基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

自分が何を知らないのかを知ることの重要性『知ってるつもり――無知の科学』

「何かを知っている」と言い切るのは、言葉の定義にもよるだろうが、なかなか難しい話だ。たとえば僕は電子レンジがマイクロ波を照射して水分子を振動させることで温度を上げる機械であることを知っているが、そのより詳しいメカニズムはよく知らないし、ましてや自分で部品から電子レンジをつくりあげることなんかできない。

自分を基準にしてしまって申し訳ないが大抵の人が電子レンジについて知っているのはこの程度のものだろう。人間はけっこう賢いし物知りだが、かといって一人で電子レンジを作り上げられるほど、たった1つのモノのすべての側面に精通するほど知ってはいない。本書はそうした”人間の無知”についての本である。われわれはいったいどれほど無知なのか。われわれ無知で愚かな人間はどのように物を考え、どうやって原爆や民主主義などの複雑なシステムを作り上げ、運用しているのか?

 ここで言いたいのは、人間は無知である、ということではない。人間は自分が思っているより無知である、ということだ。私たちはみな多かれ少なかれ、「知識の錯覚」、実際にはわずかな理解しか持ち合わせていないのに物事の仕組みを理解しているという錯覚を抱く。
 こう思う読者もいるかもしれない。「たしかに物事の仕組みはよく知らないが、錯覚など抱いていない。自分は科学者でも技術者でもない。だから科学的、技術的知識は自分にとって重要ではない。でも生きていくため、優れた判断をするために必要な知識はある」と。ではどの分野ならよく知っているのだろうか。歴史、政治、それとも経済政策だろうか。自分の専門分野においては、本当に物事の細かなところまで理解しているのだろうか。

「本当に物事の細かなところまで理解しているのだろうか」と真顔で問われれば「いや、そこまでではないかな……」と答えざるを得ない。そもそも、人間の記憶容量は大したことがなく、誰もが歴史や政治や政策に精通している社会を考えるのは現実的ではない。だからこそ市民は知識のコミュニティ(自分の周囲の人の知識)に、知識が依存することになる。そして多くの人が経験したことがあるだろうが、その”周囲のコミュニティ”によって形作られた知識は、大抵の場合エビデンスよりも重視され、科学的な啓蒙を行われようが変わることがない。『科学に対する意識を決定づけるのは、むしろさまざまな社会的、文化的要因であり、だからこそ変化しにくい。』

それはつまり、場合によっては個人に対する教育は完全に意味をなさない事を意味している。たとえば、子供を持つ親を対象に、情報の提供の仕方の違いでワクチンの受容を促す効果についての調査が行われたことがある。対象者らは4つのグループに分けられ、異なる情報が与えられた。それぞれ、ワクチンを受けさせないことによって起こりうるマイナスの影響を伝えるグループ。風疹、おたふくかぜ、麻疹にかかった子供の写真を見せられたグループ。麻疹にかかった子供についての痛ましい物語を読んだグループ。ワクチンと自閉症の関係を否定する情報をみせられたグループ。

はたして、どのグループがもっともワクチン接種をしたいと考えるようになっただろうか? といえば、どのグループもワクチン接種をすると答える人はまったく増えなかった。科学に対する意識は、エビデンスへの合理的評価とは無関係だった。

 知識の錯覚が起こるのは、知識のコミュニティで生きているからであり、自分の頭に入っている知識と、その外側にある知識を区別できないためだ。物事の仕組みについての知識は自分の頭の中に入っていると思っているが、実際にはその大部分は環境や他者から得ている。これは認知の特徴であると同時に、バグである。私たちの知識ベースの大部分は、外界とコミュニティに依存している。理解とは、知識はどこかにあるという認識でしかないことが多い。高度な理解とは、たいてい知識が具体的にどこにあるかを知っているというのと同義である。実際に自らの記憶に知識を蓄えているのは、真に博識な人のみである。

人の信念を変えるのは難しい

人の信念を変えるのは難しい。それは価値観やアイデンティティと絡み合っており、コミュニティと共有されており、理屈で推しても効果がない。また、われわれは因果関係によって物事を考えるが、そこではバグも頻繁に起こる。たとえば食物に高エネルギー放射線を照射して殺菌する食品照射は、何十年にもわたる研究で安全で食物由来の病気を減らすのに有効であることが証明されているが、多くの人がそれを”放射能”と混同した結果、放射線が食品に残留すると偽の因果関係を結びまったく普及が進まなかった(しかし低温殺菌などの呼び方に変更することで受容度は高まった)。

われわれが意思決定を求められる場面で正しい選択をしたいと思う場面の一つが政治だが、これもなかなか難しい。政治家らは政策についての問題をエビデンスベース、因果的結果で示すのではなく、価値観の問題として示すことが多い。医療制度についていえば、大半の人は自分と周囲の人が健康に保たれ、医療従事者にも正当な対価が支払われることを望んでいるだけだが、そのためにどのような政策が優れているのかを判断するのはやはり難しいので、政府に意思決定を任せるべきではないとか、寛大さを示し人々を守るべきだと価値観に訴えかけられた方が煽動されやすいのだ。

どうすればいいのか

そうした状況にたいしてどうすればいいのか。本書がこれについて一貫して述べているのは、「知識は個人ではなくコミュニティの中にある」ということ。

個人の知能を測定するのは自動車部品の品質を調べるようなものであり、重要なのはチーム、集団となった時のパフォーマンスの推定、またチームへの貢献度といった観点からの賢さの再評価である。本書の後半では「賢さの定義が変わる」「賢い人を育てる」、「賢い判断をする」、「無知と錯覚を評価する」として、新しい定義としての賢さ、またそうした観点から人を育てること、自分が何を知らないのかを知ることの重要性を教え、科学的根拠を知るための手段についていろいろと述べられていく。

結局、個人の価値観や信念といったものがコミュニティによって形成されるのであれば、そのコミュニティや環境自体に対して何らかの働きかけをしなければならないというのは道理である。その道のりについてはまだまだ半ばといったところだが(そもそもある種の科学的合理性に従って大衆が判断するようになる道を整備するのが「正しいのか」といえばそれもまた一つの価値観・信念によるものであり、無知や錯覚の価値もあるよねという考えも終章では示されるが)、本書を読むことで「自分がいかに物事を”知っているつもりだったか”」を知ることができる、貴重な一冊だ。