基本読書

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無秩序な日本中世を振り返り、現代の当たり前を見直すエンタメ歴史ノンフィクション──『室町は今日もハードボイルド―日本中世のアナーキーな世界―』

最近日本に住んでいるフランス人や中国人YouTuberだったり海外YouTuberの動画をだらだらと見ていることが多いのだが、同時代を生きていたとしても国ごと、コミュニティごとで常識は異なっていて、なんで日本の店はきんきんに冷えた水が出てくるの?? とか、そうした違和感を聞くのがおもしろい。どちらが良い/悪いという話ではなく、どちらにもその土地の歴史や風習と絡み合ったものであって、「は〜そういう考え方があるんだなあ」と当たり前だと思ってきたものを見直すことができる。

で、そうした違和感や驚きを得られるのは、時代が離れた同じ国の中でも同じことである。本書『室町は今日もハードボイルド』は、日本の中世史を専門として『耳鼻削ぎの日本史』や高野秀行との共著『世界の辺境とハードボイルド室町時代』で知られる学者の清水克行最新作で、日本中世の事件や事例を通して当時の価値観、伝統とはどのようなものだったのかをあぶり出してみせている。その価値観の多くは現代人とは相容れないものばかりだが、当時の人々からしてみれば常識であり、彼らなりの道徳やロジックに沿ったものであった。だからこそ、おもしろいのである。

日本中世はおもしろい!

しかし日本の中世(本書では11世紀後半の平安朝時代後期から鎌倉、室町を経て戦国時代の終わり頃までをさす)は最近、ゲームの『ゴースト・オブ・ツシマ』(1274年)や『暗殺教室』の松井優征による現在の連載作『逃げ上手の若君』(1300年頃の鎌倉〜室町あたり)、ゆうきまさみの『新九郎、奔る!』など、戦国時代から時代をずらした作品が続々と出てきており、この時代の魅力が知れ渡りつつあるように思う。

そして、ノンフィクションで読んでもやっぱりこの時代はおもしろい。その魅力はやはり、この時代のアナーキー感にその一部があるのだろう。本書の著者は、この時代をアナーキーと表現する理由を次のように説明してみせる。

 東国に鎌倉幕府がある一方で、西国には天皇を戴く公家政権が存在し、地方社会は彼らが支配する荘園によって分節化されていた。また、中世の終わりには、各地に戦国大名が割拠して、それぞれの支配地域を独立国として支配していたことは、ご承知のとおりである。そのうえ、庶民たちは「村」や「町」を拠点にして、独自の活動を展開していた。そこでは、幕府法、公家法、本所法(荘園内の法)、村法など、独自の法秩序があり、幕府法が村法より優位ということは必ずしもなく、それぞれ等価に併存していた。それを考えるなら、中世は、日本の歴史のなかでも前後に類がないほど〝分権〟や〝分散〟が進行したアナーキー(無秩序)な時代だったといえるだろう。

こうした過去の価値観を知ることは、我々が現代当たり前としている価値観を絶対のものとみなす「当たり前」をゆるがすものになるだろう。

どんな時代だったのか?

本書は月刊誌の『小説新潮』での連載コラムをまとめたものなので、一話完結で、ざっくばらんにさまざまな話題が取り上げられていく。たとえば当時の無秩序感をあらわすのに良いのが、「法」についてのエピソードが語られる章である。

中世の日本社会では、幕府の定める大法とは別に社会集団ごとに別の大法があり、それらが併存していたのだという。法は併存できないだろと思うのだが、実際に真面目に主張され、時にはローカル法が公的に定められた大法よりも優越することもあった。たとえば、「自然居士」という能の作品では、人買いの商人が少女を買い、それを阻止しにきた自然居士(半僧半俗の説教師)と口論になり、「人を買い取ったら、ふたたび返さない」という大法が人買いの中にはあるのだと反論する様子が描かれる。

そんな主張がまかり通ったらなんでもありじゃねえか、と思うのだが、実際にはこの人買いの主張にも(当時の価値観からすると)理がないわけではない。当時からすでに人身売買は原則的に法律違反だったが、罪とならないケースもあった。それはたとえば大飢饉の時で、餓死が予測される状況下では、子供を売りに出すのもやむなしとされていたのである。当然、そのような状況下で売り買いされる人の金額は安くなる。

子供を売り飛ばしても、飢饉を乗り越えたら買い戻したくなるのが親の情である。当然親としては売り飛ばした時の金額で買い戻したいが、人身売買商人からしてみれば労働力にもならないような8〜9歳の子供を投資の意味もこめて買い取っていて(実際、飢饉の時に売買されていた少年少女は大半がそれぐらいの年齢)、食事や衣服を与えてきたのだから、同価格で買い戻されたら投資分の回収が困難になる。

不景気の時は身売りしておきながら景気がよくなったら現在の物価を無視して買い戻そうなんて虫がよすぎる、というのは扱われているのが人であることを見なければもっともな話であり、彼らの大法の「人を買い取ったら、ふたたび返さない」に繋がってくる。『おそらく「自然居士」の人買い商人たちが「人を買い取ったら、ふたたび返さない」というのも、購入時の相場と買い戻し時の相場の激変があることを見越して、そうしたトラブルを未然に防ぐために生み出した法慣習と見るべきだろう。』

人の命が軽い、暴力的な時代

中世は人の命が軽く暴力的な時代でもある。なんとかの変とか、なんとかの乱といった政変・戦乱が、この時代は記録されているだけでも異様に多い。

中でも、「びわ湖無差別殺傷事件」の章では、金品強奪のためびわ湖上で16人を皆殺しにした男・兵庫の顛末が語られる。凄いのが、最後に少年とその後見役の僧侶の二人が残り、僧侶が私の命はもういいので少年だけは助けてくれ……と懇願し、心得たといった次の瞬間2人とも殺してしまうのである。残虐非道だが、その時死んだふりで難を逃れた者が一人いたおかげで、幕府にまで話が通り、実行犯の住む堅田全体の責任を問う流れになる。だが、そんなことをしたとは知らなかった実行犯の父・弾正はすべての責任をとって切腹。以後、堅田全体の責任が追求されることはなかった。

え? 実行犯はどうなったの? と疑問に思ったが、彼は父の命が失われたことで衝撃を受け、遍歴の旅に出、最終的には浄土真宗に帰依して強固な信仰を獲得し、「悪に強きものは善にも強い」とは彼のための言葉だ! めでたしめでたしと後の逸話では残されている。子供含む16人も殺しておきながらショックを受けるのは父親の死で、現在の道徳観からするとなんじゃそら感を感じる。

が、当時の人間の命の価値観は、生活空間の外部の人間は低かった、ということなのだろうと締められている。ま、そりゃそうなのだろう。往来が頻繁でない時代からすれば、たまたま通り過ぎていく人間などどうせ二度と会わない人間であり、彼らがその先どうなろうが知ったことではない。

おわりに

他にも、婚姻関係にある女性が夫に浮気されたり離縁されたりした時、殺害などの嫌がらせを夫ではなく浮気相手や後妻相手に行う「うわなり打ち」について、「なぜ夫ではなく浮気相手に嫌がらせするのか?」という疑問に対する答えなど、いっけん理不尽に思えても、当時の状況を知るとそれなりの理屈が浮かび上がってくるものだ。

同じ国といえども数百年もさかのぼってしまえばもはや別文化。しかしそこにはやはりゆるやかな連関もあり、変わったもの、変わらなかったものを確認しながら現代を相対化するのも、またおもしろいものだ。軽いエンタメノンフィクションなので、気軽に手にとってもらいたい。