前著『幻覚剤は役に立つのか』はLSDやサイロシビンなど、一般的に幻覚剤と呼ばれるものが人間に害だけではなく利益をもたらす側面もあるのではないかと主張し、実際に自分でもその効果を体験していく一冊だった。次々と幻覚剤を試してラリっていく体験談とその筆致は愉快で、同時にそれがどのような作用を脳に、人体にもたらすのかという化学的な説明も明快でわかりやすく、傑作といえる内容であった。
本作(『意識をゆさぶる植物』)もその路線を踏襲しつつ、鎮静剤系のアヘン、興奮剤系のカフェイン、幻覚剤系のメスカリンと精神変容をもたらす薬物の代表をあげ、それぞれに「(栽培なども含めた)自分の体験」と「科学・歴史的な経緯の描写」を混ぜて紹介していく。このスタイルは日本で言えば高野秀行路線といえるだろう(高野さんの代表作のひとつ、『アヘン王国潜入記』も本作は思い起こさせる)。
規制されることが多いアヘンやメスカリンと並んで、世界中で日常的に飲まれているカフェインが語られているのは、何が”違法”になるのかはその時の政府による定義の影響が大きいという主張からきているのだろう。たとえばコーヒーだって、アラブ世界とヨーロッパの療法で何度も違法化されてきた過去がある。
幻覚剤は今は規制されている国が多いが、シロシビンが精神医療の治療に有効だという研究が出てきてFDAが治験を承認したりと、植物由来の成分は、違法と合法の境目が常に揺れ動く状態にある。本書でも、アメリカ先住民が幻覚物質を含むサボテン(ペヨーテ)を儀式で使って、植民地主義の略奪行為などによるトラウマを集団で癒やし、社会規範を強化してきた、宗教的・精神的な活用方法の歴史が語られていく。
もちろん規制される/されないの区分は、政府の定義だけで決まるわけではなく、社会のルールを支えるような薬物なら許される傾向にあって──と、そのへんの話が各薬物の実体験とともに語られていくのである。以後、詳細に紹介しよう。
アヘン
アヘンの章でメインになっているのは、著者が1990年代後半に書いた文章だ。もともと著者は庭づくりのエッセーなどを書いていたライターなのだが、園芸家として次第に植物と人間が築き上げる共生関係に興味を持つようになり、ケシを栽培して、芥子茶(ポピーティー)を体験するに至った経験がここでは語られていく。
そもそも当時のアメリカでケシを栽培するのって違法じゃないの? と思うかもしれないが、これは判断の難しいところだ。たとえば、違法なのはアヘンの「製造」であるといわれる。それならつまりケシを栽培するだけなら問題なさそうだし、園芸用の種子カタログに、ケシも何種も載っていて、園芸でケシを育てている人も多くいる。しかし、「栽培」もまた「製造」の一過程ともいえるので、その境界は曖昧だ。
特に、ケシを茶にして飲み体験談や製法を本にしたホグシャーという人物が罪に問われたことを端緒に、状況は一段とグレーになっていく。ホグシャーによれば、市販されているケシを栽培してできた果実の部分(芥子坊主)を、手のひら一杯分のコーヒーグラインダーで粉末状にすりつぶし、熱湯で煎じるだけでアヘン的な効果が得られるのだという。それが本当なら、アメリカでは誰の目にもよく見えるところにアヘンが隠れていて、誰でも手軽にアヘンの効果を体験できるといえるだろう。そして、政府機関はなんとかして一般市民にそれがバレるまえに、ケシの規制を進めたい。
著者はケシを栽培し、それを茶にして飲む体験記を雑誌に発表しようかどうか悩むのだが、もちろんこれはホグシャーのように罪に問われる可能性がある。実際、著者がその体験談のすべてを雑誌に発表できたのかは読んで確かめてもらいたい。
カフェイン
続いて取り上げられるのは、コーヒーや茶に含まれるカフェインだ。僕も平日も休日も必ずコーヒーを飲むところから一日が始まるし、集中したい作業をする時はコーヒーを飲みたくなる。実際、それは正しい行動だ。長年の研究で記憶力や集中力と言った認知力の様々な尺度でカフェインが数値を上昇させることがわかっている。
誰もがカフェイン中毒の現代は、カフェインのドーピング効果が存在することが前提の社会といえるのかもしれない。ミツバチはカフェインを含む花をよく記憶し、カフェインを含まない花と比べて4倍も訪れるようになるというが、これは実は人間も同じだ。アメリカの売上上位6ブランドのソーダ飲料にはどれもカフェインが加えられているが、カフェインを一緒に摂取すれば、人はそのフレーバーが好きになる。たとえカフェインの味が判別できずとも、人はカフェイン入りの飲料を好むのだ。
カフェインに関しては誰もが体験しているので、あえて著者の「体験」ではその逆のこと──「カフェイン断ち」を数ヶ月に渡って実施してみせる。快眠が続くようになるなど良い効果もあるが、集中力などは基本的には落ちてしまっているようだ。この章のクライマックスは数カ月ぶりにカフェインをとった時の描写で、僕のようにカフェインに浸かってしまった人間が失った、新鮮な驚きに満ちている。
いや、明らかにベースラインを超え、カップの中にもっと強力なもの、たとえばコカインかスピードでも入っていたかのような印象さえあった。うわあ、これ本当に合法なのか?(……)視界に入ってくるものすべてがまるで映画のように心地よく鮮明に見え、ボール紙のスリープを巻かれたカップを持つそこにいる人々はみな、自分が飲んでいるものがどんなに強烈なドラッグかわかっているのだろうか、と思う。だが、わかるわけがないのだ。
おわりに
最後の章は「メスカリン」と呼ばれる幻覚剤の一種で、これは一部のサボテンに含まれる成分である。著者はアメリカの先住民がこれをどう儀式で扱ってきたのか、その宗教と文化との繋がりを描きながら、自分が体験したメスカリン体験(友人がどこかから硫酸メスカリンのカプセルを二つ調達してくれたのだという)を詳述していく。幻覚剤の王と言われることもあるメスカリンだが、サイケデリックな薬物のようだ。
メモには「俳句意識!」という謎めいた言葉があったが、今思い返すと、そのときの感覚をとらえようとしたなかなかの名言だと思う。その日は世界のすべてがそうした禅的なあからさまな存在感、ある種の内在性をあらわにしていたからだ。
アヘンの章が実質的に再録で、メスカリンの章がコロナで大々的な取材(儀式の体験など)ができなくなってしまったのも関係して、前著『幻覚剤は役に立つのか』と比較すると少しパワーダウンした感は否めないが、依然としてマイケル・ポーランは新刊が出たら何をおいてもまず読みたいと思わせてくれる作家のひとりだ。前著が楽しかった人も、本書が気になった人も(高野秀行ファンも)きっと楽しめるだろう。