- 作者:デイヴィッド・マークソン
- 発売日: 2020/07/17
- メディア: Kindle版
ただ、普通の自伝ではない。版元の紹介に〈アメリカ実験小説の最高到達点〉とあり*1、最高到達点かどうかは、実験小説界隈にスキーのジャンプのように明確な計測が(僕の知る限りでは)存在しているわけではないので不明なところもあるが、とにかく実験的小説であることは確かである。というのも、女性はかなりの教養と美術的素養のある人物であることがその語りからは伺えるのだけれども、何十年にも及ぶ孤独な放浪と探索生活がたたったのか、すでに狂ってしまっているように見えるのである。
スペインの階段で何百個もテニスボールを転がしたり、17個の腕時計をアラームが鳴るたびに1つずつアルノー川に落として17時間を過ごしたり、時間の感覚もおかしく4週間前と何年も前の話とさっきあった話がすべてごたまぜになって語られていく。いよいよやることがなくなると時々家を燃やし、砂浜に偽のギリシャ文字を描く。
その語りは、主体と客体が転倒し、先に当たり前のように書いた事実を、「○○と書いたが、あれは間違いだ。」と否定してみせる。記述は一文単位では成立しているが、とはいえ、しかし、いずれにせよ、あるいは、と話題が頻繁に転換されて、別の場所に向けて走り始める。幾度も同じ話を繰り返し、連想が連想を呼び、元の話題がなにかもわからなくなったところでまた元の話題に戻ってきてみせる。
実を言うと、絵よりも先に本当に見つけたいのは、いなくなった猫だけれども。
実際にはそれは本物の猫ではないし、本当に行方不明になったわけでもないが。
それはマグリットにすぎないから。つまり元々はフィンセントだ。
それはつまり、割れた窓の外にあったテープが吹き飛んだようだということでしかない。
とはいえ、陽気にガラスを引っ搔く音にはかなり慣れ親しんでいた。
空を舞う灰をまた見るときが来れば、それだけでもきっと愉快だろうと思うけれども。
他方で、空を舞う灰にわざわざ名前を付けようとまでは思わないだろう。
ところで、サッカー用のシャツには、背中に数字が書かれていた。
ひょっとすると9だったかもしれない。あるいは19。本当は0が二つだった。
ところで最近、日没後に、水のそばで焚き火をするようになったという話はしただろうか。
私は日没後、水のそばで焚き火をするようになった。
頭はおかしいのだけれども、話の転換、連想、彼女の中で何度も語らねばならない主題のリズムが読み進めるうちに捉えられるようになっていき、終盤の方は文章を読んでいるというよりかはほとんど絵を見ているかのように読んでいた。普通のつながりの文章ではありえない、イメージの連携のようなもので文章が繋がっていて、「こんな文章があったのか」とゾクゾクするような飛躍と、それによる美しさがある。
世界に一人であるがゆえの認識の不確定性
というよりも、読んでいるうちにこの彼女の世界認識、語りはある意味ではこの世界における至極まっとうなもののようにも思えてくる。たとえば、通常であれば世界を認識するとは様々な他者の世界認識や記憶に支えられているものだ。
人が「何年前にこんなことがあった」といっているし大量のデータを残しているからおぼろげな記憶でも「そうだったかもしれないな」と思うし、旅行をしたらたくさんの人がいて情報があって標識があるから、翻訳もできるし、そこがどこなのかはすぐにわかる。ある本のタイトルが思い出せなくても、すぐに検索したり人に聞いたり現物を見たりすればいい。とにかく「多くの人が同意する」が認識の根拠となる。
だが、世界に一人の彼女の前にそうした他者の世界認識は存在せず、移動しながら彼女は自分がどこにいるのかもあやふやで(『ついでに言うと、私はギリシアのコリントに立ち寄りたかったのに、かなり経ってからコリントを通り過ぎたことに気づいた。』)、過去を思い起こすと記憶は掘り出されるが、その記憶の正確性を保証してくれるものは(正気が怪しい)自分自身しかいない。つまり、確かな物はなにもない。
そうした、世界に一人であるがゆえの認識の不確定性による葛藤は、本書ではところどころさしこまれていく。たとえば、『別の言い方をするなら、『アンナ・カレーニナ』が手元に一冊もない場合でも、やはりそのタイトルは『アンナ・カレーニナ』であり続けるのだろうか。』というように。『アンナ・カレーニナ』は著名だからその書名はたしかだと確信が持てるかもしれない。だが、すべての本をそうやって記憶できているはずもなく、人がいなくなった世界ではすべてを確かめることはできない。
ゆえに、「ひょっとすると9だったかもしれない。あるいは19。本当は0が二つだった。」みたいな、自己の認識・過去の記憶のゆらぎをそのまま書くはめになる。何も確かなものがない世界で、彼女はできる限り正確性を保とうともがいているようにもみえる。
おわりに
「論理よりもイメージの連想によって繋がっていく」独特な語りは、僕がかつて文庫解説を書いた森博嗣『赤目姫の潮解』を思い起こさせるもので、赤目姫が現時点における森博嗣の最高傑作だと思う僕としては、本作が大好きになるのも当然といえた。
『赤目姫の潮解』の解説の書き出しは、『『赤目姫の潮解』を最初に読み終えた時の感想を一言であらわすならば、「何がなんだかわからないが、すげえ」だった。』だったが、本作においてもまったく同じことを思う。
*1:これは版元が勝手に言っているわけではなく、デヴィッド・フォスター・ウォレスが本作に対して「おそらくアメリカにおける実験小説の最高到達点」と絶賛したのが元