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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ヴィクラム・ラルの狭間の世界 by M.G.ヴァッサンジ

優れた作品に触れた時の感覚はとても言葉にしづらいものだ。一様ではなく、作品ごとに受ける感覚がひどく異なるからということもあるし、単純に言葉に出来ない領域に触れてくるからだろう。孤独や、自分にとってどうしようもできない状況に立ち会ってしまった時の無力感、直接的な人種差別など、言葉にすると至極簡単に表現されてしまうことでも、実感としてはこんな単語に収まりきらない広がりを持っているものだ。優れた作品はそうした言葉にし難い、普段は触れられることなくおかれている領域に触れ、刺激を与え、こちらはそれに反応して様々な未知の反応が喚起してくる。「あ、こんな領域があったのか」と触れられて初めて気がつくことがあるし、考えたことがなかったという領域に思考が飛んでいくこともある。こうした予測不可能な自分の感覚的な反応を求めて、僕は小説を読んでいる。

本書『ヴィクラム・ラルの狭間の世界』は革命期のケニア、1950〜1980年台付近を舞台にして、歴史のうねりに巻き込まれ自分なりの立ち位置を求め続けたヴィクラム・ラルの物語だ。インド人の母とケニア人の父を持ち、アフリカで育ったヴィクラム・ラルとその妹、家族は常にその文化的な摩擦の中で生きていくことになる。現地の人々はアフリカ人であり、彼らはアジア人だった。黒い肌に縮れ毛のアフリカ人に、アジア人は白でもなく黒でもなくちょうど「真ん中」──。人種の違いは結婚から差別からあらゆる問題に絡んでくる。ヴィクラム・ラルは常にその立ち位置として様々な物の狭間の世界(In-Between World)を維持し、人生をやり過ごしていく。

差別があり、人種を超えた結婚は倫理的、世間的にタブーとされ、暴力があり、汚職があり、しかし一方ではそうした価値観は過去のものとされ、すべてが大きく変わりつつある時代だった。ヴィクラム・ラルはそうした周囲が大きく変わっていく中で自分が中心となって事態を動かしていく、積極的に理想を掲げ世界に関与していくわけではなく、中間的な位置を好み、ものごとの成り行きをただ傍観するようにして流されてきた。そして本書の冒頭で彼自身が宣言するような事態へと巻き込まれていく。

 私の名前はヴィクラム・ラルだ。アフリカでもっとも汚職にまみれた一人、異様かつ卑劣なまでに狡猾な詐欺師としてひろく知られている。混乱が続いているわが国の財源の大半が近年消えてしまったのも、私の仕業だとされている。国の「恥知らずリスト」のトップにも名前が挙がっている。実のところ、こうした見方はどれも、道徳的感性はともかくとして、私の頭の良さを買いかぶりすぎている。しかし、ここで自己弁護するつもりもなければ、告白によって許しを得ようという気もない。私はただ自分の物語を語りたいだけなのだ。母国に渦巻いている激しい怒りから逃れ、この寛容な隠れ家に身を潜めたいま、必要な時間と孤独には事欠かない。私はささやかな悟りさえも得た──故郷でそれぞれの物語をもっと語り合えば、私たちはいまよりもずっと幸福で心安らかな国民になれるにちがいないのだ。そして日々回想としてあれこれ考えてはページに書きつけながら、私はその考えの正しさをますます確信しつつある。

こんな圧倒的な始まり方をする作品が凡作であろうはずもなく、In-Between world としか表現しようのない、さまざまなことが複雑にからみあい、誰にも制御不可能で、極々一部分だけに影響力を及ぼすことができるような錯覚を手に入れることのできる、そんな不完全な世界を描いていく。良かれと思ってやったことがのちの人生に大きな影響を与える事件に発展し、強い理想を抱えた人間がその達成の間際で、まるで無関係な出来事によって死んでいく。あえて倫理的判断を自分に課さずに、流れに身を任せたまま行ってきた事象が結果的に人生を一時的に良いものにし、また暗転させることもある。

ヴィクラム・ラルは自分自身の人生を、幼少期から青年期、それから政治に関わりを持つようになる壮年期、妹や自分の恋愛、結婚、なぜ「恥知らずリスト」のそれもトップに名前が載るようになってしまったのかを語りなおしていく。非常に個人的な、穏やかで好きな人間がみな周りにいた人生最良の日々のエピソードもあれば、ケニアの独立に関連したさまざまな史実との関わりもあるが、フォーカスされるのはその時々で彼らがどのように感じ、どのような葛藤の中で判断してきたのかである。ヴィクラム・ラルの深煎りせず、倫理的な判断を行わない一貫した距離のとりかたもあって、極端に局所的な事象を扱いながらもどこか読み心地は村上春樹作品でも読んでいるかのような一般性を感じさせる。

複雑な世界、事象を単純なルールにおきかえていくのではなく、政治や金の動き、暴力に民族的対立、家族間の愛情と離反が同時発生するような微妙な心情の総体を丁寧に丁寧に語りおろしていく。それは引用部からもわかるようにヴィクラム・ラルの人生のスタイルであった。決して事象を単純化せず、総体として捉えようとする視点の置き方と、それを見事に表現してのける洗練された文体は複雑になりがちな政治的事象などもまったく停滞させずに回収していく。アフリカにおけるインド人の居心地の悪さみたいなローカルな事象を扱っていながらもぐいぐいとまるで自分のことのように引きつけて読まされてしまう。著者のヴァッサンジの作品はこれが初訳であるが、未訳のものにまで手を出してみようと思わせる魅力を久々に感じさせる、総じて傑作といっていい出来だ。

ヴィクラム・ラルの狭間の世界

ヴィクラム・ラルの狭間の世界