230ページほどの短い本文の中に、意識と神経科学をめぐる話題とこれから先、人工意識や人間のマインドアップロードが実現したときに未来の社会はどう変わるのか? という未来予想までが詰め込まれていて、満足度の高い本である。意識の話は一般向けでも専門用語が乱立しハードルが上がりがちだが、本書はたとえ話も豊富で、比較的わかりやすい。最近の意識をめぐる本の中では特におすすめな一冊だ。
注意スキーマ理論
本書の中で中核をなしているのが、著者らが構想をはじめた、「注意スキーマ理論」と呼ばれるものである。注意スキーマとは、脳がどのように情報をとらえて処理をするのかについての単純化された記述・手続き全般のことを指している。
それだけで聞かされても意味不明だと思うのでもう少し詳しく説明していくと……。注意スキーマはともかく「注意」はみな知っていることだろう。我々は日常を過ごしていると必ず注意をあちこちへ飛ばす。ふと外に注意を向けたら空が暗くなっていてそろそろカーテンを閉めようかな、洗濯物をとりこもうかな、と思うかもしれない。その時の注意は空に向き、その後洗濯物へと向かって、乾いているかな、でもあんまり時間が経ってないからかわいてないかもな、など注意は様々にとんでいく。
注意スキーマとはいってみればそうした注意の移り変わりを可能にするモデル+一連の流れのことである。たとえば、注意は無作為に行われるわけではない。我々は注意を向けたい対象に注意を向け、複数の対象に注意を振り分けたり、現実には存在しない概念、思考にも注意を向けることもできる。我々は脳内の処理資源を優先順位をつけて特定の対象に振り分ける必要があるが、そうした取捨選択と制御を行うために、我々は世界を単純化してとらえ、予測するための内的モデルを必要とする。
私と共同研究者は、この仮説的な内的モデルを、身体をモニターする役目をはたす身体スキーマになぞらえ「注意スキーマ」と読んでいる。注意スキーマは、注意──注意が向けられる対象ではなく、注意それ自体──を描写する一連の情報である。(p40)
意識のハードプロブレムへの答えのひとつ
ここまでは神経科学的な流れの話なのでわかりやすい話だが、重要なのは、「内的モデル」の部分だ。著者によれば、我々は注意スキーマで世界を認識するときに内的モデルに従い、その過程で主観的な意識体験が生じる。ただ、我々が用いる「内的モデル」は、世界を簡略化した心のなかだけのものであり、必ずしも物理世界を科学的に正確に描写するように進化したものではない。むしろ現実とはズレている面がある。
そのズレのひとつが「意識」にある、というのが著者の主張のひとつである。我々は「意識」を持っていると感じ、それは他者に伝達不可能なので解き明かすことは困難だと思う。だが、著者にならえば、あなたが意識を持つと主張するのはそのように教える一連の情報を(内的モデルに)持っているからだ、ということになる。
私たちは、深く、直観的に、不合理なやり方でなにかを信じることがあり、私たちに意識があると信じるのはその最たるものである。それは、脳が世界と自身についてのモデルを自動的に構築し、それらのモデルに部分的ながら認知的にアクセスするからである。(p159)
最初読んでいる時何意味不明なことを言っているんだ? と理解できなかったが、別のたとえを読むと少しわかりやすくなる。たとえば、白い色をみたときのことを考えよう。視覚システムは「白は明るく混じり気のない色」というモデルを構築しているし、多くの人の知覚はその見解と一致するはずだ。これは内的モデルの一例である。
だが、実際の白い光はすべての色が混ざりあったもので、脳はそれを単純化して表象しているにすぎない。では、なぜ私たちは白い光を混じり気のない色だと考えるのか? 答えは意識と同じく、我々のモデルがそう感じさせるからだ、になる。
しかし、頭では白い光がすべての色の混ぜ合わせだとわかっていても、その知識が視覚システムに組み込まれたモデルを変えることはない。私たちには依然として、白は混ざりあった色ではなく、混じり気のないピュアな色に見える。だれもこの矛盾を気にしていない。私たちは、脳のより深くにある生得的な内的モデルと矛盾する、理知的知識の層に慣れてしまっている。科学とは、脳の理知的な部分が、進化によって脳に組み込まれた世界についての内的モデルの不正確さを、少しずつ発見してゆくプロセスと言えるかもしれない。(p138)
意識は解き明かせない難問(ハード・プロブレム)だというのは、それが主観的で他者にどうやっても共有できない体験のように感じられるからである。だが、そうした直観的感覚は白い光=混じり気のない色であるというように、我々の内部モデルがそう教えているからそう感じるだけなのだ。つまり、そもそも難問は存在しない。
注意と意識は分離できる
注意と意識は切り離されることもある。たとえば、幼少期に一次視覚野のほとんどを失い、右側の空間全部と左側の空間の大部分がみえなくなった患者で行われた実験がある。彼は左側のわずかな領域だけものをみる=視覚的に意識することができる。
ところが、見えないはずの領域に提示されたドットを指差すように言われたら、正確にそれができるのである。患者がいうには、自分には何も見えないが、自分の前にあるものがなにか、確信を持ってわかる(know)という。ドットを意識的にみることはできなくても、資格情報は脳に入っていて、手の動きをガイドすることはできたのだ。
これは「盲視」と呼ばれる現象だが、これが意味しているのは意識のメカニズムが損傷しても、注意のメカニズムは存在しうるということである。で、このふたつは別々の特性を持っているわけだが、単純化してしまえば注意とはデータ処理の方法であり、意識は自分が有していると思う内的な体験である。本書では、注意とはダイオウイカ(現実に存在する生物だが、めったにつかまらない)であり意識とはクラーケン(神話上の生物で存在しないが、ダイオウイカが元になっている)であると説明される。
おわりに
注意スキーマ理論は意識に意味や役割がないといっているわけではなくて、むしろ意識には重要な役割──注意がどのような状態にあるかを脳に教える──を担っていて──という話が後半では展開していくことになる。そして、注意スキーマは物理的な情報であり、その情報を読み取ることで主観的意識体験を持つと考えているかどうかを知ることができるから、いずれ機械にそれがあるかどうかを正確に判定することも、意識ある機械を作ることもできるはず──と話はSF的な領域へ踏み込んでいく。
最初に一読しただけではまるで意味がわからなく、その後もう一度しっかりと読み返すことになったが、それだけの価値のある刺激的な読書体験であった。ページ数自体は短いので、興味がある人はぜひどうぞ。