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すべての関係性を精算し、孤独に落ち沈んでいく個人主義の極地のような男を描くウエルベック最新作──『セロトニン』

セロトニン

セロトニン

この『セロトニン』は、フランスの代表的作家ミシェル・ウエルベックの2019年に刊行されたばかりの最新作の邦訳である。僕はウエルベックについては、毎回とてもおもしろいと思いながら作品を読むのと同時にどこか好きになれない作家でもあったのだけれども、この『セロトニン』はなんだかとてもしっくりきた。ウエルベックの中でもっとも好きな作品をあげろ、と言われたら本作を挙げることになると思う。

端的に本書の物語について述べるなら、退廃の一途をたどる男の物語、ということになるだろう。46歳、男、名前はフロラン=クロード・ラブルスト。女性経験は豊富で、幾度ものセックスを超えてきている。とはいえ配偶者はなく、子どももいない。資産はある程度はあるが、仕事には絶望していて、極度のうつ状態にあり、セロトニンの細胞外への分泌を助長するキャプトリクスという抗鬱剤でなんとか生活を送っているが、その副作用として性的に不能になってしまっている(これは物語開始の少し後だが)。生きる理由の根っこが欠けているが、かといって特段の死ぬ理由もない男。

物語の起点は、そんな男が恋人である日本人女性のユズのとある裏切りをしってしまったことだ。その頃彼はまだ農業食糧省で働いていて、ユズは26歳で彼の20歳下だった。(彼の推測に過ぎないが)ユズはよく乱交パーティに行っており、彼がある時白黒はっきりつけたいと思い彼女のパソコンを覗いたところ、そこで彼女が乱交をしている動画、さらには犬と性交をしている動画まで見つけてしまう。うーん、ひどい話である。で、相当絶望したのか、ユズを酔わせて29階の部屋から投げ捨て殺してしまおうかとまで悩むものの、刑務所に十何年入るのもな〜と思い直すことになる。

そこで現れるのが「蒸発」という概念だ。フランスで実際に「蒸発者」というテーマでドキュメンタリー番組が組まれているらしく、ある日突然予測できない形で自分の家族や友人、職業との関わりを断つ人たちのことを指している。これをやろう、と彼は決心する。そうして今の人間的関係性をすべて捨て去り、その過程で、不能になった自分の性的機能への鎮魂歌として、このペニスをかつて愛してくれたあらゆる女性に再び会おう、と決意するのだ。『それは性欲との別れ、もっと具体的に言えば、ペニスがその使命を終えんとしているとぼくに告げた時、このペニスに栄誉を授け、それぞれのやり方で愛してくれたあらゆる女性に再び会おうと思ったのだ。』

正直言って「何いってんだこいつ」感が半端ないし、このフロラン=クロード・ラブルストの前半から中盤の語りはそんな感想が沸いてくるバカバカしく壮大なものばかりなのだけれども(逆に後半はどんどん凄惨で切実になっていくのでそんなこと考えている余裕がない)、同時にそれが切実に感じられるのもまた事実なのである。

 皆はぼくがセックスに重きを置きすぎていると非難するかもしれないが、ぼくはそうは思わない。もちろん、人生の通常の営みの中で他の喜びが次第にそれなりの位置を占めることは否定はしないが、セックスは、特に強度のあるセックスは、個人的かつ直接に自らの身体器官を危険に晒す唯一の時間であり、愛の融合が生じるためにはセックスを通ることが欠かせず、セックス抜きには何も起こらない。残りのあらゆることは、通常はそこからゆっくり生じるのだ。

どうしようもない世界

本書の中で通底している要素の一つは、この世界に対するどうしようもない無力感だ。たとえば彼が会いに行くかつての女性たち、例外的な一人の男性らはみな何らかの袋小路に行き当たっている。女優を志し異性との長期的な関係性が築けずアルコール依存でワインボトルを何本も空けるクレール。妻に浮気され、娘二人を抱えて金の不安を抱えながら工業的な畜産から距離をとり、有機農業に従事するエムリック。

語り手が農業関連の労働者であることから、出てくる関係者の多くもまた農業や動物に関連した職業についている。それに関連して明らかにされていく農業事情はどれも凄惨なものだ。工業的な養鶏場がもたらす地獄としか思えない有様。倉庫のような場所に敷き詰められ、最長でも一年しか生きられない鶏たち。絶え間ない鳴き声、鶏が向けてくる絶え間ないパニックの目つき、羽がもげ、肉がこそげ落ち、死んだ鶏の身体が朽ちていく中で暮らしている鶏らの姿をみて、絶望してなお一人の人間にできることなどない。農業の従事者はどんどん姿を消していくが、人々は団体ではなく一人でひっそりと消えていくから、テレビ番組などで取り上げられることもない。

フランスにおける農業が何らかの形でこの先好転することはない、ということが幾つかの視点から絶望的に提示されていく。同時に、農業食糧省で働いていた彼の無力感も。彼は結局のところ自由貿易に負けた男なのだ。『自分が職業人生において完全に失敗した、その核心をついていると感じていた、新しいフレーズを口に出すごとに自分で自分をズタボロにしている、同時に、では私生活で何か成し遂げられたのか、女性を幸せにしたとか、せめて飼い犬を幸せにしたとか、それさえもないのだ。』

だから、彼が回っていく過去を振り返る旅は、彼にただただ退廃的な気分を与えるに過ぎず、何かが始まることはなく、彼は孤独へと沈み込んでいく。彼の人生で虚しいのは、何らかの明確な事件があったのではなく、ただ人間関係が失われ、地すべりが起きるようにして落ちているだけというところにある。関係性がすべて失われた先にある、虚無に到達した人間のありさまが、本作では緻密に描き出されていくのだ。

悲しいのは、彼の人生にはいくつものポイントでそうはならずに済んだであろうポイントが存在していることである。ひとつは、深く愛した一人の女性であるカミーユとの生活の中にある。この時二人は一緒に暮らしていたが、カミーユは農業森林地方局の研修生で、所定の時間が過ぎたらその家を離れなければならなかった。その時、結婚しようといえば結婚しただろうと思う。そうしたら、彼は今のような状態にはならなかっただろう。仮に別れたとしても、今のように未練が残ったりはしなかった。

だが、彼はそこで提案をするような人間ではなかったのだ。それは、彼の言葉を借りれば、彼はそのように「フォーマット」されていなかったからだ。現代の規範では、女性の仕事のキャリアは尊重されるべきだからだ。だからある意味、彼が今のような状況に陥ってしまったことには現代の社会や都市の在り方と関係していて、それがまたこの世界のどうしようもなさへの諦念を加速させているようにも思える。

おわりに

いろいろ書いたが僕がこの小説を気に入っているのは上のようなこととはあんまり関係なくて、実際の理由としてはとにかく文章のビビッドさに心底惚れ込んでしまったからだ。なんてことのない描写であっても数時間以上は考え込まないと出てこないのではないかというほどに練り込まれ、それでいて文章の流れは淀みなくどこまでも繋がっていく。小説家としてのウエルベックには驚かされるばかりだ。