新人第一作、それも特に賞を受賞したわけではないということなので出版経緯が謎だが、新人第一作としては素晴らしい出来。明確に新しく、コンセプトが明瞭で、この時点で物語るスタイルをほぼ確立しており、何より新しいものをやろう、小説でできることをやろうとするパワーがある。文体もキャラクタのノリも展開のスピードも何から何まで新しいが、20億の針を基点とした古典的な枠組みがこうした新しさを抑え調和している。
いくつかの兆候、流行が、どの時代のフィクションにもあると思う。現代においては──ずらずらとあげてもしょうがないから本作紹介に沿う3つをピックアップしてみよう。一つは会話や展開それ自体のスピードが速いこと。二つは誰もが当たり前にアニメや漫画を自分たちの文化としていること。三つは、感情に左右されずクールに物事を見据え、自分たちの限界をよく見極めて物事を決定できるキャラクタ、などなどが考えられるのではないか。注意書きとしては、これは何も現代的なフィクションの特徴を正確に捉えようという意図はないし、現代のスタンダードであると言いたいわけでもない。あくまでも個人的感覚による現代フィクションの流行を簡単にピックアップしてみただけだ。
本作はこうした要素をひと通り兼ね揃えており、それがまた面白さに直結している。特徴的な部分は引用しながら、あらすじも交えて簡単に説明していきたい。
あらすじ
宇宙から情報生命体的な脱獄囚がやってきた。そいつは情報生命体的な刑事から逃れるために、地球上で誰かに侵入し潜んでいる。対してこの脱獄囚を追ってきた刑事は、コミュ障でオタクな高校2年制喚子の身体に侵入を果たし、あの手この手を使って脱獄囚を追いかける手助けをさせようとし、脅し脅され、喚子とそのクラスメイトで切れ者の茜、邦治は協力し脱獄囚が潜んでいる人物の特定作業を進めていく。脱獄囚は脱獄囚であり、当然目的は地球征服などではなく刑事から逃れること。しかしその目的のために人間を平気でゴミのように利用する可能性がある。刑事・脱獄囚は人間の記憶や行動を一時的に操作することのできる力を持っているが、潜んでいる間はその人物は会話を行うことができないという特徴があるなど、いくつか弱点を抱えている。
高校生らしからぬ理屈っぽさ
こうした能力の組み合わせと、喋ることが出来ないという特性に狙いを集めて軸に作戦を進めていくわけだが、この作戦会議の様子が延々と描写されていく、その過程がまず面白い。作中でも屈指の切れ者という設定の邦治と茜だが、宇宙人ともいえるような存在が突然地球にやってきたというのにあっという間に事態を理解し、抽象化し、問題を重要度別にリストアップ・管理し、物事の前提となる情報を整理し、一つずつ的確に対処法を思考していく。やり手のプロデューサーとか、うさんくせーコンサル(みな、いい大学を出ており、自分たちはこの世の動作原理をすべて理解しているかのように自信満々に話す)みたいで、嫌な記憶が蘇ってくるぐらいだ。
「それでは、議題二、なぜ二年B組の誰ひとり喋れなくなっていないか。この夕方、きみたちが来る前に刑事さんから聴きとったところでは、可能性はふたつある。
一、脱獄囚はまだ二年B組の誰かの中にいるが、休眠状態になっている。
二、脱獄囚は刑事さん同様、もはや二年B組の誰の中にもおらず、すでに第三者にのりうつっている。
「今日からあなたもすぐできる 宇宙人が地球に攻めてきた時の対応マニュアル」的にぽんぽんと事態の把握、問題の整理、解決法の提示といった一連のプロセスをほぼ思考時間ゼロ、ぐだぐだするやりとり一切なしで進めていくために、展開は速い。こうした実際的な問題解決能力に加え、会話の端々にマクベスなどの古典教養が会話に「当たり前の知識」として前提されているなど、「普通の高校生はマクベスなんか読んでねえよ」と思う僕としては(ですよね?)どうにも高校生離れしている能力を持ったようにみえる高校生にみえる。だけど今はこれぐらいクールで切れ者を議題進行役として設定する方がいろいろと便利なことが多いと思うな。これにもいくつかの理由が考えられるだろうし、これが最初に書いた「新しい流行」の部分にあたる。
古典を通過したゆえのショートカット
まず第一に現代においては20億の針などの古典は既に通過されてしまっているということ。宇宙人が地球に、犯罪をおかして逃げてきて、それを探偵が追いかけるという構図をやるならば、登場人物を現代人に設定する限り「そういうのいっぱい漫画やアニメで見たわ」となるのも当然だ。さらにいえば、これまで何度も繰り返されてきた宇宙人がきてあーだこーだといっただるいやりとりをしている余裕は、消費速度が早くなっている現代においてはあまりない。たとえば次のようなシーンでも20億の針をふまえて作戦を決定している。
「茜、いい判断だ」邦治は大きくうなずいた。「『20億の針』では、のりうつられた少年がしろうと探偵を演じて犯人をわりだすんだが、そんなぬるいことはしていられない。だけど、いいか、茜。ここは笑いものになってもいいんだ。学校や警察が僕たちを相手にせず手をこまねいていた結果、脱獄囚が大惨事をひきおこしたとしても、その責任は学校や警察にある。だが、笑いものにされるのを恐れて黙っていたら、僕たちの責任になる」
まず宇宙人がきたという事実をふまえて、警察に連絡して国家権力に対処してもらおうとするのがいい。過去の作品をふまえて、かつ存在していた違和感の残る部分をアップデートし、別の方向へ舵を切ることができるのが新しい作品の強味だ。そこにクールに、感情に動かされずにリスクとリターンの計算ができる人間が居ると、当然次のような結論にも達する。やむおえない犠牲は考慮し、その上でできることを最大限やる。
「あたしならこのゲームをどうプレイするか、ききたい?」
「ぜひききたい」
「たった今、公権力を行使して、今夜のうちにあたしたち以外の二年B組の生徒三十五人全員の自宅を急襲、家族ともども身柄を確保して、別々に隔離して監禁するの。さらに、身柄確保のときに被疑者にちょっとでも触れた警察官も拘束して監視下におく。そうしておいて、何カ月でも訊問をつづけ、尻尾を出すまで待つのよ。いい、これはそういう性格のゲームなの」
この場面は、脱獄囚は彼女たちもよく知る二年B組に潜伏しており、接触によって移動する可能性を示された後の作戦会議中の会話。これはそういう性格のゲームなの、と述べているように、これが100パーセント可能かどうかといえばまず無理だろう。しかし現状使い得るリソースを最大限活用できた結果の最短問題解決プロセスとはこのようなものである(つまりそれが性格という言葉で表現されている)、という宣言がゲームの性質を明確に示していて、何より結論を真っ先に出していく(それが現状とりえないにしても)、このスピード感が面白い。
また過去の作品を踏まえて語られていく物語には、最初に述べたような特徴の一つとして「誰もが普通にアニメや漫画をみていて、会話やたとえもこうしたアニメを使うことになる」部分の新しさにつながってくる。たとえば本作でも起こっていることのたとえとしてアニメや漫画を使う場面がいくつかあるが、代表的なのはこの辺だろうか。味方であると思っていた刑事がウソをついていると告発に移行する部分。
「地獄の沙汰もペリカ次第、というわけね」茜は泰弘を見すえたまま言った。「邦治。この話、ちょっとおかしいわ。刑事さんはどこかでウソをついている」
おお、この話、まどマギになるのか。刑事さん、あなたは、キュウべえ系の誘惑者なの?
話に自然とまどか☆マギカの喩え話が出てきて、特にそれが解説されることもない(一人称なので)。むしろこういう反応の方が現代高校生ならあたりまえだよなあと思う(年代が少しズレただけであっという間に通じなくなるのが難点だが)。新しい新しいと言っているが、実際にはこうしたスピード感のある展開や、アニメや漫画を前提知識とする若者描写は、今では何ら珍しくない。だがジャンルごとに発生率がだいぶ異なる印象(ライトノベルなら当たり前、講談社ノベルス系だと汀こるものさんとかもよく使うか)があり、珍しい箇所では珍しいような感じ。本作を新しいなと思ってしまうのは、SF系でこういうことをやる人間があまりいなかったからかもしれないし(似た傾向だと妖精作戦なども思い浮かぶが)、単純に僕の思い込みかもしれないことも留意されたし。
自閉症が重要な鍵
一度に書くとわかりにくくなりそうだったので最初のあらすじ説明では省略したが、自閉症患者が重要な鍵を担っている。冒頭で探偵がやってきてまず喚子に転移するのだが、30分時間が経つと人格を上書きされてしまう。それで急いで別の転移先を探す羽目になる。上書きせずに転移できるのは誰かといえば、これが自閉症者なのだ。喚子の知り合いにたまたま存在していた自閉症者泰弘に接触し、古巣の喚子の身体に人格ごと転移させ、探偵は自閉症者の中に潜むことによって物語は進行していく。切れ者の邦治に茜は、この自閉症者側の関係者で物語に関係していくことになる。
人格を転移させられ強制同居状態の喚子は身体コントロール権を交換しながら生活を送る羽目になる。常時ヘルパー状態というわけだ。で、当然自閉症者への知識など何もないから、邦治にいろいろと教わりながら、ヘルパーとしての経験を積んでいく。この説明の過程と困難の過程はメインの一つといってもいいぐらいに書き込まれ、この話を読むだけでその介護の大変さ、自閉症者の多様さに理解が及ぶようになっていると思う。
じっとしておられず、普通に生きてたら理解できないような強いこだわりを持っており、多動で動き続ける。家族だからといって介護できるレベルを明らかに超えるパワーのかけかたを求められ、自分だったら──と想像せずにはいられない。付き合うにしても相手側の家族に要介護者がいるとそれだけで重荷になるだろうし、家族であることそれ自体があらゆる意味で負担になってくる様はリアリティがある。実際著者にも自閉症の弟がおり、弟との生活体験を元にしているようだ。『知的障害者を家族にもつ人間が何らかの社会貢献をする話、できれば障害者自身が誰かを幸せにする話を書きたくて、いろいろいじっていたら、結果的にこの小説が出来ました。』*1
そもそも最初から知的障害者を主軸に据えて物語を書こうとしている以上ナンセンスな質問だが、「自閉症者をわざわざ物語の中核に据えた意味はあるのか」といえば、実際読んでみると、物語の発端から話の転換点に根本的に自閉症者であることが組み込まれていて、そこまでの違和感は感じない。またオタクコミュ障の喚子ちゃんは、自分の中に自閉症患者を入れることによって多動や病的なこだわり、整理整頓など自分がいままでやってこなかったことを行い、それに伴い彼女自身も変質し前向き──かどうかはわからないが、とにかくアクティブな人間として変質していくという効果もある。
おわりに
自閉症者を自然に物語に組み込んでいく能力もそうだし、新しい部分を導入するためのスタビライザーとして古典的な物語を取り入れるコンセプトもあり、小説であるからにはそこまで書き切って欲しいと思うところまで手を伸ばしてくれるパワーがあり、こうした要素を不足なく書き上げてくるあたり、新人第一作とは思えない出来だと思う。かといって不満点がないわけではない。タイトルはダサいし、やたらと会話を句読点で区切っていく文体は、区切られすぎて読みづらい部分があったし、設定的に複雑になっていく部分とその究明のパートが長くだれてくるのもあるし(もうちょっとスマートにできたんじゃないかとか)、物語を制御するために導入された設定がそのまますぎてつまらない部分もある。
ただそういう不満点を吹き飛ばしてくれるぐらい良い点は優れており面白い。今後より洗練され、新しい方向に向かっていくのが楽しみだなあ。まったく新しい、できれば自閉症が絡まないものも読んでみたいものだが、著者の創作の動機にはならないのかもしれないな。ぜんぜんしらないんだが。
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*1:著者自身も書いていることだが、この小説に登場する知的障害者はどんな意味でも知的障害者全体を代表するものではない。程度も人それぞれであれば、ひとりひとりぜんぜんちがう。そうしたこともまた本作では書かれていく。