絶滅できない動物たち――自然と科学の間で繰り広げられる大いなるジレンマ
- 作者: M・R・オコナー
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2018/09/27
- メディア: Kindle版
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一方、人間的観点からいうと、絶滅はよくないことだろう。特に我々のせいで絶滅されたとあっちゃあ気まずいし申し訳ない。現在、1年間に約4万種もの生物がこの地球上から姿を消しているというし、そんなに絶滅したとなるといろいろ環境的な意味で大丈夫なのか? という心配が湧いてくる。単純な実利的観点からいってもバッファ、利用可能性の余地として、生物多様性はより幅広く保たれていたほうがよさそうではある。だが、よし、じゃあ絶滅はよくない、保存しよう──となった時に、議論は少し複雑になる。なぜなら完全な形での生命の保存など不可能であり、無限のリソースがあるわけでもなく、種を保存することは何かを諦めることでもあるからだ。
そこではじめて記事の見出しにも持ってきた問いかけが上がってくる。「絶滅は本当によくないことなのか? 絶滅させたほうがいいケースもあるのか?」たとえばキハンシヒキガエルという美しい、絶滅しかかっているカエルがいる。種の保存のため、カエルがそれまで生きてきたあらゆる環境ごと保存できればそれが一番だが、なかなかそううまくはいかない。そのカエルの生息地であるタンザニアの熱帯雨林にある滝(の周辺でしか生きられない希少なカエルなのだ)には、資源が乏しく生きるのに必死な東アフリカの僻地の人々のためのダムを建設せざるを得ない。カエルか人間か。種の保存で得られる利益が、とうてい人間の利益と釣り合わない時はどうすべきか。
危機が次々と浮上して、生物構成バランスを崩しそうな種が増えるにつれ、人間と自然との現代的な関係について回る多数の道徳的な難問が未解決で残ることになる。種の保全を人間の要求よりも優先すべきか。科学者は種の絶滅を防ぐためにどこまでやればいいのか。わたしたちが救ったあとで、種ははたして野生に戻れるのか。
現在、キハンシヒキガエルはテラリウムに閉じ込められ、人工噴霧システムで水分を保たれ、餌も供給され申し分ない環境で生きている。それで確かに絶滅を防いではいるが、もうかつての環境で生きていくことはできないだろう。同じような状況にある絶滅危惧種は大勢いる。元の環境・文化から切り離されて、動物園のような状態でだけで生きている生物たちはもう別の生命体であろうと考える人もいる。『だが、生命体は捕獲後の環境に順応するという理解が、今ではもっと広まっている。生命体を救おうとする過程で、わたしたちはその生命体を変えてしまっている。』
脱絶滅に取り組んでいる個々の人間は素晴らしいし、見ならうべき刺激的な人々もいることはいる。だが、人間が現存の種とやっとのことで共存している時代に、復活させた動物を世界に戻す方法を示した者はそういない。
本書は原題が『Resurrection Science Conservation De-Extinction and the Precarious Futuer of Wild Things』で、ようは「復活の科学」に携わる人々についてのノンフィクションだ。絶滅危惧種の動物たちをどのようにして保全すべきなのか。自然環境をそのまま残すことのできない保全は「進化への干渉」、「進化の管理」であり、その線引はどこで行われるべきなのか(場合によっては絶滅させたほうがいいケースもあるのか)。また、リョコウバトやネアンデルタール人を現代の技術(ゲノム解析+遺伝子改変で)で蘇らせることの是非など、無数の観点から絶滅しかかっている動物、絶滅した動物たちの現在を本書ではおっていくことになる。
おわりに
多くの飼育下繁殖プログラムの目的は、そこで増やした生物を元の環境に戻すことだが、そもそも戻すべき環境自体がなくなってしまっていてどうにもならない時もある。そうすると今度は「元の環境に戻すこともできずに、ただ大金をかけて飼育下繁殖する意味がどこにあるのか、再導入できる見込みがないのならそもそも捕獲すべきではない」という人も出てくるし、「それでも保全すべきだ」という人もいる。
結局、環境や技術が将来どうなるかなんて誰にもわからないわけで、絶滅させるのか、保全すべきなのかはある種の賭け、あるいは信念と信念のぶつかりあいにならざるを得ない部分があり、そうした部分がじっくりと描かれていくのも本書のおもしろさの一つである。原文の問題なのか読みづらいところがあるが、種の保全や脱絶滅に興味があれば、読んでくべき一冊だ。ハワイガラスやタイセイヨウクジラなど、希少な動物たちの特殊な生態を知ることもでき、生物好きにもたまらない内容である。