基本読書

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ドーキンスによる無神論者のためのビギナーズ・ガイド──『さらば、神よ──科学こそが道を作る』

この『さらば、神よ』はリチャード・ドーキンスによる無神論者になるためのビギナーズガイドである。原題は「Outgrowing God A Beginner's Guide」で「outgrowing」は成長する、卒業する程度の意味を持っているので、ニュアンス的には神からの卒業、といった感じか。尾崎豊か。ドーキンスはもともと『神は妄想である』の中でかなり攻撃的に宗教や神概念を攻撃していた、筋金入りの無神論者だ。

『神は妄想である』を読んだときは「言いたいこたわかるけどそんなに攻撃的に言ったって聞き入れられないでしょ」と思っていた。だが、本書はさすがにかなりの年月も経って、ドーキンスもそんな姿勢じゃ伝わらないと反省したのか、「あのね、聖書とかに書いてあること、よく読めばわかると思うけど、ほとんど嘘だからね……」と懇切丁寧に説明してみせる。その態度の変わりようがあまりにも劇的で、じっくりとその理路を、科学の意味を説いていくので、(態度の軟化に)若干の感動すらある。

自分で判断できる年齢になったすべての若者たちへ

無神論者になるための初心者向けのガイドなので、複雑な話はない。たとえば、最初は新約聖書および旧約聖書の話題では、いかにそれが「間違っているか」、どれだけ人が事実にストーリーをくっつけ、歪めていくのかについて触れている。

『新約聖書』に、イエスの生涯を記した正典の福音書は「マタイ伝」「マルコ伝」「ルカ伝」「ヨハネ伝」の4つがあるが、これは裏付けがある絶対確実なものではなく、ローマ会議のころにたくさん出回っていた福音書のうちの4篇にすぎない。

この4つの福音書は相互に矛盾した内容が書かれている(12人の弟子がいたことは一致しているが、弟子が誰かは一致していない)し、特に「マタイ伝」では、『旧約聖書』に書かれている預言の成就にこだわって(しかも誤読して)マリアがイエスを産んだ時に処女だったという伝説を作り出していることで、こんなもんを信じるなんてちゃんちゃらおかしいだろうが(とはいってないが)とその間違いを指摘していく。

キリスト教徒でもなければキリスト教文化圏の知識もないので正直こうした聖書の記述がどれだけ人々に信じられているのか僕にはまったくわからないのだけれども(いくらなんでも処女懐胎とか死んでから生き返ったとか信じないだろと思うんだけど)、「歴史としては信じていなくても、道徳の書」としては信じているという人もいるだろう。つまり、「聖書には良いことが書いてある。だから、信じる」、ということである。これ自体はぱっと見自体は特に間違ったことは言っていないようにみえる。

道徳的でもない。

だが、ドーキンスは「聖書は道徳的でもない」といってみせる。聖書には非道徳的な話が大量に出てくる。たとえば、神を愛する善良な男ヨブがいる。神はそれを喜んで、サタンと一種の賭けをした。それは、ヨブが善良で品行方正でいられるのは彼が裕福で健康で素晴らしい妻と愛すべき10人の子供がいるからだと。

そこで、神はサタンに対して、ヨブはそのすべてを失っても善良でありつづけ、神を愛し崇めつづけるといった。そこで、サタンは子供を皆殺しにして使用人も殺し、家も破壊しヨブの体中に腫れ物を作った。だが、ヨブは神を信じ続けたので、この賭けは神が勝った。最終的に腫れ物をなおして、前よりたくさんの富を与え妻はもっとたくさんの子供を産んだ(死んだ10人の子供や使用人は戻って来ない)。

「神への信仰を試すためにあえてひどいめにあわせる」逸話は他の宗教でも類似の話が語られているが(聖書にも何パターンかある)、通常、そんなことをする神は善良ではない。つまり、聖書は道徳を教える「グッドブック」ではない。まあ、それはそうだろう。ノアの箱舟とかも助ける動物を選別するひどい話だし。*1

科学と神

本書の第二部は、今度はそうした聖書読解から離れて科学の方面から宗教を否定していく。たとえば、精巧な時計を生み出すには時計職人が必要なわけで、人間のような複雑な生物の発生にも職人が想定されなければならない──とされる「デザイン仮説」に対して、丁寧に自然淘汰、生物の発生メカニズムを通して説明してみせる。

科学の発展の歴史には何度も「嘘だろ!?」という認識の転換があった。太陽と月は自分たちの周りをまわっていたと思っていたが、まわっていたのは自分たちだった。人間は神にデザインされたと思っていたが、猿からの進化だった。時間は光の速さに近づくと流れが遅くなることもわかった。科学は、時に我々にとって当たり前だった世界観を破壊し、思いもがけない世界へと連れて行く。それまで当たり前だった世界観、常識を否定することは恐ろしいことかもしれないが、そのためには無神論者となり、安全地帯を抜け出すことが重要だ、とドーキンスは発破をかけてみせる。

なぜ科学の道をいくために無神論が必要なのか。それは一つには、それが我々の目を曇らせるからだろう。たとえば、ダーウィンの進化論、自然淘汰理論は、原理自体は単純で数学も必要ない。であれば、19世紀よりも前、アリストテレスもアルキメデスもガリレオもニュートンも辿り着けたはずだが、それはできなかった。

 なぜそれほど時間がかかったのか? 私の考えはこうだ。生きものの複雑さ、美しさ、「目的に合っているさま」が知性のある創造主によってデザインされたことは、あまりに当たり前に思えたに違いない。そのため、何かほかのことを考えるには勇気を持って大きく飛躍する必要があった。それは戦う兵士の勇気のような、身体的な勇気ではない。知的な勇気だ。

『当然に思えることを否定する知的勇気』こそが科学の道を切り開いてきたのだーー! 空白へ向かうためには、まずあらゆる神に見切りをつけなければならないといってみせる。かっこいいぜドーキンス。

おわりに

とはいえ、宗教を信じながら同時に科学者としても優れた成果を残している人もいることを考えると、信仰を持っていることと科学の空白の道を勇気を持って歩むことは決して矛盾するものではないんじゃないかなあ……と思う側面もある。

ただ、ニュートンも熱心にオカルト研究に時間を費やしていて(錬金術とか、聖書の黙示録解釈とか)、凄まじい科学の成果を上げたニュートンが無神論者でそんなことせず、目が宗教で曇っていなければもっと凄い成果を残せていたはずなのに……という文脈に近いと思うので、ドーキンスのいうこともわかるんだけれども。あと、アメリカではいまだに4割もの人間が進化論を信じていなくて、神への信仰を持っている人たちに対する危機感は僕の感覚とは大きく異るものがあるんだろうな。

神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別

*1:聖書というのは真面目に読むとアホみたいに残虐なことが書いてあって笑えさえするのだけど、その辺は架神恭介『「バカダークファンタジー」としての聖書入門』に詳しい。