『とどのつまりは何も無し』はそこに挑戦した本である。

この本の冒頭は、『「列車は着かなかった」となっている。』という。着かなかったということはそこには「列車はない」。ないことについて語られている。だが、語られていないにも関わらず列車を待っている誰かの姿が浮かび上がってくる。次の段落には『「彼は来なかった」』とあり、その誰かを待っているのは(作家の性別が女性であることとあいまって)女性が待っているイメージが続く(これをいっているのは架空の書評子だが、現代においては性規範を当てはめすぎと批判を免れないだろう)。

そうやって「存在しなかった」ものを書き連ねていくことで成立していく凄まじい小説だ! というわけだが、いうまでもなくこんな長篇小説(長篇なのである)を実際に書こうとしたら禿げ上がるほど苦労するだろう。

全超大な作品のアウトラインを提示する

また別のスタイルとして、「超大な作品のアウトラインを提示する、要約的な書評」がある。たとえばナチの元親衛隊少将がアルゼンチンへと逃げ延び、ジャングルの奥地で王朝華やかしころのフランス王国を再建しようという奇想にとりつかれた男を描き出す『親衛隊少将ルイ十六世』。白痴の子供を育てる両親を通じて、代償行為、創造の無限の能力について語る『白痴』など、『書き上げるだけの能力はないが、書かないでおくのはもったいない』とでもいうべき作品が書評されている。

SF短篇的な

シンプルにSF短篇として成立している本についての書評/要約物もいくつかある。たとえば、一人一人の人間の暮らしが、人を殺したい、こんな人と結婚したい、といった「各人の要望」をマッチングさせる強力なサービス提供企業の管理の下に置かれる状況下になった状況を描き出す『ビーイング株式会社』。

『罪と罰』、『戦争と平和』などの古典の名作を要約し、誰もがその中身を好きに組み替えて楽しめるようにした小説組み立てキット『あなたにも本が作れます』についの書評は、本がどのように社会に受け入れられていったのか、という本の受容論/文明論みたいな部分が主になっているのがおもしろい。続いて、『イサカのオデュッセウス』はSFではないが、天才を「平凡で普通な天才」、「第二級の中間的な天才」、そして「誰にも理解されないがゆえに、誰にも知られることがない最高の天才」の三種類がいると主張し、第一級の天才を探求する過程で絶望し、「天才論の極北」にまでたどり着いてみせる、かなり野崎まど味を感じる作品である。

『我は僕ならずや』はド真ん中のSFである。サイバネティクスと80年代のサイコニクスが応用知能電子工学と異種交配された結果生まれた、「パーソネティクス」と呼ばれる電算機の世界に生まれ成長し思考する生物が、自分たちを生み出した「神」の存在に推論からたどりつく。今読むとわりと古臭さがあるものの、問いを積み重ね神へと至る演出の緻密さなど、依然としてレムの唯一性を感じる作品だ。

ノンフィクション

そして、最後にこの現実そのものについての文明論として語られた『誤謬としての文化』、『生の不可能生について』、『新しい宇宙創造説』がある。

人類の文化は誤謬や試行錯誤や失敗、つまずきなどの結果によって生みだされ、文化とは新しい適応の道具なのだと喝破する『誤謬としての文化』。自然科学の依拠する確率論が根本的に虚偽であるか、もしくは人間に代表される生命界が存在しないかのいずれかであると無茶苦茶なことを主張する『生の不可能生について』。

この世界に異なる知性種族がいないとは考えにくく、ある文明が何十億年も前から発達していたのだとしたら「この宇宙で彼らの姿が見えないのは、彼らが存在しないからではなくすでにいるからだ」、そして「何十億年も発達した文明は、宇宙の法則を書き換えるに至っているはずだ」とする説を開陳する『新しい宇宙創造説』など、この宇宙、そして人類そのものを射程に入れた壮大な語りを展開している。

特に『新しい宇宙創造説』の観点はいまなお新鮮に感じる。

おわりに

今回久しぶりに読んだが、わりと冷静になったせいか「けっこう無茶苦茶な理屈で押し通そうとしてるなあ笑」と思わず苦笑してしまうところもあったが、でもやっぱり好きだなあ。別にいま読まなくたって良い。ただ、人生のどこかで読んだら、きっと何か得るものがあるだろう。