基本読書

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冤罪事件を通して人間の本性と生物学的弱点、その克服への洞察に至る傑作──『冤罪と人類:道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』

この『冤罪と人類』は日本で起こった大規模冤罪事件を取り上げながら、最後にそうした冤罪事件が起こる理由を人間の〈道徳感情〉に求め、人類社会はどのようにすればこうした冤罪が起こるような状況、認知バイアスなど様々な「人間の弱点」を乗り越えることができるのかという壮大な話に発展していくノンフィクションである。

2016年に刊行され話題となっていた本だが僕は今回の文庫化で初読。書名からして冤罪の仕組みについて進化心理学的な観点から解き明かしていく本だと思い込んでいたので、いきなり1941〜2年に起こった浜松連続殺人事件、1950年の二俣事件など殺人・冤罪事件の詳しい話から始まり面食らったが、この記述がとにかくおもしろい。

取り上げられていく事件自体がセンセーショナルなことはそうだが、書きぶりが実に見事。拷問王と呼ばれた紅林麻雄刑事、事件をデータから追うプロファイリングの先駆者吉川澄一、冤罪事件が多発した当時の警察の実態、なぜそれが起こってしまったのかなど、詳細なデータを元にして事件の登場人物の内面に切り込み、意外な事実をぐいぐいと明らかにしていく。600ページ超えの大著にも関わらず、あんまりにもおもしろく、あっというまに読み終えてしまった。凄まじい本だ。

副題の「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」というテーマに切り込んでいくのは終盤も終盤、ページ数で云うと517ページからになっている。メイン・テーマにたどり着くのにそんだけページがかかるの?? と思うかもしれないが、それまで複雑怪奇な事件と、それに関わってきた人々の感情を丁寧に解き明かしてきたからこそ成立する話でもあり、まるで推理小説における出題編/解決編のように読むことができた。

もっとも、こうしたすべてを物語敵に抽象化して受け取ってしまう人間の認知的傾向、それ自体が冤罪を生み出す原因でもあるということが本書の中で繰り返し述べられていることでもあるのだけれど──。というわけでおもしろい本である。以下、具体的に本書で具体的に何が取り上げられているのかをもう少し紹介してみよう。

〈二俣事件〉

最初に取り上げられるのは〈二俣事件〉。事件発生は1950年の1月6日で、何者かが民家に侵入し一家四人を殺害。同じ部屋に寝ていた長男、次男、三男と、別の部屋で寝ていた祖母は無事であったという。金もない家で、動機が不思議な犯行だった。

この事件を担当したのが、紅林麻雄警部補である。後にこの男、拷問によって自白を強要することで冤罪事件を複数作り上げてきたことが発覚し拷問王なる悪名がとどろくことになるのだが、この二俣事件も犯人がでっちあげられている。捜査班は近隣から素行不良者を引っ張ってきて暴行を加えて白状させることを繰り返していたが一ヶ月経っても解決できない。町民からは無能とそしられ、捜査からの引き上げを要請されるまでになるも、捜査班は2月23日になって近所に住む少年を容疑者とし、殴る蹴るの暴行をくわえその4日後に犯行を自供させてしまう。

自白したからといってそれですぐに犯人が確定するわけではないが、紅林麻雄は証拠やアリバイの否定を捏造する、用意周到な人物であった。二俣事件でいえば、被害社宅の柱時計は11時2分で止まっていて、容疑者にされた少年はその時間にはアリバイがあった。そこで、紅林警部補は実際の犯行時間は9時だったが、時計の針を動かしたと少年に自白させている。さらには、江戸川乱歩原作の映画『パレットナイフの殺人』でアリバイ工作に被害者の腕時計の針を廻すトリックが使われているのを観てヒントを得たとまで言わせている。当時、地元で上映されている証拠まで揃えているのだ。完全に間違った方向に努力し、全力で冤罪を成立させようとしているのだ。

他に、1948年11月29日に一家四人が殺害された〈幸浦事件〉では、死体を埋めた場所のような犯人しか知り得ない情報を容疑者が自白したことが決め手となったが、彼はこうした証拠を作成していたとされる。

拷問王

最終的に彼の所業はバレてしまい、世間と警察内部からの突き上げを喰らい追いやられていくことになるのだが、彼のやったことをつらつらと読んでいくと、この男は非人間的な、悪魔か怪物のような存在のように思えてくる。

だが、紅林は「悪」と断罪できるようなシンプルな人間でもない。彼がそうした捜査手法を展開できた、あるいはせざるをえなかったのも当時の警察と彼をめぐる状況があったからである。当時冤罪事件が多発したのも、国警と自治警に分かれていたからだというわかりやすい理由で説明されることもあるが、実態はもっと複雑な状況が絡んでいて、そうした状況すべてを解きほぐしていかねば見えてこないものがある。

本書の肝は、人間や事象を、善とか悪とかといった観念で一面的に切り取るのではなく、その複雑な様相を捉えようと試みるところにある。たとえば、1941年に静岡県浜松市周辺で起こった聾唖者による浜松連続殺人事件では、紅林麻雄の杜撰な調査によって犯人を一度見逃しているものの、最終的には真犯人を捕まえ解決。

彼はこの凄惨な〈浜松事件〉を解決に導いた功績、また、国民に向けての威信高揚、実力を示す役所同士のせめぎあいなどの政治力学の果てに過大に表彰され、作られた英雄として祭り上げられることになる。

 警察が創り上げた虚構の英雄のはずが、いつの間にか警察自身をも呑み込んで誰にも押し留めることのできないうねりを生じさせたのだ。その渦巻く奔流に押し流され、何もない地に忽然と巨大なる虚像の屹立して天を摩すこととなったのだ。

最初は作られた英雄のはずだった、紅林麻雄は、〈幸浦事件〉や〈二俣事件〉のような難事件を次々と解決した偉人として名声を高めていく。結果的にはそうした実際以上の権威に祭り上げられたことが彼をより追い詰めていったのだろう。彼は共感能力が高く、部下思いで気配りができ、責任感の高い人物であったという。だからこそ、捜査のために多くの人員を動員し、マスコミの注目も集まるような大事件で何の成果もあげられないという、大勢の人間をがっかりさせることができなかった。

当然そこには利己的な、膨れ上がった自分の評判を落としたくないという弱さもあった。証言の数々からは、自分のやったことは嘘の強要ではなく真犯人の自白の強要であり、自分は悪くないという認知の歪みも見える。ある面からみれば善人であり、弱い人だったのである。『一連の冤罪事件でほんとうに怖いのは、紅林刑事が〈共感〉能力の高い、ある意味、善人だからこそ引き起こされた点にある。』p540

紅林刑事はアダム・スミス云うところの、世間の評判の奴隷となる〈弱い人〉だった。そうならないためには、自己も他者も超越した俯瞰の目で全体を見渡す〈公平な観察者〉をひとりひとりの胸に宿さなくてはならない。紅林刑事が我々とまったく同じ〈道徳感情〉を持つ、我々とまったく同じ人間であることに気づくことが、俯瞰の目を持つ第一歩なのだ。p540

おわりに

と、本書の中で取り扱われているトピックの中でも非常に狭い部分にだけ焦点をあてて紹介してみた。中身はこの何十倍も濃い。

なぜ当時警察が冤罪事件を連発したのかについて、プロファイリングの第一人者吉川澄一とそのシステムが失われたことにあるのではないかと問いかけたり、冤罪事件をぎりぎり最高裁で差し戻すことができた立役者である四人の最高裁判事たちの物語だったり、拷問の実態と冤罪を新聞に告発したばかりに警察を追われ、家族ごと迫害を受けた山崎兵八など、一人で一冊の本になる人物のエピソードがてんこもりである。

複数の本が一冊に詰め込まれたような、豪勢な本だ。通常のフォーマットから外れた、背表紙にまでイラストが描かれている装幀も良い出来。