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ルールが保証されないゲームに、いかにして挑むのか──『ゲームの王国』

ゲームの王国 上

ゲームの王国 上

ゲームの王国 下

ゲームの王国 下

第三回ハヤカワSFコンテストを『ユートロニカのこちら側』で受賞した小川哲、彼の二年ぶりの新刊が『ゲームの王国』だ。あらゆる個人情報を提供する代わりに生活全般が保証される、特別提携地区を舞台にゴリゴリの未来社会を描いてみせたユートロニカとはうってかわって、本書の始まりの舞台は1956年のカンボジア。最初の視点人物は後にポル・ポトと呼ばれ、革命を成し遂げることになるサロト・サルだ。

"権力者が都合良くルールを設定し、好きなように覆す"腐った政治体制の中で、いかにして人々は自身の正しさを貫き、ルールに挑むのか。そんなカンボジアとゲームについての重厚な物語であることは、一部が先行掲載された『伊藤計劃トリビュート2』で充分に把握していたが、最終的に出てきたものは予想を大きく上回る傑作だ。血が滲むような文体に圧倒され、読んでいる間何度も「いったいこれはなんなんだ」と呟きが漏れたし、当初は文学のような作風に、だんだんとマジックリアリズムのような幻想性が増していき、物語の後半に至ると自然とSFに移行していってみせる。

全体を通して一体どこに行き着くのか、終盤が近づいても予想もつかず、ただただカオスへと巻き込まれていくように読み続けることになった。カンボジア? ポル・ポト? ゲームって何? と戸惑う要素も多いと思うが、まず一言で結論を述べておけば、小難しいことはおいといて、ただただ心の底からおもしろいと言える物語だ。

あらすじとか

というわけでここからはあらすじなど紹介していこう。まず、物語開始時点のカンボジアについてだが、1956年〜あたりのカンボジアは安定しているとはとても言い難い状況だ。第二次世界大戦を経て、独立を果たすが、汚職は蔓延し、国は貧しく、表向き選挙こそ行われるものの結果は操作されている。政権は短い期間でコロコロと変わり、激しい内戦や、思想の支配と虐殺が続く。重く苦しい、陰鬱な時代である。

 茶番だった。無意味だった。しかし、この選挙の経験そのものは無駄ではなかった。サルはこの壮大な茶番を通じて、ある重要な真理を強く認識した。結局のところ、権力を握った者がすべてのルールを決めるのだ。サッカーの試合をしていたら、審判が「ゴールを決めるな」と命令してくる。審判に反抗してゴールを決めた選手は退場させられ、ゴールは無効にされる。結果的に、誰もゴールを決めようとはしなくなる。試合終了。五対〇、シハヌークの勝ち。いったいどうすればいい?

相手がルールを決める、だから勝てないというのであれば、勝つにはルールを支配するしかない。そうしてサロト・サル(ポル・ポト)は動き出すわけだが、彼は物語の主要人物ではない。主要人物は、彼の娘とされる、太陽の意味を持つソリヤという名の少女だ。彼女は幼児の頃に無関係な夫婦の元に預けられ、幸せな日々を過ごすことになる。そんな育ての親が、秘密警察によって、国家の安全を脅かそうとする共産党員ではないかとの容疑をかけられ、無残にも拷問され殺されてしまうまでは……。

もう一人の主要人物は、小さいながらも肥沃な農地にめぐまれた村に生まれたムイタック(水浴び)と呼ばれる少年である。なぜ水浴びなのかといえば、カンボジアの農村に生まれておきながら極度の潔癖症で、始終水を浴びていたからだ。変わり者で、しょっちゅう殴られていたが、とにかく頭がよかった。単に頭デッカチなのではなく、柔軟に状況を推察して適応することができるタイプの頭の良さだった。だが、慣習と謎めいた迷信が支配する村では彼の理屈だった行動はまるで狂人のように映る。

本物の能力者なのか?

この村の人々がまたおもしろい。輪ゴムが千切れたときに必ず、何か悪いことが起こると信じているクワン(通称輪ゴム)。ひたすら泥を食べ、泥の声が聴こえるようになったという少年、通称泥。13年前から決して喋らなくなったが、とある説得によって声を出し、それがあまりにも美声で誰もが聞き惚れる声を持つソングマスター、通称鉄板(頭はイカれている)などなど、常軌を逸したキャラクタが次々と出現する。

ソリヤにも"他人の嘘をほぼ確実に見抜くことができる"という能力が存在するのだが、それぐらいは"ありそう"な範疇だ。しかし、輪ゴムが切れるとか、泥の声が聴こえるとか「思い込んでいるだけでしょ」としか思えない能力の数々も、実は"本物"なのではないか……と思わせる出来事が次第に積み重なっていく。何人もの死を連続で的中させる輪ゴム、狂ったように泥を食べ続ける泥は、泥の声を聞くだけでなく泥を操ってみせ、ソングマスターの声は美しすぎて、人を洗脳することさえできるよう。

 泥は山に入り二週間の修行をした。その期間は土しか食べなかった。泥は旧住民と新人民の戦いが苛烈なものになるだろうと予測していた。相手には自警団がいる。ナイフや鉄パイプ、銃などの強力な武器は向こうの手にある。今のように「だいたい土の言っていることがわかる」という程度では勝てない。もっと正確に土のメッセージが理解できるようにならなければならない。そう考えていた。

そんな特殊な能力を持った(かどうかは兎も角)面々はそれぞれのやり方でこの腐った世界への抵抗を開始する。何しろここは、不正が横行し、正直者が馬鹿をみて、ルールは都合よく改正され、他人を売って生きる人間こそが生き残る世界である。だからソリヤが目指すのは不正のない、正義と公正が永久に続くような社会だ。そのためにソリヤがとる手段は革命ではなく、真っ当に登りつめていくことだった。"正しさ"の道を歩む為、"正しくないこと"に染まっていく状況が、彼女を蝕んでいく。

また、ムイタックとその村の面々は、誰にも邪魔をされない理想の国を築き上げることで目的を達成しようとする。ムイタックとソリヤは、かつて親戚の結婚式の集まりで、夢中でゲームをした仲だった。結局のところ、二人はそれぞれのやり方でこの世界を変えようと思いつつも、実態としては"お互いに勝つために、ひたすらに夢中でゲームを遊んでいた(あるいは、ゲームをつくっていた)"だけなのかもしれない。

本当にSFなの?

と、ここまでが上巻の内容になるわけだけれども、SFになるのは実はここから。70年代までのカンボジアを描いてきた上巻から一転、下巻は2023年の近未来から始まるのだから。そこでは脳波によってプレイするゲーム「ブラクション・ゲーム」、カンボジアの政治体制の新局面など、ムイタックとソリヤのその後が描かれていく。

 アルンはそう答えた。「勝って、名誉を得る。他人に認めてもらう。それがすべてだから。みんな、それぞれのゲームに勝つために生きているんだ。ときどきそんなことを考えるよ。子どもたちは賞金のないゲームに本気になるし、負ければ涙を流す。大人だって同様さ。出世して、権力を持って、なんの意味がある? 意味なんかないじゃない。出世や権力そのものが、ゲームの勝者である証なんじゃないか、そんなことを考えたりもする」
「つまり、なんのために戦うのか、その理由なんて必要ないってことか」
「勝利そのものが目標かもしれない」とアルンがつぶやく。

果たして、世界はゲームによって変わるのか? ソリヤが目指す「ゲームの王国」によって? あるいは、「ブラクション・ゲーム」の存在によって? これは恋の物語であり、何よりも"シンプルで不当に覆されることのない高潔なゲームを愛する、ゲーマー"の物語だと思う。本当におもしろいゲームを、自分と実力が伯仲している相手と遊んでいる時というのは(そう何度もできる物ではない)、脳が焼ききれるような興奮を覚えるものだが、本書にはその時の興奮を、色濃く追体験させてくれる。