基本読書

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天才を生んだ孤独な少年期 ―― ダ・ヴィンチからジョブズまで by 熊谷高幸

恐らく今までで僕が受けたことのある質問の中で一番多いのが「どうしたらそんなに本を読めるんですか」だが、これにはいつもシンプルな回答しか返すことができない。本を読む以外のことを一切やめてしまえばいい。テレビを見るのもやめて人と会うのも辞めて飲みに行くのも辞めてネットも辞めて食事をするのは日に一度で仕事も学校も辞めれば読むのが遅かろうがなんだろうが誰だって年に400冊以上読めるだろう。

僕もとにかく人に会わない、飲みにもほとんどいかないしテレビは見ないし飯を食べる時間も本を読むのに充てるしネットさえ自分のブログとたまにツイッタをみるぐらいであとの時間はずっと本を読んでいるか文章を書いている。しかしそれぐらい読むことに特化すれば一ヶ月に何十冊も読めるものだ。もちろん金がなけりゃあ死ぬだけだから仕事はしてるし飯も食わねば死ぬわけだから飯も食べるし親の金で行ってる学校を本を読むからというだけの理由でやめるわけにもいかなかったから妥協はある。

ある人にとっては本を読むことよりも友人に会うことの優先順位が高いだろうし、ある人は人に会うよりも本を読むことの方が優先順位が高かったりする。飯を食べるたかだか多くて二十分程の時間をケチってまで本を読む人もそうはいないだろう。だがこの世にはそういう優先順位が狂った人間がいるものであり必然的にそういう人間は歩調を合わせられずに周囲からどうしようもなく浮き上がるものだ。

本書は天才性と孤独に焦点を当てた本で、六人(ダ・ヴィンチ、ニュートン、エジソン、夏目漱石、アインシュタイン、ジョブズ)のいわゆる天才の孤独に対する言質とその来歴をみていく。科学的な正確さを求めるような物ではない。天才が全員孤独なわけではないし、そもそも天才とは何か、孤独とはどのような状況のことをさすのか、孤独が与えた影響と孤独以外が与えた影響をどう切り分けるのかなんてそんな複雑なことは簡単には扱えない。著者はところどころ孤独が創造性に繋がっていることを断定的に語るが、話半分に読むのが正解だろう。

 ここでいう天才とは、世の中の文化を変えるような仕事をした人々である。能力が飛び抜けた人全体を指すわけではない。そして、新しい世界を生み出すための苦悩を経験した人々である。
 天才とは、このように、すでにある世界と対決した人々だから、そこに孤独があるのは容易に想像できる。では、彼らは天才となる中で孤独になったのだろうか? 実はそうではなくて、少年時代から孤独であり、それが天才を生みだした、とするのが本書の内容である。

などなど、あまりそこに厳密な因果関係を求めてもしょうがないだろう部分がある。つまるところテーマエッセイのように、エピソードを集めてふうんと眺める類の本だ。しかし孤独に対するそれぞれの考え方がみえてくると、確かに孤独でいること、孤独であることがそれぞれの物の考え方、捉え方に大きな影響を与えているのは確かだと思えてくる。孤独であったから天才であったのか、はたまた人と違っているから孤独にならざるをえなかったのかという(六人のうちの何人かは境遇的に孤独にならざるをえなかったなどの違いもある)違いはあるだろうけれども、それもまた考えるのが楽しい。

確かなこととして言えるのは天才に必要かどうかは別として孤独でいることには幾つかのメリットがあることだ。まず第一に、孤独でいることは人と会わなくていい。発話コミュニケーションというのは情報の伝達効率がえらく悪いうえにエラーが起こりまくる時間喰いの欠陥システムだ。相手と常に時間を同期していなければいけないし(チャットであれば相手がトイレに行っている間でも、コーヒーを入れている間でも情報を残しておけるが対話時は無理だ)何かと時間を使わせられる。会うためには場所だって移動しなければならない。これについてはダ・ヴィンチが的確に表していると思う。

 もし君がひとりでいるなら、君はすっかり君のものである。たった一人だけの友だちといっしょにいたら、君は半分君のものだ。そして君の不謹慎の度が大きくなればなるほど君の分は少なくなり、より多くの人といっしょに居れば、それだけ深くこういう不都合な状態にはまってゆくだろう

もちろん対話の中で新しい着想や、複数の間での刺激が自分だけからは決して出てこない何かを生み出すことはある。だが一人でなければできないことというのもまた多いものだ。たとえば本を読むこと、文章を書くこと、プログラムをすること、絵を書くこと、物をじっくりと考えることなどなど。人は誰しも時間という有限の資材を割り振りして生きていかなければならないのだから、割り振れる時間が多くなればそれはそのまま結果として現れてくるだろう(たとえばよりたくさんの本が読めるなどのように)。

もう一つの利点は人と関わらないことによって、人が持ち得ない視点を持てる可能性が生まれることだろう。もちろん人と会おうが想像力は想像力として発揮されるから、孤独でいるからこそのメリットとは言いづらいかもしれない。しかし多くの人が寂しい、友達が欲しいと探し求めたり、あるいはSNSで繋がりを求める中、一人で居続ければ嫌でも人と違ってきてしまうものだ。その違いは場合によっては(活かし方がうまくいけば)価値を産むこともあるだろう。

あと、これは利点ではないけれども、孤独であるからといって別に天才になるわけではないことも確かなことの一つか(僕はかなり孤独な人生を驀進している人間だが、当然ながら天才ではない。)。それは確かだけれども、天才でない人間であっても「あえて孤独に意味を求める」ことにはやはり意味があるのだと思う。僕が平均からすればたくさん本が読めて、文章をたくさん書けるのも人と殆ど会わず、飲みにもいかず、ネットでさえほとんど誰とも交流をしないで孤独でいることの恩恵であるし。

これもまた難しい話ではあるんだけどね。僕は元々からして一人でいるのが大好きで将来の夢は誰とも会わずに都会の一室に引きこもって好きなだけ本を読んで文章を書いて家から一歩も出ずに暮らすことという人間である。一人でいると気分が浮き立ってウキウキしてくる。だからSNSで人と繋がりたいとか友達が欲しいとかいう人の気持ちがよく理解できないし、そういう人たちがあえて孤独な状況に身を置くのは何か大きなマイナスがあるのかもしれない(精神が不安定になるとか)。

そのような部分についてはまさにドンピシャな本があるので、こちらを読んでみるといいかもしれないhuyukiitoichi.hatenadiary.jp

小言

とまあ本書は面白いところの多い本なのだが、決めつけの部分でちょっとおかしなところもけっこうある。たとえば天才たちのその後の話をしているところで、「天才は既存のシステムからはみ出して仕事を始めた人達である」⇒「しかし認められるということは既存のシステムに取り込まれることでもある」⇒「だから天才としての人生を続けるには創造的な活動を続けるための孤独を確保しなければ」というロジックでこれ自体はまったくその通りだと思う。

だがその具体例として「ジョブズはアップルという会社を解雇されることによって孤独な再出発の道を歩み出したのだった。」などといっても、ジョブズはアップルを追放された後も次々と会社を立ち上げて孤独な時期なんか一切なかったわけで。その文脈で例として出されるのには違和感がある。また、元々著者が自閉症や発達心理学についての研究者であることから、自閉症と天才の関連性のようなアプローチもあるのだが、さらっと触れられているだけなのでなんだかこじつけめいてみえる。

まあ、あまり細かいところを気にしなければ天才たちと孤独についての共通点をさらっと見渡すことの出来るなかなかおもしろい本だ。人との関わりを求めすぎている自覚のある人は考えなおすきっかけにもなるかもしれない。

天才を生んだ孤独な少年期 ―― ダ・ヴィンチからジョブズまで

天才を生んだ孤独な少年期 ―― ダ・ヴィンチからジョブズまで