基本読書

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遅老症を患い、四百歳を超えてなお生きる男の人生──『トム・ハザードの止まらない時間』

『#生きていく理由 うつヌケの道を、見つけよう』や『今日から地球人』などSF・ノンフィクションなどの著作のあるマット・ヘイグの邦訳新刊は、老化が遅く人より10倍以上の時を生きるようになったトム・ハザードの人生を描くSFロマンスだ。

不老や長寿や時の逆行を扱ったSF作品は多々あるが、老いる速度が遅くなる「遅老症」(アナジェリア)というアイディアは、物凄くシンプルでありがちなようにみえる一方、僕ははじめて読んだのまず最初にその点に感動してしまった。(長寿族的な発想と遅老症は結果は同じだけど、それに遅老症と名付け、病と捉えることが)。

肝心な中身としては、特段プロットに劇的な部分があるわけでもない地味な話だ。とはいえ、40歳ほどの外見にみえるが実際には16世紀から400年以上の時を生きているトム・ハザードを語り手に据え、現代を生きる一人の女性とのほのかな恋愛、彼が辿ってきた山あり谷ありの人生への回想、生き別れになった娘を探す旅をウェットに描きあげていく物語は、全篇通して歴史が染み渡るような語りが素晴らしく、どこを切り取っても心躍らせてくれる。物語の途中でトム・ハザードはロンドンに歴史の教師として赴任するのだけれども、彼はペストの流行もその身で体験し、シェイクスピアやフィッツジェラルドといったすっかり歴史上の人物となった偉人たちと実際に交友関係があったので、彼の教える「歴史」は細部まで生き生きとしているのだよね。

「遅老症」の患者は世界中に何万といった単位で存在していると見られているが、その存在はほとんど世間に知れ渡ってはいない。というのも、遅老症の人々をまとめあげる組織がいて、彼らの特質が世間にバレそうになるともみ消しをはかったり、要人を消したり、遅老症患者らが同じ土地に留まり続け周囲の人間に怪しまれるのを避けるよう、仕事や拠点を手配したり──といった細かな防衛策を施しているからだ。

トム・ハザードもそんな組織の一員であり、ボスであるヘンドリックの指示に従って、英国ロンドンのセカンダリー・スクールの歴史教師として、約八年おきに訪れる新たな人生を歩み始めることになる──というのが物語の冒頭部である。

生きた歴史を語る男

先にも書いたように、トム・ハザードによって行われる歴史の授業は、彼自身が実際にそこで体験してきたことだからこそ、臨場感たっぷりに”生きた”語りで行われる。シェイクスピアと共に日々を過ごし、フィッツジェラルドに直接『グレート・ギャッツビー』の感想をつたえる(出版された当時は評価が低かった)。下記は赴任先の校長から、歴史の教師として、「歴史を生き生きとよみがえらせる方法はおありですか?」と問われた際の返答だが、彼の歴史に対する向き合い方がよく現れている。

 これほど簡単な質問はない。「歴史をよみがえらせる必要などありません。歴史はもともと生きています。ぼくたち自身が歴史です。歴史は、政治家や王さまや女王さまのことではありません。歴史とは、ぼくたちひとりひとりのことです。すべてが歴史なんです。そのコーヒーも。コーヒーひとつ取っても、資本主義と帝国主義と奴隷の歴史を丸々語ることができます。ぼくたちがここにすわって紙コップでコーヒーをすするまでには、信じられないほどの血と苦難の歴史があるのです」(……)
「失礼しました。僕が言いたいのは、歴史はどこにでも存在するということです。歴史とは、それを人々に理解させることであり、その土地を理解させることなんです」

現代と交互に語られていくのは、彼がどのような人生を辿ってきたのかという過去だ。16世紀末生まれの彼は過酷な日々を生き抜いてきた。ペストの流行、魔女狩りによって母を失い(歳をとらない子どもの存在は、魔女の嫌疑をかけるのに十分だ)、彼がそれまでの人生でただ一人愛したローズとの出会い──そして別れ。遅老症の彼は通常の寿命を持つ者と添い遂げることはできない。一緒に暮らしているだけでも、年月を経ても姿の変わらぬ彼が不審に思われることから、絶え間ない迫害を受ける。

この手の長寿物ではたいてい通常の寿命を持つ者との決定づけられた悲恋が描かれていくものだが、本作もそのご多分に漏れない。ローズを愛した悲劇から、長い間誰かを愛することをやめていたトム・ハザードだが、同僚の女性であるカミーユと接点を持ってしまい、彼女から「一度も会ったことがないはずなのに、なぜか見覚えがある」と積極的なアプローチを受けることになる。『「解いてみせるわ」カミーユは笑いながら、ニッサンの小型車に乗り込む。「あなたの謎、きっと解いてみせる」』はたして、なぜカミーユは彼のことを見たことがあると感じているのだろうか?

このカミーユがSF小説ファン(『「ええ。わたしはマニアなの。SF小説が大好き」』)でなぁ……、時折SFネタを会話に混ぜ込んでくるのも地味に(ヒロイン力の)ポイントが高い『「フィリップ・K・ディックは、”正気を失うことは、ときには現実への正しい反応である”と言ってるわ」』など。それに対抗するトム・ハザードは長く生きすぎたせいか、シェイクスピアとの付き合いがあったせいか、語りが詩的で湿っぽいのもまたいい。『愛という錨を失い、ぼくは漂流していた。海に出て、ふたつの航海をしているようなものだった。酒に溺れ、マリオンを見つけるという決意だけに衝き動かされ、ついでに自分自身も見つかることを期待してさまよっていた。』

おわりに

悲劇しか待ってない恋になんかもう絶対に落ちないんだから! と虚勢をはるトム・ハザード君が一瞬でカミーユに陥落していく瞬間や、生き別れてしまった彼の娘(同じく遅老症)を求める数世紀にも渡る家族の愛の物語など、とにかくぐいぐい描写で惹きつけてくれる作品である。解説の牧眞司さんが『正直に言えば、グレッグ・イーガンやジーン・ウルフといった強面の作品がひしめく《新☆ハヤカワ・SF・シリーズ》で刊行されるのは、読者にとってのハードルを上げやしないか、少々心配でもある。』と若干心配しているように、ドハードなSFではないけれども、素晴らしいSFロマンスであることを保証しよう。
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