- 作者: フランシス・ハーディング,児玉敦子
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2017/10/21
- メディア: 単行本
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舞台となるのは先に書いたように一九世紀後半、ダーウィンの進化論の発表によって人々の世界観・宗教観がまさに揺さぶられつつある時代。高名な博物学者サンダリーは、翼ある人類の化石──旧約聖書に出てきた民ネフィリムであり、進化論の否定になりえるものを発見したと公表し、一躍有名になったが、後にそれは”でっちあげ”であったことが明らかになり彼の名は地に落ちた。物語は、サンダリー一家が人々の軽蔑する視線から逃れるため、とある島に移住する場面からはじまる。
簡単にあらすじとか
主人公となるのは、サンダリーの娘のフェイスだ。この時代、男性の頭蓋骨の方が大きく、それだけ女性よりも知的であり、女性は知恵をつけすぎるとその魅力が損なわれて台無しにされてしまう──つまり、女性は愚かであれと言われていた。そんな時代にあって、フェイスはその旺盛な好奇心によって無数の知識を得て、世間一般の”正常な女性”に求められる姿と、自分自身とのギャップに悩み苦しんでいる。
フェイスは真っ赤になった。徹底的に打ちのめされ、裏切られた気がした。科学に裏切られたのだ。心の奥底で、たとえ人に非難されようとも、科学に非難されることはないと信じてきた。父の書物はいつでも手の届くところにあったし、父の日誌も、女性であるフェイスの目から遠ざけられることはなかった。それなのに、科学はわたしをはかりにかけてラベルを貼りつけ、ふさわしくないとみなしている。科学は、わたしが賢いわけがないと断じたのだ……もし奇跡的に賢かったとしたら、それはわたしがどこおかひどく異常だということになる。
一家が移住したのち、噂は島にまで追いつき、サンダリーは一見したところ自殺に見える、不審な死を遂げてしまう。フェイスはその死の謎を解き明かすために行動を開始するのだが、ここで重要になってくるのが、書名にもある”嘘の木”の存在だ。
なんでも嘘の木は、光を遮断した環境で育ち、嘘を養分にした時だけ花を咲かせて実をつけ、その実を食べた人間には、極秘の知識を与えるのだという。フェイスは父の死後、調査を進める過程で、父がこの”嘘の木”を所持していたことを知り、翼ある人類の化石という嘘も、木に養分を与えるためであったことを知ってしまう。
真実を知るために、嘘をつく。
なんでも嘘の木は、嘘が重要な事柄であればあるほど、信じる人が多ければ多いほど大きな実と秘密をつけるという。サンダリーは検証を重ねるうちに、嘘の内容が、のちにもたらされる真実に影響を与えるのではないかと考え、人類の起源にまつわる秘密を知るために、巨大な嘘をつくこと──翼ある人類の化石──を画策したのだ。
フェイスは父の残した日記からその事実を知り、自身が住んでいる島に嘘を広めることで真実の実を手に入れ、父の死の真実を突き止めようとする。嘘にもいろいろな分類があるものだ。自分をよくみせたい嘘、誰かを攻撃する嘘、誰かを守るための嘘。サンダリーとフェイスがつく嘘は嘘の木に起因するものだが、サンダリーの妻は夫が自殺ということになると埋葬すらも満足にしてもらえないことから、夫が事故死したことにできないかを画策し──と、物語には全篇を通して”嘘”が満ち満ちてゆく。
嘘は炎に似ていることをフェイスは知った。最初は、世話を焼いて養分を与えなければならない。それも、注意深くやさしく。生まれたての炎はかすかな吐息にあおられるが、強すぎると消えてしまう。嘘が根づいて広まり、興奮とともにはぜるようになれば、もはや薪をくべる必要はなくなる。けれども、それはもう、自分ひとりの嘘ではない。ひとたび命と形を得た嘘を、支配することはできないのだ。
嘘をつかなければならないのはこの時代性も関係している。女性は賢そうなところをみせると相手を不機嫌にさせるから、バカなふりをしなければならないし、仮に画期的な研究をしても誰にも信用してもらえないので、その成果を自分の名で発表することさえできない。自殺が大罪だという社会では、自殺者を真っ当に埋葬をしてもらうという当たり前のことでさえも、押し通すには嘘が必要になってしまう。
おわりに
だが、時代はその後ゆっくりと変ってゆくのはご存知の通り。何よりも自分は科学者だという強烈な自負を持つフェイスは、嘘よりも真実を語ることを願う。『わたしは科学者なのよ。自分にいい聞かせる。科学者は畏敬の念に打たれたり、迷信に屈したりしないものだ。科学者は疑問を提示して、観察と論理によって答えを導きだす。』
”嘘の木”は完全にフィクションだが、フェイスはそれに対してもあくまでも科学者として対応する。嘘の木を一部切り取り、日の光に当て反応を確かめ、嘘に対する実の付き方を検証し、と理屈を見出してゆくあたりは、ファンタジィであると同時にSF的な読み味もある。終盤で「自分自身でさえも気づいていない嘘」に気づく瞬間など、いろいろな側面から嘘というものを描ききった快作で、大変満足しました。