- 作者: アーサー・C・クラーク,中村融
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2015/09/17
- メディア: 文庫
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今更クラークの第一長編? 月着陸?
ストーリー的にはインタープラネタリーと呼称される世界的な宇宙開発組織が月へ人類着陸させるぞー! といって技術的な困難や宗教的な論争を乗り越えてロケットをがんばって打ち上げるという、ただそれだけの話である。誰か特定の主人公がいるというよりかは、エンジニア、パイロット、ディレクターなど様々な立場の視点から描いていき、時に発狂したテロリストが現れるなどスリリングな展開も多少はみられるが、後の作品と読み比べると単調さ、粗さを感じるところもあるだろう。
それでも本書には確かに、後のクラーク作品に通じる「果てしない宇宙の可能性を底抜けに信じ、それを技術で達成していくことができるんだ」とする極端な楽観性とそれをいかに実際の技術で達成するのかを綿密に描写していく現実性が同居していて、既にしてめちゃくちゃおもしろく仕上がっている。また、これはちと心配だったんだけれども、「既に現実で実際に行われてしまった月着陸を読んで面白いのか?」も、まったく問題がないように思った。
なぜなら、本書では確かに「人類初の月着陸」に向けて世界が盛り上がり、エンジニアが詳細な計算と実験を重ね、パイロットが鍛錬をつんでいく様が描かれていくが、常に「その先」を見据えた内容になっているからだ。プロジェクトの責任者は作中何度も、「月へいくというきみたちのたくらみについて教えてもらえるかね」「なぜ、月なんてものに行かなければならないのかね」と問いただされる。その度に言い回しは変化するのだが、根っこの部分は決してブレることがない。「もっと先へ」と。
「理解していただきたいのは」とマシューズが容赦なく論点を進めた。「月がはじまりにすぎないということです。千五百万平方マイルは、はじまりとしてはたしかにちょっとしたものです。しかし、われわれは月を惑星への踏み台としてしか見ておりません。
なにもかもが相対的なのだ。そしてわれわれの精神が、いま地球を思い描くのと同じように、太陽系を思い描く時代がきっと来る。そのとき、科学者たちが考えこんだ顔つきで星々に目を向けていれば、多くの者がこう叫ぶだろう──『恒星間飛行などいらない! 祖父たちには九つの惑星でじゅうぶんだった。われわれにもじゅうぶんだ!』と」
ダークは笑みを浮かべてペンを置き、心を空想の領域にさまよわせた。人間はこの途方もない挑戦に応じて、星々のあいだに広がる深遠に船を送るのだろうか? かつて読んだ文章が思い出された──「惑星間の距離は、日常生活で慣れている距離の百万倍は大きい。だが、恒星間の距離は、その百万倍は大きいのだ。」そう思うと彼の心はひるんだが、それでも先程の文章にしがみついた──「なにもかもが相対的なのだ」。数千年のうちに、人間はコラクル*2から宇宙船まで来た。前途に横たわる数十億年のうちに、人間は何をしてのけるのだろう?
この物語は確かに「月へなんとしても到達するぞ」という人間の物語ではあるが、実際にそれが捉えている精神は「かつてコロンブスがアメリカ大陸を発見したように、月を超えてもっと先へ、もっと遠くまで行くしかない。文明はけっして静止するわけにはいかないのだ」とする「未知を求める運動そのもの」なのだ。人類が月に到達しようが、火星に入植しようが、精神そのものは古びたりはしない。
もともと望遠鏡を自作するほどの天文ファンだったというクラークは本書執筆の一年前に英国惑星間協会の会長となるなど筋金入りの宇宙開発論者である。中村融さんの訳者あとがきによれば「(宇宙航行学の自分の考えを)一般大衆に広める宣伝的な考えがあったことは白状しなければならない」と本人が語っていることからもわかるように、自身の思想を全面に行き渡らせた作品でもあるのだろう。
ちなみに、本書で使用される宇宙船<プロメテウス>は<アルファ>と<ベータ>という二つの独立した原子炉を搭載したロケットで、実際のアポロ計画で用いられた宇宙船と比較してみるのも面白い。それは、いま読むからこその楽しみ方だろう。