基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

『国際秩序 - 18世紀ヨーロッパから21世紀アジアへ (中公新書)』細谷雄一

すごく良い本。ニュース情報を聞いているだけだとついつい日中関係や日米関係、日韓関係といった二者関係を前提に全てを捉えてしまう中、国際秩序を面として捉え、乱立する大国間でどう秩序が保たれてきたか、表向きの条約や協定、その背後で動いている論理を教えてくれる。たとえば冷戦下では、西ドイツ、イギリス、日本、アメリカが同盟を組みソ連および共産主義陣営が行動に至らないように押さえ込んでいた。現代ではアメリカ、EU、日本が組み、中国、ロシアと牽制しあっているような状況であるといえる。

このように世界の大国間ではパワーバランスが常に変化してきた。その背後で動いている秩序原理として、本書では「均衡」「協調」「共同体」の3つの概念を使って説明している。「均衡」とは勢力均衡のことを指している。力と力が均衡すること、まあ主に軍事力だけど。軍事力が拮抗していればお互いに容易く相手側を攻撃することはできずに秩序は保たれることになる。恐怖の均衡ともいえる。

「協調」とは国際利益をゼロサムに考えず、共通利益を求められるといった考えを実行するものだ。協定、条約、なんでもいいがとにかく「仲良くしましょうね」と二国間でも三国間でもいいので決めて、これを守ることで協調の体系が完成する。しかしこれも難しい話で、価値の共有が行われていないと協調もうまくいかない。裏切ったほうが利益が高ければ容易く裏切られてしまう。

最後に「協調」をより深化させた形のものが「共同体」という概念だ。いってみれば「ちゃんとすごい国連」みたいなもので、みんなが意識や価値観をあわせて集い、法体制を含めて整備され、実行力を持ち、とにかく多様な国家間が現実的な意味で歩調をあわせていけるようなものを言っているのだと思う。

本書が面白いのは上記3つの概念を使ってヨーロッパの国際秩序を見ていくのだが、まさにこの概念に当てはまる形で世の政治家が判断し、行動してきたのだということがわかることだ。正直言ってニュースをみていても国際関係とかって何が何なのかよくわかんなーい! と思っていたのだけど、こうやって「秩序」を3つに分類して整理してもらえると、問題の把握がすっと楽になる。

人類の歴史上ほとんどの期間は勢力均衡によってバランスが保たれてきた。18世紀から19世紀になるにつれて技術力の変化や新興国が現れてくることによってパワーバランスに変化が起こる。フランス革命が起こり、国際秩序の形も勢力均衡から協調の体系へと変化を遂げたり、価値観の共有がうまくいかずに失敗したりする。自由主義経済を信奉する国と、それ以外とでは価値観があわないように。

その後にやってくるのは協調なき均衡だ。単純なパワーバランスによって国の争いを回避する。そこで登場するのがかの有名なビスマルクで、彼がヨーロッパ間でのバランスを一手にとりしきり、新しい勢力均衡をつくりだした。綱渡りじみた連携の数々で、実際彼が職を辞したすぐに国際秩序は崩壊することを考えると、一個の人間が世界に与える影響ってデカいんだなあと読んでいてなんだか感動してしまった。

ビズマルクが去った後、勢力均衡のことをまるで考えられていない外交によって協調なき均衡すらも崩れ去った。戦争と殺戮の時代がやってくる。第一次世界大戦だ。ここでは秩序を維持していく上でこれまでと異なる3つの問題があった。1つに巨大すぎる帝国であったドイツをどう扱うのか。2つに日本やアメリカの出現によりヨーロッパの5大国だけでは秩序を維持できなくなったこと。

3つに勢力均衡そのものの否定。軍備増強が終わりない螺旋に入って、危険なバランスの上に成り立っており、勢力均衡そのものが戦争を起こすのではないかということだ。最初に述べた3つの概念のうち、最後の「共同体」こそが世界を安定に導くのだとする意見がアメリカのウィルソン大統領から出てくるようになる。それはいわば「均衡なき共同体」とでもいうべきものであった。

パスカルは「力のない正義は無力であり、正義のない力は圧倒的である。力のない正義は反対される。なぜなら、悪いやつはいつもいるからである。正義のない力は非難される。したがって、正義と力とを一緒におかなければならない。そのためには、正しいものが強か、強いものが正しくなければならない」といったが、「均衡なき共同体」は力なき正義であり中身がなかった。

ヨーロッパの、そしてそこにドイツ日本アメリカ、そして中国が加わった国際秩序が今までどうやって保たれ、または崩れ去ったかをみていくと何がダメで、何がいいのかがみえてくる。協調や共同体の為にはまず価値観がズレていないことが重要であり、それ以上に均衡が成立していなければ協調も共同体も存在しない。

日本はもはや大国の1つであって、どこに肩入れをするかで国際的な均衡が一気に崩れてしまう可能性がある。本書で書かれている「均衡」「協調」「共同体」の3つの概念で踊ってきた国際秩序の歴史を前提にいれて現状の国際秩序や、他国の目指している場所をみると驚くほどよくわかるようになっている。

羽月莉音の帝国

見たこともない風景、考えたこともない状況、加速度的にスケールアップしていく物語の規模、まったく想像の埒外にあるものの、現実に存在するルールにはのっとっている破天荒なアイディアの数々。全十巻の『羽月莉音の帝国』がみせてくれたのは、そうした『規格外』な物語だった。口をあけてぽかーんと放心してしまうような、そんな傑作だ。ガガガ文庫といういわゆるライトノベルレーベルから出ており、挿絵がつき、二次元絵が表紙をかざっているが、そうしたものに抵抗がない人間は手にとって確かめてみるといい。

至道流星は日本の小説家。講談社BOXからデビューした当時からビジネスを基軸に据えて物語を動かしていく作家だったが、本作でもその流れは健在。一言で物語を説明するならば、真面目に国を作る話。国を創るには基本的に宣言すればいいのだけど、土地を占拠するわけだから武力が必要になり、ひいてはミサイルと核が必要になり、当然資金が何百兆円必要になり、その資金を稼ぐ雪だるま式のマネーゲームが、理論的に行われる。

必要なのはここが自分の国であると独立宣言する勇気と、他国に圧倒的に認めさせるための軍事力。そして最終的には周辺国の同意だ。言うのは簡単だがこれを達成するためには途方も無いほどの困難があるのはいうまでもない。最初に大きな目標をぶちあげて後はそこに至るためのチェックポイントをクリアしていくという物語構造はジャンプなどの長編マンガでおなじみなものであり適度なところで巻数を区切らないといけないライトノベルと相性がよい。

まあそんなことはおいといて、建国を達成していく過程は圧巻そのものだ。神や魔法のたぐいはでてこない。超能力もない。しかし物語の規模は誰もが見たことがない場所まで到達し、国家同士の外交関係や政治権力、さらには特殊部隊に軍事とそこまで広がるかといった分野にまで及ぶ。最初はライトノベルだから〜と自転車にでものっている気分で読み始めたが実はジェットコースターだったみたいだ。

以下、いかに『羽月莉音の帝国』が破天荒な物語なのかについて語っていく。じゃっかん長め。さらにじゃっかんネタバレ有り。ここまでで読んでもいいかな、と思うのだったら読まないほうがいいかもしれない。とにかく面白いのじゃ。

段々とスケールアップしていく物語展開
段々とスケールアップしていく物語展開は『羽月莉音の帝国』のもっともわかりやすい特徴だ。革命部の革命活動も、最初は元手ゼロの状態からはじまる。いやそれどころかマイナススタートだ。ゴミ拾い、借金をして自動販売機の設置、コスプレ衣装作成で元手を稼ぎ、物語が進むうちに企業を買収しM&Aを繰り返し、銀行を買収、はては証券市場の創設……金の動きを支配する胴元にまで到達する。

当然ながら扱うお金の額も物語の進行に比例して、数万円から1000兆円といった桁外れの額のやり取りを行うようになっていく。扱う金額の多寡だけがスケールアップしていくわけではない。最初は純然たる金の動き、市場ルールにのっとって公明正大に活動を行っているだけだ。しかし扱う額が大きくなり、権力や暴力が支配する分野にまで介入が必要になってくると問題は政治にまで拡大する。

中国に手広く事業を広げてみれば自分たちとは関係がない事情で起きた暴動によって事業が混乱するなど、金のやり取りだけではなく政治的な状況も物語が進むたびにスケールアップしていくのだ。最初はヤクザとの小競り合い、中国では暴動に巻き込まれロシアでは起こした事業を奪われ、特殊部隊に狙われる……。

巻き込まれてばかりいるわけではない。目的は世界システムの変革、革命、それに伴う建国だ。最後は一国の特殊部隊なんて目じゃない、自分たちから宣戦布告しての、国同士の抗争に発展する。革命部帝国vs全世界だ。物語がここまで至った時に、世界がどうなっていて、どう群衆の反応が描かれるのか。そのディティールまで含めて圧巻だった。

国を作る物語
国を作る物語の先陣はいくつかある。僕が知っている中で一番有名なのは村上龍の『希望の国エクソダス』だろう。中学生たちがインターネットを駆使したビジネスによって最終的に土地を買い上げ実質的な国を作る話だ。物語の根幹となっているのも、腐敗しきった金融システムや政治状況に風穴をあけ、立て直す為には革命が必要なのだという、羽月莉音の帝国と、まったく同じ立脚点にたっている。

しかし『希望の国エクソダス』は実際的な意味での建国ではない。土地を買収して、コミュニティを自発的につくり上げる結果としての独立で、スケールも小さくなってしまった。実質的には国を作ったのと変わらないとしても。『希望の国エクソダス』もまた傑作だと思うけれど、僕は『羽月莉音の帝国』はそれを遥かに超えた傑作だと思う。いくつか理由もあげられるけれど、この記事で全部書く。

羽月莉音の帝国』は『希望の国エクソダス』では書けなかった実際的な意味での建国を目指す。土地を占有し、日本やアメリカや中国に「国」として認めさせるのだ。ぶっとびすぎていて、それだけに達成させていく過程はまったく想像もつかず、魅惑的な物語だ。しかし、説得力をもってそれが書き切れるのか? 物語は根本的に嘘である。嘘であるからこそ、その中で起こることには一定の説得力がなければならない。

実際的な意味での建国には金を何百兆と稼ぎ、最低でも核を配備し、ミサイルも必要だ。配置によっては軍隊も必要かもしれない。そのあたりのことを、たとえば「突然ドラえもんがやってきて〜全部うまくいきました」となったら進研ゼミの漫画のような、空虚な物語になってしまう。物事はすべてお膳立てされた上で成り立っていて、著者の都合の良い意図しかよみとれないと意識させられてしまう。そうなった物語は悲惨で、惹きつけられることもなく、瓦解していく。

作品への裏付けと、独創的なアイディアとディティール
至道流星作品共通の特徴だけれども、常に既存には例のない新機軸のアイディアを盛り込んでくる。たとえば現在最新作の好敵手オンリー1では神社や教会といった宗教法人は税金がかからないことを利用している。神社や教会であることを生かした新規事業を学生の女の子たちが盛り上げていく様が書かれている(ただし本作とは比較にならないほどつまらない)。

逆に言えば既存に存在しない、新しいアイディアでの金儲けを書いているからこそ既知のルールからでは想像も出来ない速度での成り上がりを達成できているといえる。物語序盤こそまっとうなM&Aが描かれるが(これもかなりウルトラCだけど)後半戦からは空前絶後の銀行を買収⇒買収した銀行の預金を使ってまた銀行を買収という連鎖によって次々と資産(と負債)を増やしていくような、「え? そんなんアリ??」と目を疑ってしまうような展開が起こる。

そして前代未聞の証券市場設立……、それもただの証券市場ではなく、どんな企業であっても毎月50万円払えば上場できるというまったく新しいアイディアだ。そのために必要なこまごまとした設定も綿密に組まれていて、実際に革命的な市場なのでは? とついつい信じてしまう。銀行の買収も、証券市場の設立も、どちらも夢のような話ではあるものの、現実に存在しているルールの延長線上にあり、つまりは可能なことなのだ。

一方政治的な圧力や国の暴動、経済の動きなどほとんどは一度現実に起こっていることの延長線上にあるものだ。たとえばバブルは何度も起こってきた。中国が国民の党への暴動を抑えられなくなってきたときにはたいていアメリカ、日本、台湾へ怒りの矛先を向け暴動を起こす。正直言って本作で起こることは一直線に物語の時間軸に沿って並べてみれば荒唐無稽な話の連続だが、でも今まで何度もあったことで、これからも起こることなのだ。

経済の世界的な破綻、民主主義の限界も昨今強く主張されるようになってきた。実際に崩壊の時は近いのかもしれない。その「かもしれない」を誇張し、起こしてしまい、既存にはまったくない、ただし延長線上にあるアイディアの数々で乗り越えていく展開には、物語としての興奮がある。

「実際にやったらどうか」とか「実際に出来るのか」といったことは、ここまでくるともう問題にならない。問題になるのはそうしたアイディアが「その世界観の中で」どれだけ尤もらしいかであってそこを詰めるのはディティールの力だ。大きな嘘は許容される。ドラえもんがいるのもOK。ウルトラマンがいるのだってOKだ。でも小さい嘘がいくつも積み重なったり、大きな嘘が何度も繰り返されると夢からさめてしまうのだ。

たとえば核兵器を一企業が得るためにはどうしたらいいだろう? まるで想像もつかない。著者がやるべきなのはこれを達成するために現実的にどうかではなく、どうしたら読者が納得できる形でディティールを積み上げるかである。もちろんすべてにおいてディティールを詰めていたらこんな建国物語は立ちゆかないので、どこを切ってどこを詰めるのかが重要になってくる。

個人的に驚いたのはディティールを書くにあたってビジネスや証券取引、買収といったポイントで著者の持ち味がいかされるのはわかっていたけれど、ミサイル関連の話や(どこに何を投資して、核を一企業が怪しまれずに製造するにはどうしたらいいのかといったディティール)国際紛争、政治のやり取り、アジテートの意図を含んだスピーチまで違和感なく書かれていたことだ。

至道流星さんはよくあとがきとかで自分もビジネスですさまじいことをやってきたんだぜアピールをしているのだけど、てっきり真実一割ぐらいのセールストークだと思っていたんだよね。だから国の歴史やどういう力関係で国同士が強調し対立しているのかといった事までもが整理され、わかりやすく物語に組み込まれているのを読み、著者はいったい何者なんだろうと疑問を抱くまでになっていた。

当初はビジネス書を書いたつもりの作品が小説のデビュー作になったという言葉どおり、本作でも経済や歴史についてお勉強になる記述がたくさんある。こうした知識も、非常に面白いところだ。

春日恒太というキャラクタ。〜虚と実を書く物語〜
本作にはいくつかの軸があるけれど、そのうちの一つが世界には表面と裏があるという暴露にある。主人公である革命部員たちはどんどん大きな物事に巻き込まれていくが、彼らは行動者、常に事件を起こす当事者側であって、事態を常に精確に把握している。買収がどういう意図のものであって、その際にどうしたやり取りが行われ、政治的にどんな圧力がかけられたのかといった情報だ。

一方マスコミや週刊誌、ネットに踊る情報はその表面をみただけのものだ。世の中にはマスコミや政府発表が民衆に対して伝える情報とはまったく別に、大衆を扇動し自分たちの意のままに従わせようとする力学が働いている。

そうした虚と実を表しているのが春日恒太というキャラクターだ。彼は瞬間記憶能力者として描かれ、何でも知っているが常に自分を神といって憚らない尊大な口を利き、自分自身を過剰に演出し他人を見下すことから革命部内で実務面ではまったく役に立たない人間として描かれる。しかし後半から、テレビ番組に出まくり、革命部の事業の顔役になったとたん彼にはアジテーターとして超一流の能力があったことが実証されていく。

尊大な物言いと実際に何でも記憶している超能力と、何より自信満々にしゃべることを裏から支えてきた有能な革命部員たちのおかげで中身が与えられ、テレビや文字からだけしか情報を得ない大衆は周りで春日恒太を天才とあがめたてあーでもないこーでもないと虚像に対してくだらないことをわめきたてるだけの存在として書かれる。

扇動する人間には扇動する人間なりの思惑がある。それは株価をさげたくないからであったり、はたまた相手を攻撃する意図があったりする。扇動でなくたって同じことだ。巨大な組織や大きな力が動く背後には必ず表向き見えているものとはまた別個の思惑がある

ブームにのっかって出されるクズみたいなビジネス書のような「虚」とは別に、世の中を実際的に動かす力学とでもいうべきものがある。こうした考えを「実はあれもこれも嘘だったんだ、陰謀なんだよ」と植えこまれて容易く信じると陰謀信者になってしまうが、その場の勢いに流されず少し立ち止まって、数字などをみて考えてみれば容易く暴ける「実」の部分もあると書かれていくのだ。

自らの目的の為にアジテート、大衆を思いのままに動かし、持ち上げ、英雄とまで言われた時期を経て最終的には「人類の敵」とまで呼ばれるようになる春日恒太は英雄と呼ばれるところから最悪の存在にまで急転直下でその評価を変えていくことでわかりやすく人の移ろいやすさ、マスコミや世間の動きの表面しかみていない態度を表現している。この世には正義などなく、ただひとときを支配する価値観があるだけだ。

世界のほとんどを覆っている「表面」、マスコミやクソみたいなビジネス書ではなく、日々苦痛を抱えながら通勤電車に乗っている様なサラリーマンまで含めて……、そうした裏面には実質的に物事を動かしている力学があり、ここには想像も付かないような力が渦巻いていると、現実がどうあれそう思わせるように物語は構成されているのだ。これはフィクションなのだから。

いうなれば本作品は世界の表面だけをさらって生きるな、革命を志せという、一種の春日恒太的アジテートの本なのだ。

羽月莉音の帝国 (ガガガ文庫)

羽月莉音の帝国 (ガガガ文庫)

羽月莉音の帝国 2 (ガガガ文庫)

羽月莉音の帝国 2 (ガガガ文庫)

羽月莉音の帝国 3 (ガガガ文庫)

羽月莉音の帝国 3 (ガガガ文庫)

考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則

先日⇒古賀史健『20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社新書)』 - 基本読書 この本について書いたけれど、せっかくだからオススメの文章本である『考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則』を紹介しようと思う。主にコンサルタントや、報告書のようなビジネス向けの文書を書く人に向けて書かれた本だけれども、「人に伝わりやすい文章を書く」為に必要な「構成」に注目した本としてこれ以上のものは読んだことがない。

最初に浮かぶ疑問はなぜ文章術で「構成」に注目しているのだろうか? 構成を変えるだけでよくなるのか? というところ。これに対して本書は、わかりにくい文章はこの世にたくさんある。書くこと自体に対する練習不足もあるだろうし、推敲不足もあるだろうし、読みにくい文体のせいでもあるかもしれない。一方でその実もっともポピュラーな原因はまさにこの「構成」にあり、またこの「構成」は一般法則があるが為に誰でも即座に気をつけて自分の文章に反映させることができるからだと述べる。

実際「構成」なんていってしまえば「どう並べるのか」だけともいえるので、気をつけたらすぐにできることばかりなんですよね。すぐにできるからといって効果が薄いかといえば、それでいて効果は抜群なので「もっと速攻で自分の文章を変えられる文章術」を読みたいといえば僕は真っ先にこの本を推します。

で、その実質的な「構成技術」が何かといえば、本書の副題にもなっている「ピラミッド原則」がそれにあたります。ピラミッド原則とは文章の並べ方の法則で、ピラミッドのイメージから読み取れるようにセンテンスが深くなるたびに広く、複雑化していくような書き方のことです。このやり方が一番「読み手の頭の中のプロセス」とぴったり合致するのです。

「伝えるべき文章」とは「読み手が知らないことを伝える」手段であって、その為のプロセスとはまず大きな考えを受け取って、そのあとに大きな考えを構成する小さな考えを受け取るという並べ方なのです。これは誰もが読み手なので実感しやすいでしょうけれども、自分の知らないことについて書かれた文章を読んで最初に感じるのはなぜ? 、つまり疑問です。

たとえば「豚は世界で一番素晴らしい動物だ」と主張する文章だけを読んだら「なぜ?」と思うでしょう。「なぜ?」とか「どうして?」のように疑問を覚える。そこに対して書き手は一段階下のレベルまで降りて「なぜならね、こういう理由なんだよ」と説明してあげる。それでもまだ理解できない「疑問」が出るようなら、そこでもまた下に降りていって「疑問」に答えてあげる。

これが読み手の頭の中のプロセスに沿って文章を並べていくという意味です。これを読んだ時は随分感動しましたよ。文章にも普遍的な法則が存在するんだなあ、よい文章ってのはあるんだなあと本書を読んでいた時に(今回この記事を書く為に読み返していた時にも)思いました。本当にエウレーカ! って感じだったもの。

もちろん本書の主張はこれだけではなく、たとえば文章に惹きつけるための導入部はどうしたらいいのか(読み手がすでに知っていることをストーリー風に語り、複雑化させ、疑問に繋げる)や問題を構造化して捉えるためにはどうしたらいいのかといったことが丁寧に語られていきます。

実を言えば特にこの「問題を構造化して捉える」というところに、仕事で僕は非常に恩恵を受けています。というのも考えてみれば仕事っていうのは「イレギュラーな事態にどう対応するのか」ってことなんですけど(イレギュラーなことが起こらなかったらシステムでいいから)つまるところ仕事とは日々起こる問題と付き合っていく事にほかならないんですよね。

で、問題を構造化して捉えるとどんないいことがあるかっていうと非常に単純で具体的なプロセスに問題を落としこむことによって考えるのが楽になるのです。たとえばシンプルにまとめてしまえば問題とは「望ましくない結果(売上が低下している)」を「望む結果(売上が伸びる)」に変えたいと思うことです。

この問題に対して、論理的に関連づけられた6つの質問群に回答していくのが、問題解決の第一歩になります。1.改善の機会がありそうか? 2.問題はどこにあるのか? 3.問題はなぜ存在するのか? 4.問題はに対し何ができるのか? 5.問題に対し何をすべきか? 最初の2つが問題の定義、3つめが分析の構造化、最後の2つが解決の発見に導くためのものになります。

本書ではコンサルタントを対象読者にしている為、上記の問題分析を通してどう文章に落としこみ、相手に伝えるのかを具体的にしていくのですけど、この考えが自分でできるようになってから不必要におろおろすることもなくなりました。問題を見つけてはメモ帳に書き出して問題の構造分析をしています。

とまあそんな感じで、文章にしろ、思考にしろ、ひとつの「技術」なので、知っておいたほうが得をするよと最後に書いておきます。

考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則

考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則

中谷 宇吉郎『科学の方法 (岩波新書 青版 313)』

50年以上前に書かれたものとは思えない、今でも色褪せない「科学の方法」について。今年読んだノンフィクションの中では最も感銘を受けた一冊。それ故にかなりの力を入れて紹介しようかとも思ったのだけど、既に本書を下敷きにして2つのエントリを書いているので、まとめるように、力を抜いて紹介しよう。
科学の存在理由、科学の目標とは - 基本読書
田崎晴明『やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識』 - 基本読書
前者のエントリでは科学の存在理由、科学の目標について『科学の方法』をもとに書いている。科学は自然の中に普遍的に存在するたった一つの真理を追求するかのように捉えてしまいがちだが、その実科学において根拠となる計量は「人間にとって役に立つ範囲」までしか行われない(単位は無限に細かくできるがそこまで細かくしてもしょうがない)。

さらには僕らは人間の目で世界を見るしかないように、科学は科学の目でみるしか自然をとらえられない。科学とは大雑把にいってしまえばあることをいう場合に「ほんとうか」「ほんとうじゃないか」ということをいう学問である。まさにそうした世界の分類の仕方が「科学の目でみるしかない」制約になっているのである、というような意味だ。

科学とは自然の中に唯一存在する真理を探しだすものではなく、人間の利益に役立つようにみた自然の姿が、結局のところ科学の見せてくれる自然の実態なのである。

後者のエントリでは本の感想の体をとっているが、その中では『科学の方法』の中で書かれている「科学の限界」について言及している。科学の限界とは科学が再現可能な問題を扱うところからくる。別々の人間が、何度観測しても同じ結果が出る。そのことをもって科学ではほんとうのことであるという。

だから、たとえば鳥の羽根がピサの斜塔からどんな軌道を持って堕ちてくるかは科学では解明することができない。何十年先の星の動きまで予測できるのに、身近な鳥の羽根の軌道がわからない。それが科学の限界なのだ。この『科学の方法』が50年の歳月を経てなおとても有用なのは、こうした原理原則が未だに変わっていないからなのだろう。

科学はさっきも書いたように「ほんとうか」「ほんとうじゃないか」を言う学問だといったが、現代のようにゴミのような情報が溢れかえって言葉の価値が著しく下がっているときこそ、ひとまず原理原則である「ほんとうか」「ほんとうじゃないか」に立ち返ってみることが必要なのだと思う。自分の足場・ものさしがないのはひどく人を不安定な気持ちにさせる。

そして当たり前の話だけど、自分のものさしについては限界と効力についてよく知っていなければいけないんだ。遊戯王カードで自分が召喚したモンスターの攻撃力防御力特殊能力がわかっていないと勝負にならないように、自分の判断基準となる「科学」についてもそれを盲信せずどこまでならそれが適用できるのかをよく把握しておかなくちゃいけない。

本書は科学というものさしの精度をと使い所を教えてくれる。とても大切な一冊だ。すべてはそこから始まる。

今日われわれは、科学はその頂点に達したように思いがちである。しかしいつの時代でも、そういう感じはしたのである。その時に、自然の深さと、科学の限界とを知っていた人たちが、つぎつぎと、新しい発見をして、科学に新聞やを拓いてきたのである。科学は、自然と人間の協同作品であるならば、これは永久に変貌しつづけ、かつ進化していくべきものであろう。

科学の方法 (岩波新書 青版 313)

科学の方法 (岩波新書 青版 313)

真木悠介『時間の比較社会学 (岩波現代文庫)』

普段僕らは時間に対してもっと有意義に過ごせるのではないかと思い、時間が過ぎ去っていくのをみながら何もしなかったことを後悔し、さらには自分が死んだ後もずっと世界は進んでいくのだと想像して、自分の人生が広い大海のほんの一部分でしかない、自分が存在している意味なんてほとんどないことに気がついて絶望したりする。

こうした絶望、心理的圧迫の要因は1.無限に広がりを持つ時間間隔。2.不可逆性としての時間認識 の二つになるだろう。自分が死んでも未来はずっと続いていくし……失った時間は取り戻せない上に歴史を積み重ねれば積み重ねるほど自分の生きた意味などなくなっていく。人生はみじかく、はかない。どちらも現代に生きる僕らからすれば当たり前の感覚だ。

しかしそれが普遍的な感覚だとおもいきや、ひとつの主観的な時間間隔に過ぎないのではないかというのが本書の主張だ。

考えてみれば時間を計るなどと言うが、時間には実質的な物はなにもないわけであって、ただ等間隔でリズムを刻む針があるだけだ。過去・現在・未来の区分も時間は一直線に流れるとした世界観の現れに過ぎない。ましてや本来存在していない、自分とまったく関わりあいのない100年後や200年後を想像する事は、原始的な共同体にあっては限りなく無駄に思われるだろう。

たとえば狩猟を主とする原始共同体であれば必要な時間とは、一日のうち時間を明確に区切る必要性なんて無い。牛が鳴きはじめたらご飯を食べて、それが終わったら狩りにいって、暗くなったら帰って。今が乾期か雨期か、何が狩れる時期なのかぐらいは把握しているはずだが、一年が365日で一ヶ月が30日である必要はない。389日でもいいし、一ヶ月は20日でも25日でもいい。

だから彼らにとっての「時間」とは「牛がないた時」「日が落ちた時」などの、具体的な状況だけでいいのである。その感覚にはずっと昔、過去という概念や、10年後の未来などといった概念はない。ただ「牛がなけば」狩りに行き、「日が落ちれば」家に帰ってくる。それだけである。

客観的な時間尺度が必要になってくるのは異質な人たちが同時に動かなければいけない時だ。大勢の人間が一同にかいして仕事をしなければいけない時、じゃあ牛がなきはじめたら、あるいは空が明るくなったら集合といっても始まらないわけで。時間とは異質な世界、時間リズムを持つ人達を束ねるひとつのツールであるといえる。

僕たちは時間を測りそれが過ぎ去っていくことを当たり前のように語るが、それは当たり前ではないのだ。時間という具体的なものはどこにもない。創りあげてきたものだった。そして時間を創りだしたことで多くのことが可能になった。たとえば「数年先の未来」という概念を生み出したことで、長い改革に取り組めるようになるのである。

客観的な時間は多くのものをもたらしたし、こんな快適な暮らしは時間概念がなかったら不可能なのは言うまでもない。しかし一方で代償もある。たとえば、共同性を喪失させた。月がのぼればアフリカが踊ると言われたように、かつては月がのぼっただけでアフリカ中が踊った。近代化された人たちは月などあまり見ない。時間をみて、自分の行動を決める。そうした形で共同性は失われていく。

さらに賃金労働制によって時間は金になった。稼いだり、蓄えたり、節約することが出来ると考えられるように成った。いわば貨幣、交換のシステムの中に時間が組み込まれてしまった。現代人がゲームをしている時などに時間を無駄にしている感覚を覚えてしまうのは、主観的な時間間隔からきているといえる。

無限に広がっていく時間感覚を持ってしまったがために、「自分が死んだ後も世界は何事もなく進み続けるし、自分の生きた証など何も残らない」という虚無を感じ、だからこそ有限の人生は虚しいと感じ死を過剰なまでに恐れる。

ある種の精神病者の場合、無限にひろがる宇宙空間の1点に存在する自分を意識し、実感的な恐怖とむなしさを感じることがあるというが、時間の中に存在する近代的自我はまさにそうした状況にあるといっていい。

無限に広がる時間、そのほんの一瞬しか生きられない自分。当然無限に広がる宇宙空間の1点にしか存在しないことも同様であり、それは紛れもなく正しい感覚といえるのだが普通はみな鈍感に出来ているために、強く意識したりはしない。そうなると鋭敏な感覚を持つ人を精神病者と呼び、病気を「治す」といっていいものかどうか。「鈍感にして気づかなくさせる」が正しいのではないか。

話がそれた。まあ近代人は線上に真っ直ぐ並んで自分が死んだ後も、過去も無限に伸びている時間軸があるんだ! って気づいて、しかも賃金労働や日々の生活を管理するタイムスケジュールは常に「未来の先取り」であってつまり未来がないと生きている意味が無い、と思わせられる。学校の勉強も資格の勉強も就職活動もすべて「未来の為」に現在を犠牲にする行為でありこれはまったく合理的なのだがその代わりに「せっかくがんばったのに未来が来ない=死」を何よりも恐れる。

そんな時代に生きているのだから解決策をよこせ! と思うのだが、最後二つの章でこの解決について書かれている。が、言っている意味はわかるが非常に面倒くさい。ついでにいえば本書の主題は近代人が常に意識せざるを得ない「時間」がいかに主観的なものであり、いかに時間の支配を当たり前のものとしているのかという本なのだ。社会に生きている以上時間に支配から解放されたいといっても、矛盾しているといえる。

まあしょうがないのだ。それを要請する社会の中に住んでいるんだし、それによる利益も受けているんだから。しかしそうした制約を意識していれば、部分部分で抵抗はできるはずだ。それを端的に表すと「現在の生をそれじたいとして愛すのだ」、だ。あまりに凡庸だが本書の控えめな、だけど誠実な結論だと思った。

われわれの意識が未来を獲得し、さらにその生が未来に向かって組織化されているときでさえ、われわれがまず第一に、現在の生をそれじたいとして愛する実感を失わないかぎり、そして第二に、未来がある具体性のあるうちに完結する像をむすぶかぎり、すべての未来がそのかなたに死をもつという事実といえども、われわれの人類の生涯を空しいものとはしない。

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

タグに古典を読むシリーズをつけました。森博嗣作品には結構な割合で各章冒頭に引用がされているのですが、その引用本をちまちまと読んでいこうという心づもりです。まあ、その流れで気になったものがあれば派生で読んでいこうかなってところで。けっこうみんな古典の内容って、話のネタに知りたいんじゃないかなって思うので、簡単な内容のまとめもやっていこうかなと。

それが有名なものならば、すぐにわかる漫画みたいな感じでシリーズ化されているけど、マイナーな物はないでしょう。ブログでやるには、需要がないネタの分おもしろいかな、と思ったりしております。が、飽きたら別に誰に許可をとるまでもなく何事もなかったかのように辞めるので、まあそんなもんですね。これに期待しているのは、僕ぐらいでしょう。

というわけで今回はJ.Sミルの自由論です。いきなり有名ドコロ。森博嗣先生の作品で言えば、『θは遊んでくれたよ』で引用されていたものですね。自由論といえば森博嗣先生はそれで一冊本を書いているぐらいなので(自由をつくる 自在に生きる)発想の源がここで垣間見れるかな、と思ったんですが、まったく違う話でした。でもおもしろかった。

本書のテーマは意志の自由ではなく、市民的な自由、社会的な自由です。個人に対して社会が正当に行使できる範囲は、限界はどこにあるのかを論じています。これがおもしろいのは、ようは原理・原則にまつわる話だからでしょうね、と分析してみたり。時代が変わっても光速の速さが変わったりしないように、原理原則は時間がどれだけ経っても変わらないので、今読んでも新鮮な驚きで読むことができるわけです。

本書で言っている原理とは極めてシンプルなものであって、引用するならば『人間が個人であれ集団としてであれ、ほかの人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られるということである。』という部分だろうか。これは何も身体精神的関わらず、ほかの人に関わる部分については、社会に従わなければならない。しかし、本人のみに関わる部分については、本人の自主性が尊重されなければならない、というわけだ。

うん、この原理自体は、もう文句がつけようがないだろう。他人に迷惑をかけなければ、その他人自身が何をやったっていい。もちろん人間が人の間と書くように、人間は人間同士のかかわり合いの中に存在しており、他人に迷惑を……というと大げさだけど影響を与えない行為なんて存在しないという意見も当然ある。まあ、その辺がつまりはこの原理原則をどう実際に適用していくのかという摺り合わせの部分になる。

まあようはいくら個人の自由だからといって、たとえば酒を飲みまくって死にかけたりして、家族がおいおい泣いてたらそれは他人に関わる部分だからダメだよ、自由じゃないよっていうことをいろいろ考えなくちゃいけないのである。大抵の仕事がつまらないように、そうした摺り合わせは重要で不可欠ではあるもののつまらないので、説明は省こう。

いちばんおもしろかったのは、思想の自由と表現の自由が、人間の内面の充実のためになぜ必要なのかを理屈で説明しているところである。おもしろいのでご紹介しよう。4つ、ポイントがある。まず第一に、発表が封じられている意見は、もしかすると正しい意見かもしれない。また仮に「反論は許さん」などといったら、「自分の意見は絶対に間違っていない」ということと同義であり、そんなことはあり得ないのである。

大抵誰の意見もちょっとずつあっていて、ちょっとずつ間違っているものだ。おっと、書いちゃったけど、これが二点目。絶対的に正しいたったひとつの真理なんて、科学でさえもありえない。100%正しい訳ではない。いつどこでひっくり返るか、わからない。真理に近づくためにはだから、対立する意見の中からよさげなところを救い出すに限る。なので、そうした仮定をおいて他人の意見を封殺してしまうのは微妙だね。

第三に、世間で受け入れられている真理も、それがなぜ真理なのかという議論から遠ざかるとみなそのことについて感がなくなり、ようするに中身がなくなる。宗教と変わらなくなる。たとえば光速不変の法則などといっても、実質どうそれが正しいのかを知らなければ、神を信じているのとそう対して変わらない。合理的な根拠は理解されず、実感もされない。

第三の中に含まれていたことだが、第四に議論がされない場合、仮に真理に近いものだとしても、意味がよくわからなくなる。たとえばキリスト教が正しいかどうかなんてのは別として、教義自体は立派なものである。しかしそれも単に上からもらった教義であるとなれば、本来持っていたはずの強制力……人間の性格や行動を一変させてしまうような、内面化はなされなくなる。

というわけだ。第三と第四はまとめてしまってもいいような気がするが、なるほど納得の理屈であって、正しいと思う。この後話は個性についてに流れていく。基本的に多様性は善であるという思考があるので(そしてそれは正しいと僕も思う)、他人に直接関係しないことがらについては、多様性の為に個性を全面に出していけ! というようなことをいろいろ書いている。

これも、もっともなことだ。と思った。これが書かれた時よりも、今世間的な流れとして、こうした方向へ向かっているだろう。こうした方向というのはつまり、自分にあった靴を履くように、自分にあった生活を送るという当たり前のこと。靴になると当たり前の話なのだが、個人個人の生活(学校、仕事、性差、年齢)になるとなぜか画一的になってしまうのは、まだそこまで豊かではないからだろう。

逆にどんどん豊かになってきているからこそ、誰もが自分にあった生活を送りたいという欲望を持ち、実行し始めているのだと思う。「こうしたい」という考えが先にあるのではなく、「「こうしたい」と思える環境」ができてから社会の方向性というものは決まってくるのだな、と本書を読みながら思っていた。そしてたまに社会の方向性とは無関係にJ.Sミルのような、独創性ある思考を進めることが出来る人が出てくるんだろう。

古典だから、とかそんなアホみたいな理由ではなく、とても面白い本でした。オススメです。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

獣の奏者

先日(といっても二ヶ月ほど前だが)上橋菜穂子さんの『獣の奏者』が講談社文庫として4冊すべて出揃った。素晴らしい表紙で本屋に最初の2冊が並んでいた時から読みたかった。ついにこうして4冊揃い。読んでみたのである。ひとことで言えば、素晴らしいファンタジー作品だった。昨日読み始めたのだが、読むのが(世界に浸るのが)止まらなくて、ご飯を食べている時とトイレに行く時だけ現実に戻ってくるのだが「早くあの世界に戻りたい」とかきこんで急いで本に戻るという有様だった。読み終えた時は、涙が止まらなかった。

獣の奏者エリンは簡単に説明してしまえば、王獣と闘蛇と呼ばれる二つの特殊な生き物がいる世界の話だ。どちらもとても強く、特に闘蛇は人に使われ国を守護する兵器としての役割をになっている。対する王獣は闘蛇以上に強いが決してひとになつかず、笛の音で硬直させてからでないと近づくことさえできない。物語はこの決して人と馴れ合わないはずの王獣とエリンが、心を通わせることができた瞬間から大きな流れへと飲み込まれていく。

読んでいて驚いたのが、ファンタジーでありながら根底に流れているのは知的欲求と科学的な分析だったことだ。ファンタジーは一般的にいって「ファイヤー!」と答えたらマナを消費して火が出るんですよー、という「そういうものだ」っていう世界観で、「なぜそうなっているのか」は問題とされない。なぜドラゴンがいるのか。なぜドワーフがいるのか。知的生命とは何なのか。そうした問いかけがされることはない。

しかし本作においては闘蛇と呼ばれる特殊なドデカイ蛇や、王獣と呼ばれるファンタジー動物が「なぜ生まれたのか」「違いはなんなのか」「野生と人に飼われている状態で違いが出てしまうのはなぜなのか」という違いを認識し、分析的手法で世界の謎にせまっていく。ハリーポッターのハリーが偉大な両親の血を継いで勇者になったのとは別で、獣の奏者のエリンは自らの知的探究心と科学的な分析、実験のサイクルによって王獣を手懐けていくのである。

ファンタジーでありながら、SF小説的手法だと思った。これは著者の上橋さんが研究者であり、オーストラリアの先住民アボリジニを研究していたという経歴からもくるものであろう。現実をみつめ、そこに何らかの理路を見つけ出す。ファンタジーと相反するものであるように思っていたが、これが興奮しきってしまうほど素晴らしい。なぜ? なぜ? なぜ? と問いかけ、仮説を立て、実験・検証し、そして誰もが観たことのない場所へと到達していく。

エリンが「絶対に人になつかない」と言われている王獣と心を通わせていくシークエンスは、涙が止まらない。ここにはジレンマがあるからだ。王獣はその圧倒的強さもあって、「手懐けられる」と知られてしまえば破壊兵器として運用されてしまう「政治動物」でもある。エリンと王獣が仲良くなればなるほど、この物語は単なる獣と少女のふれあいだけを描くものではなく、否が応にも政治的闘争にまきこまれていくことになる。

いわゆるパンドラの箱もののような感じ。核兵器とかさ。強力すぎる力は一度産まれてしまうと、廃絶するのがほとんど不可能とさえ思える。しかもこの世界においてその兵器は、エリンと心を通わせた動物なのである。

やけに小さい話になってしまって恐縮だが、僕は犬を飼っているのでよくこんなことを思う(たぶん犬を飼っている人はみんな思うのではないか)。こんな狭い家に押し込められて、毎日散歩はしているもののめったに走ることもできなくて、いちおう毎日寝て幸せそうではあるものの、こいつは本当に幸せなのだろうかと。

もっと野原で犬として持たされている能力を自在に使いながら、自由に走り回っていたほうが幸せだったのかもしれない。もちろん犬が人間のペットになるという方向でここまで生き延びている以上、そんなことを考えてもしかたがないのかもしれないしそもそも強制的に家でペットとして飼っている人間が心配するようなことではないかもしれない。

けっきょく幸せかどうかなんて考えるのはこっちのエゴというか、勝手なんだろう。言葉が通じないからよくわからないし、そもそも動物に幸せという概念があるのかどうか。「なでてもらいたい」なんかはわかるけど具体的に「どうしたい」っていうことを聞くことはできない。でも幸せになってもらいたいと思っているのは本当だった。今年のはじめに15年飼っていた犬が死んだけれど、幸せだったと思いたい。

エリンもまた(というと恥ずかしいけど)、わからない言葉をわかろうとして王獣と心を通わせる。もちろんすべてが通うわけではないし、犬を野に解き放つわけに行かないように結局は人間の都合に沿わせてしまう。何をしたいのかも教えてもらうことはできない。だから王獣たちの為にしてやりたいということがあっても、それを彼らが本当に望んでいることなのかどうかなんてわからないのだ。

しかしその葛藤がとても美しかった。素晴らしかった。『わからない言葉を、わかろうとする、その気持が、きっと、道をひらくから……』本作の言葉だけど、この姿勢なんだよね、結局。そして本作はファンタジーではるものの、奇蹟で物事を解決したりしない。奇蹟の力が巻き起こって王獣が解き放たれたり、この世から戦争がなくなったりはしないのだ。しかしでもできることはある。

いくらわからない言葉をわかろうと、話し合いたいと思っても、一気には変わらないし、わかりあえるものではない。しかしちょっとずつ変わっていく。それが対話の本質だろう。そして人間は自分の短い一生を、次世代に継承させて少しずつ前に進んできたのだ。そのある意味現実的な姿勢を、ファンタジーとしての世界観でくるんだもの。それがこの『獣の奏者』という物語だったと思う。

この世界にいるのはとても幸福な時間だった。感謝、感謝。

獣の奏者 1闘蛇編 (講談社文庫)

獣の奏者 1闘蛇編 (講談社文庫)

獣の奏者 2王獣編 (講談社文庫)

獣の奏者 2王獣編 (講談社文庫)

獣の奏者 3探求編 (講談社文庫)

獣の奏者 3探求編 (講談社文庫)

獣の奏者 4完結編 (講談社文庫)

獣の奏者 4完結編 (講談社文庫)

BEATLESS

BEATLESS』を読んだ。円環少女やあなたのための物語といった、ライトノベルとSF、ジャンルを超えて活躍している長谷敏司さんの最新作だ。僕が長谷敏司さんの作品で読んだことがあるのは例にあげた2作品のみだが、どちらも技巧的かつ、エンターテイメントであり、テーマとしておもしろいものを問いかけ、その世界観の構築は思考の枠組み同士の争いといった形で行われてきた(難しく書いたけどようは「いろんな世界の捉え方をする人がいるよね」っていうのを意識的に強調して書いているということがいいたい)。

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コメントアウト。正直な、理屈っぽく書かない感想を言えば、傑作だった!! 感動した!! 最後は風呂で読んでいたのだがそのおかげでぼろぼろ泣きながら読んだ。感動して泣いたのだ! 読んでいる途中で頭がクラッシュしたかのように興奮して昨日こんな恥ずかしい記事も書いた! ⇒物語を体験して、心が震える瞬間がある。 - 基本読書 とにかく、良かったんだよ!! っていうのを下に書いていくからね!!

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本作ではその総決算ともいえる内容だ。扱うネタはド直球なものばかり。ボーイ・ミーツ・ガール物であり、扱うテーマは「人間型ロボットが一般化した世界で何が起こるのか」といったところであり、そしてプロットは完全にライトノベルだ。題材としてボーイ・ミーツ・ガールは直球中の直球であり、人型ロボット(本作ではhIEと呼称されるので以降踏襲)のテーマもSF的には直球でありながらその骨組みはライトノベル的・漫画的プロットで組まれている。

総ページ数が650ページにも及び、しかも二段組なもので、一冊に見えるのだが内実としては文庫3冊分ぐらいある。ひとつの物語としては長く、ド直球の具材がぐつぐつとよく煮込まれ、効果的に混ぜ合わされている。ボーイ・ミーツ・ガール要素はアンドロイドとの恋愛というギミックによって魅力的なジレンマを生み出し、そして「人間とhIEとの新たな関係」というSF的に魅力のあるテーマを引き出し、ライトノベル的なプロットはそれらを重苦しくさせず、あくまでも娯楽として面白いものにしてくれた。

というわけで以下では1.ボーイ・ミーツ・ガールとしてのBEATLESS 2.SF的なテーマとしてのBEATLESS 3.ライトノベル的なプロットとしてのBEATLESS の3点に魅力をしぼってご紹介していこうと思う。まあノリに乗ってついついネタバレしちゃうかもしれないけどごめんよ。

1.ボーイ・ミーツ・ガールとしてのBEATLESS

そういえばあらすじをまったく書いていなかった。ここで少しあらすじを紹介しておこう。約100年後、22世紀になった未来ではヒューマノイドインタフェースエレメンツ通称hIEが人間社会に広がり馴染んでいた。この世界ではこのhIEが人の手助けをし、人間の考えを吸い上げる政治家として運用をテストされたりといったことが一般的になっている。

また「コンピュータが人類全体をあわせたよりも速い処理能力を得たポイント」を一般的に特異点と呼ぶ(とかそんなかんじだったとおもう)が、この特異点が起き、「AIの方が人類より進んでしまった」世界でもある。この「人類を超えた」AIは当然人類を超えた速度で真価を続けるので、人類には理解できないことをやったり、理解できないものを作ったりするがこういうやつが40機近くいる。

hIEが一般化し、人間以上の超高度AIがいる世界では、人間の役割というのはどんどん置き換えられてしまっている。人は人にとって便利な道具を常につくってきた。今では何よりシステムが自動化を行い、人間の仕事はどんどん機械に置き換わっている。そうやってどんどん機械に人間の能力を置き換えていった時に、人間はお払い箱になってしまうのだろうか?

とここまでいくとSF的なテーマと具体的なプロットの話になってしまうのでここではとりあえずここまでにしておくが、そういう世界観である。

というわけでここからようやく本筋にもどろう。ボーイ・ミーツ・ガールとしてのBEATLESSについて。むかしから恋愛物において重要なのは「いかにしてジレンマを生み出すか」と相場は決まっている。「俺はお前が好きだ」「私もあなたが好き」という、お互いの気持ちが通じ合うものの、しかし一緒になれないという価値観の相克が、ドラマを形作る。

hIEと人間の恋愛はジレンマそのものだ。hIEには「こころ」はない。hIEはシステムによって動く。だからhIEがいくらこっちに気がある態度をとろうが、かわいい笑顔をみせようが、それは「システムとしてそう組まれているから」そういう行動をとるに過ぎない。あるいは「好意をもってもらおう」というそもそもの企みがあるからこそ、笑顔を見せるのである。

主人公であるアラトは、しかし自分の元に転がり込んできた超綺麗なhIEに恋をする。かたちが綺麗だったからだ。そして彼はその気持を肯定していくのだが、その道程は当然楽なものではない。繰り返しになるのだがそもそも相手にこころはないのだから、「どれだけ相手がかわいくみえたとしても」それは相手にとって望ましい結果を呼び寄せるための布石でしかない。

この物語ではそれはアナログハックとして説明される。hIEにこころはないので、何かhIEにたいしてしてやりたくなったり、あるいはほとんど意識しないにしても「気づかない内に誘導させられている」ことをアナログハックと呼ぶ。だからアラトは常に「自分は騙されているのではないか」と疑いながら彼女との関係を構築せざるを得ない。

たとえ「こころ」がなかったとしても、人間は人間の形をしたものが人間と同じ動きをしていたら、引き寄せられるものだ。それ以前の問題で、人間は自分以外の人間に本当にこころがあるのかといったことも、実際にはわからないのである。人間を徹底的に分解してもこころは出てこないのだから。

かたちが好きだから、相手が笑顔を見せていれば好きだと思う。当然ながら好きだとは言い切れない。しかし好きだと思ってしまう気持ちは本当なのだ。ぼくらは相手のこころを直接感じているわけではなく、相手の人間らしい仕草、表情をみてそこにこころがあると考えているだけだ。でもそこに人間と寸分違わない動きをするロボットがいたら──。

その時生まれる好きだという気持ちをどうしたらいいのか。その葛藤は、今の僕らには無縁のものだが、でもいずれくる未来であると僕は思う。これは未来の恋愛小説なのだ。

2.ライトノベル的なプロット(設定)としてのBEATLESS

このプロットがまた素敵なのだ。ちょっと書くから黙って読んで欲しい。
物語の冒頭、東京湾第二埋め立て島群の一角で事件が起こる。5体のhIEが逃走したのだ。本来hIEは行動制御をクラウド上で行っており、そこに存在している振る舞い以外の行動はとれないので逃走するなどあり得ない。しかし逃走が起こった。ということはこの5体はその「あり得ない機体」なのだ。

ほどなくしてその機体の設定が明かされる。Type-001からType-005まで、それぞれの機体は特殊能力と戦闘能力、そして独自の思考の枠組みを与えられている。Type-001紅霞は「人が争いに勝利するための道具」としての役割を、Type-002スノウドロップは進化の嘱託先である道具としての役割を、Type-003マリアージュは環境を構築する道具としての役割を、Type-004メトーデは人間の拡張としての道具としての役割を。

そして主人公の元にやってくるType-005レイシア(000だったっけ??)は……が明かされるのは物語のクライマックスなので読んでもらうとして。この5体がそれぞれオーナーを見つけ(ないのもいるんだけど。)、オーナーの思惑に沿ったり沿わなかったりして世界を巻き込んだ戦いをはじめるわけで、なんていうか、燃えるんだよ!! 中二病だから燃えるんだよ!!

もうねーこういう「特殊能力持ちのAI5体とそのオーナー」とかさー、出されたらもうどうしようもないっていうか。しかもそこに人類を超えた超高度AIの思惑が絡んでくるわけで、燃えないわけがない。前エントリでここに関してはその興奮を書いたが、「人間を超えたAIが人間社会に対してどんな影響力を行使できるのか」っていう描写には、こっちの想像力を拡張させられた。

あと主人公がちょろかったり、なんかやたらとなついている妹がいるのとかはライトノベルっぽかった(ただの感想)。でも緊張続きのこの物語で、どこか非現実的な人間関係というか、キャラクタ設定は息抜きになって良かったよ。

3.SF的なテーマとしてのBEATLESS

続いてはSF的なテーマとしてのBEATLESS。さっきhIEによって人間の機能がどんどん置き換えられていった時、人間はお払い箱になってしまうのだろうか? と書いた。最後に人間に残るのはなにか? と。上記を読んでもらえればわかるかと思うが、最後に残るのは恋である。本作では人間の役割がなくなっていくのを危機感として捉える向きが強いが、僕は人間の役割なんかなくなってしまえばいいとおもう。

最終的に人間の機能がみんな置き換えられる時がきたなら、あとはそいつらに任せて人間はみんな毎日引きこもって好きな事をして過ごせばいい。しかしこれは僕個人の意見だ。本作はもう少し人間には役に立ってもらおうとしている。これはAIが進化しきった未来の話ではなく、「AIと人間が手をとりはじめた」時代の話なのだから当然だ。

なんだかこの項で言おうとしたことをほとんど前項で書いてしまったような気がするなあ。SF的なテーマとしておもしろいとおもったのは「hIEが一般化した世界のリアルな姿」を描いている世界観なんだよね。そこでは人はアナログハック──常に誘導を受け、あるいは意識して過ごさざるをえない。

その葛藤が広く行き渡っている世界で、そんな世界は長続きしない、と結論したくなる。だって疑い続けながら生きていくのってつかれるもんね。だからこそ本作ではSF的なテーマとして「物と人の新たな関係性」が提案され、実行に向けられることになるが、その為に必要なのが「hIEを信じることが出来る人間」つまりアラトだったわけだ。

そもそも人間の脳は常に多様な錯覚の中にいる。脳に転写される映像は、現実のそのままの映像ではないし、アナログハックなんて大層な名前をつけるまでもなく僕らの日常は自分の意志にそわない「誘導」でいっぱいなわけで、アナログハックがなんぼのもんじゃいと読んでいて思ったりもした。アラトの気持ちに近かったわけだ。

人間の身体自体は、もうここ何千年も(たしか)進化していない。しかしそうはいっても人間は昔とは似ても似つかない生活をしているわけで、なぜそれが可能なのかといえば「伝達が可能になったこと」と「道具を進化させ、環境を変化させること」の二点が主な要因だった。いわば道具と人間は相互作用で進化してきたわけだが、道具の側が顧みられることはなかった。その関係性が、道具が人型を持ったことで崩れていく。そして新たな関係性の構築。そのあたりが、本作のSF的テーマとしての読みどころだろう。

おわりに

という上の3つの要素が幸福につながって傑作になっていると思う。しかしもっといえば、「その先」が見たかったという気持ちもある。ボーイミーツガール、大きな葛藤を乗り越えて成就されるかその恋は。結末から、此の世界では道具と人間の新たな関係性としての世界が始まる。人間と物の関係が変化すると次に起こるのは人間と人間の関係の変化だろう。その先に待っているのは何かといえば、情報が独立し、分散した社会だ。

人間に最後に残ったものが恋で──、恋が物と行われるんだったら、人間は個々に独立した生を過ごすことになるのかもしれない。あるいは超高度AIたちが、あらたに「創造」をはじめ人間から独立した存在になるのかもしれない(膚の下/神林長平)。何にせよこの傑作を読んで思ったのは「早く長谷敏司さんの次回作が読みたい」だった。次はどんな爆弾を持ってくるのか、待っています。

BEATLESS

BEATLESS

ロボットとは何か――人の心を映す鏡  (講談社現代新書)

ロボットとは何か――人の心を映す鏡 (講談社現代新書)

ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉

仕事をしている人と、これから仕事をしようと思っている人は読んでいると少なからずいいことがある本だと思う。本書は副題からも分かる通り「2025年の未来の働き方はどうなっているだろう」についての本なのだが、何しろ今の仕事観というのは世代ごとに大きな乖離がある。終身雇用が当たり前だった世代と、子ども数が多く競争が当たり前だった世代、そしてデジタルネイティブたる平成生まれの人間が続々と会社に入ってきており、仕事観の断絶が内部にいるとよくわかる。

本書は「未来の働き方」についての本であると書いたが、未来の完全な予測などできないことは今更強調すべきことではない。明日何が起こるのかもわからないのに、10年20年先のことなどわかるはずがない。しかし「起こるであろう傾向」があるのはわかるだろう。テクノロジーの進化、グローバル化の進展、人口構成の変化と長寿化、社会の変化、エネルギー問題の深刻化などがそれだ。

どれひとつとっても現代で既に問題になっているものばかりだが、だからこそこれから先もっと問題が深化していくのは疑いなく事実だ。本書では上記5つの要因を主軸に、それぞれ変化した後に何が起こるのかを32のトピックにまとめている(知識のデジタル化が進む、など)。「完全な予測」は不可能だが、これらのトピックを用いながら「傾向の予測」を行おうという趣向である。

この32のトピックだけみてもたいへんおもしろいのだが問題はここから先だ。傾向の予測とは何もひとつではない。完全な予測ができない以上、予測はそれこそ無限のシナリオにわかれていくことになる。本書では「何もしなかった場合の暗い未来」と「能動的に行動を起こしてシフトを起こした場合の明るい未来」のシナリオを書いていく。意図しているところは明らかで、我々は未来を明るくしたかったら、行動を起こしていかなければいけないのだ。

そうはいってもどんな行動を起こしていったらいいの? という不安を、恐らくすべての仕事人は抱えているのではないか。少なくとも僕は抱えている。不確実な未来。よくわからん社会。問題が山積みのようだがどれひとつとして詳細に把握できない。何しろ情報が多すぎるからだ。グローバル化したら僕の仕事は将来誰かもっと安い賃金の人間にとってかわられるのか? はたして失業したらやっていけるのか? 失業しなかったとしても毎日働き詰めで友達もいないくらい生活が待っているのか?

未来に対してある程度の予測ができなければ漠然とした不安に怯えたまま日々を過ごすことになる。そして「こうしよう」という行動計画さえ建てられないのである。本書が未来を予測しようとするのはそうした「五里霧中」状態から脱するためであり、未来に関して情報と知識を得ることで「未来への計画」──具体的には次の3つの疑問に答えていく。

・私と周囲の人たちにとくに影響を及ぼしそうなのは、どの出来事やトレンドか?
・私の職業生活に最も強い影響を及ぼす要素はなにか? わたしはその要素にどういう影響を受けるのか?
・波乱の時代にあって、未来に押しつぶされないキャリアを築くために、私はこの先五年間に何をすべきなのか?

簡単だがコレに対する答えもまとめてしまおう。第一にゼネラリスト的な技能を尊ぶ常識を問い直し、「専門技能の連続的習得」を目指すべきだ。世界の五十億人がインターネットにアクセスし、知識が広まりやすくなってしまえば、何でも屋の時代は終わり、専門家の時代が訪れる。誰もが同じ技能を有するようになるので、個人の差別化が難しくなっていく。戦略的に自分を売り込んで行かなければならない。

第二に今まで仕事観を支配してきた競争原理が失われていることを意識すべきだ。今の若い人間は競争を嫌い協力したがる、する傾向がある。子どもの数が少なくなっていることが原因ともみられるが、インターネットによって誰もがつながれる時代になったのが大きい。それにより仕事のコラボレーション、人的ネットワークの重要性が今までより増す。コミュニティを意識的に形づくっていかなくてはならない。

第三に、どのような職業人生が幸せかを問い直すべきだ。*1先日の記事でも書いたが⇒ただ消費する消費者が経験と創造を求め始めたのはなぜだろう - 基本読書 若者の価値観はブランド物や車などを消費、ステータスとして買い求めるより、自分だけの経験、創造といった行為を楽しんで求めている。金を稼ぎモノを消費し続けることが幸せであるという価値観はもはや崩壊しているといっていい。

僕は面接官などもやるのでよく今の就活世代の志望動機なども聞くのだが、傾向として「お金は重要ではない」という価値観をみな持っている。お金は普通に過ごしていけるだけでいい。大金はいらない。その代わりに自分の時間だったり、貴重な経験をしたいという価値観にすでに変わってきているのだ。

と以上に述べてきたようなことを本書では長々と解説していく。多くの研究結果などが参照されていて、「仕事観」において全体的な状況の把握ができる一冊だ。とても良かったと思う。ただ個人的には未来予測についていくつか納得がいかない点もあった。たとえばテクノロジーの進化により、人はネット上で人とやり取りをするようになると、対面でのコミュニケーションが出来ないため孤独で不幸だという。

僕はそうは思わない。もちろん対面の方が豊富な情報をやり取りできる。いい面もいっぱいあるのは確かだが、対面であっていないから孤独だし不幸だとする考え方は違うだろう。僕個人的な考えでは、人間の対面での接触はこれからどんどん少なくなっていくだろうと思う。本質から言えばネットで会おうが実際に会おうが関係がないのではないだろうか。

またインターネット、ソーシャルネットワークというものを過信しすぎているのではないかというのも疑問のひとつだった。いかにSNSが進化して、大勢のフォロワーができても人間が把握し付き合えるのは古代から変わらないという研究結果が出ているのだ。本書を読むとSNSで世界中の人間といくらでも付き合えるかのように錯覚するが、実際には人間が付き合って交流を育める規模は現在とあまり変わらないのではないか。

あと「消費」よりも「経験」や「創造」が求められるようになっている根拠として、お金と消費には限界効用逓減の法則(あるものを得る数や量が増えるほど、それに価値を感じなくなるという法則)が働くが、経験にはこの法則が当てはまらないとしている。ただ経済学での調査では人生の満足度と一人あたりの実質GDPは正の相関(所得が増えるほど幸福度が増している)を示しており、単純に本書の結論はいいきれないところがあると思う。

いろいろケチをつけてしまったが、この本を読んでよかったのは具体的な「危機感」を持てたことだった。今までなんとなくやる気が起きずにいたのだが、発破をかけられた気分だ。大事なのは「やる為の太い根拠」を持つことと「やろうという覚悟」を決めることであって、これが持てたのはとても大きかった。

本書の主軸の主張には僕は大いに共感した。未来予測は予測でしかないので、自分なりのシナリオを書けばいい。どんなシナリオを書いても本書で提案している、上で示した3つの答えは揺らがない。誰もあなたの未来を作ってはくれないのだから、状況把握とこれから先の未来を考えるために、読んでもらえるといいと思う。

ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉

ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉

*1:p27

マルドゥック・ヴェロシティ

麻薬中毒に陥り敵と味方の区別がつかなくなった状態で友軍への誤爆という罪を犯す/消えないトラウマ/同時に存在する爆撃のエクスタシーに悩まされる虚無の男=ディムズデイル=ボイルド。どんなものにでも変身できる万能兵器として生み出され、その上意識まで付与されてしまった為に自分の存在意義=有用性について思い悩む一匹の考えるネズミ=ウフコック・ペンティーノ。この一人と一匹と寝食を共にするそれぞれ悲惨な境遇を背負った改造人間達。

彼らが寝起きする研究所が、そのあまりに巨大化しすぎた力と、戦争の終結=能力の使い道の消失により政府の強制介入を招いてしまうところから物語ははじまる。追いやられた彼らは、戦争が終わり行き場がなくなった自分達の唯一の能力=暴力を正当に生かすことが出来る場所を求めて閉じ込められた楽園から人間の住む街へ。行き着く先はマルドゥック・シティだ。

ダークタウン然とした空気、毒婦と呼ばれる謎の美女、拷問を専門とするカトル・カール(12人の戦士、全員特殊能力持ち)、いわくありげな検事、市長、刑事、ありとあらゆる胡散臭そうな奴等が跳梁跋扈している街。まともな人間など一人として登場しないこの街で、人はその暗い宿命を背負って死闘を繰り広げ、そしてエンターテイメントとしては例外的と言うほかない、爽快感も何もない、虚無としか言いようがない結末を迎える。

「何を・どうやって」書くかはよく悩むが、「なぜ」について本気で悩んだのは本書が初めてである。とあとがきで冲方丁本人が語っているように、本作の結末=破滅は読み終えても楽しく生きていこうなどというようなポジティブな感情は何ももたらさない。ただただ悲しくて、がんばって積み上げてきたものが全部消えてしまったというディムズイズ・ボイルドの心情をトレースするかのごとく虚無が残る。

でもね、僕はなんというか凄く泣いたんだよね。この後にはじまるある意味「希望の物語」であるマルドゥック・スクランブルよりも泣いた。それはなんていうか「病気で愛する人が亡くなっちゃった系の泣ける」ではなくて、たしかにそういう面もあるんだけど、もっと複雑なんだよな。それを説明するために、この物語についてもう少しだけ書く。麻薬中毒、味方への爆撃、それに伴う快感に対しての罪悪感を乗り越えて改造人間化⇒ウフコックとの出会い、能力の正統的な使い道の発見、その後。

ダークタウンに、秩序を打ち立てていくのが物語の前半パート。彼らは通常では考えられない技術=能力を持っていて、それ故恐れられるのだが決してダークタウンでその能力を暗殺・拷問・非合法な暴力に使うことはない。必ず法の下で能力を使い、法の下に相手を引きずり出し、地道に情報を集め法廷で相手を裁く。つまり、ダークタウンに光の道を作り上げていくのが彼らの目的だった。

彼らの人並み外れた技術・能力はその有用性を自分たちで決めるのではなく、民衆に差し出し、民衆に決めさせることによって成立している。行き過ぎた武力が個人の手に握られては破滅をもたらすことは歴史が証明している。彼らは突出した技術の暴走=破滅を防ぐために、あくまでも自身を社会にさらけ出し、また社会に還元させるために社会矛盾と一体化させることを選んだのだ。一体化させるターゲットが犯罪はびこるマルドゥック・シティだった。

物語が虚無=個人に制御されなくなった暴力の行く末に落ちていくのは、これらの試みがすべて無に帰していくときで、その原因=相手は何かといったら同じような能力者集団ではなく「都市」そのものだ。彼らが一体化しようとした社会のルールが彼らに対して牙をむく。ウフコックと共にルールにのっとった道を歩み始めていたボイルドはそこで道を踏み外すのだ。

悲しいのはまさにここだ。信じていたものに裏切られ、それどころか信じていてくれたものを裏切ったという絶望。その後の本編で何度として立ち向かってくるが内面はほとんど見えないタフなライバルの心のそこに、これほど深い絶望があったのかという気付き。主人公なのに、丁寧に段取りを整えられて着々と絶望への道を歩まされる様が哀れでならない。

そして何故かその絶望にとても惹きつけられるのだ。たぶん誰しも自分の中に「暗い欲望」みたいなのを持っているものなのではないか。あることをやってしまった時にどうしようもなく後悔すると同時に、快感も覚えているというように。実際にはそんな力はないので実行にうつされることはないものの、「無茶苦茶にしてやりたい」と思う事だってあるのではないか。

怪物と戦うものは自分も怪物にならないように注意せよとニーチェだか誰だかが言っていたが、そういう欲求との戦いってのは随分昔から繰り返されてきたんだと思いますね。相手がルール無用でやってくるんだったらこっちだってルールなんか守らねえよ、ってなったらそれ相応の状況に落ちていくしかないのだ。スターウォーズだってそういう物語だもの。ようは神話なのだ。

痛快娯楽能力者バトルという枠組みを与えられておきながら、これだけ救いようがなくグロテスクな物語に出来るというのも珍しく、さらにはそれが傑作だというのだから恐ろしい。セリフ回し、構成(100パートから始まり、0で終わる)、文体(スピード感と圧縮された情報を表現するクランチ文体)、演出と何よりキャラクター、どれをとっても一級品であり、全体の完成度は凄まじい出来だ。

中でも特筆すべきなのはクランチ文体と呼ばれる冲方丁独自の文体だろう。=/などを用いて記号的に状況/心情の描写を行っていくその文体は、物語の加速感を表現し状況の圧縮に寄与していると思う。いつもならこれぐらいの文章量だと1巻あたり2、3時間で読めるが、普通に4時間ぐらいかかったもん。何よりこれが一番重要だと思うのだが、このクランチ文体は・・・めちゃくちゃかっこいい。

記号的な文体は改造によって性欲や感情がほとんど無くなってしまったボイルドを表現するのにも、これ以上ない文体だった。そういう意味で言うと退廃的で改造を受けた人間たちを大量に書いている点で、マルドゥック・スクランブルよりもこちらのマルドゥック・ヴェロシティの方がよほどこの文体にあっているのではないか。

セリフ回しも圧巻で、脳の中のなにをどうこねくり回したらこんなセリフが出てくるんだろう。光圀伝を読んだすぐ後だから思うことだが、時代も状況もジャンルも何もかも違う作品でこれだけセンスのあるセリフを書ける才能にはただただひれ伏すばかり。短いものだと『こちらが私の兄弟たちだ。それぞれ重要なポストに、座るのではなく、階段代わりに足を乗せている』とか。

いろいろ書きたいが台詞については何を書いてもネタバレになってしまうので無理だった。でも特にヒロインとボイルドのやり取りが全て好きだった。完璧なんだよね、やり取りが。ありきたりなやり取りが一切無く、二人共自分の役割と感情ってものを完全に割りきって会話をしている描写と、漏れでてしまう感情の描写が。こんな会話が書ける人間が何人いるだろうか。

正直言ってこのまま書き続けたら最初の場面の凄いところはここで〜と全エピソード解説をはじめてしまいそうなのでここいらで切り上げるとするけど、とにかくどんな要素を切り取って仔細に眺めてみても凄い作品なんだよ。こんな作品がこの世界にあることを感謝です。ありがとう、ありがとう。最後に卑怯ですがあとがきより引用させていただきます。

肯定すべきではなく、かといって無視すべきでもない。そういうものを列挙することに、果たして意義はあるのか。
ときとして暴力は、素晴らしい効果を発揮するのだと公言する意義は。
そんなものはない。そう言い切れる楽観こそ、本書の意義であって欲しい。
最善であれ最悪であれ、人は精神の血の輝きによって生きている。
そしてエンターテイメントは、最悪の輝きさえも明らかにするのだ。
残された虚無──その輝きを

光圀伝:史書は人に何を与えてくれるのか?

すごすぎる。元々とんでもない作家だったけれども、もう底が知れない。冗談じゃなく読んでいて手が震えて本を落としそうになったよ……。小説を読んでいてよかったと思うのはこういう時だ。たった一人の才能が創り上げる、奇跡の塊のような作品に触れるとき。不純物が存在せず、ただただ「なんなんだこれは」という感覚に圧倒される。

「才能」とか「天才」という言葉は語の定義を別にして、実際的のどのような状況で用いられるかといえば「誰にもそれを言葉で説明できないとき」なのだ。そういう意味で言って、これはまさに天才の所業であり才能の物質化だった。文句なしに傑作なので、こんな文章なんか読んでないで読むべきである。

『光圀伝』は、『天地明察』で一躍有名になった……が、SFファン及びライトノベル及びアニメファンにはそれ以前から有名だった冲方丁の新作時代小説である。そのタイトルから容易に推測できるように、巷では水戸黄門で名前が通っている水戸光圀の物語である。正直言って水戸黄門なんて古臭い時代劇としか認識しておらず、各地を回って悪を成敗するよくわからん正義のじーさんとしてしか知らなかったが、本書で描かれる水戸光圀はそのような水戸黄門像とはまるっきり異なる性格を持っている。

本書で書かれる水戸黄門は、必要とあらば人を殺し、若い頃はただの度胸試しでそこら辺の浪人を切り殺し、プライドだけは高く学問で相手に喧嘩をふっかける恥知らずだ。しかし妻を愛し友を愛し、町のろくでなしを愛した。遊郭やスリを相手に教えを請い、当時から避けられていた異人にあえて接近し、これまた教えを請い、戦乱が終わり太平の世を作る為に、天地すべてを師匠として自分の藩を最大級に発展させた一人の偉人だった。

その生き方はまさに「苛烈」とでも言うべきである。数多くの事業を起こし、数多くの文化に携わり、数多くの発展を促してきた光圀の人生には常に親しい人の死が間近にある。親しい人の死に立ち会う悲哀と共に光圀が飲み込むのは自分が行ってきた事業の喜びだった。その気持ちが冒頭の光圀の文章に現れている。『虎が泣いていた。悲しくて泣いているのではなかった。』悲哀を飲み込み、苦楽をもって生をまっとうすることこそが光圀の「大儀」であった。

話を少し『天地明察』に寄せよう。なぜならこの作品もまた、水戸光圀が生きたのと同時代を書いているからだ。『天地明察』では、挫折と夢をテーマに渋川春海という男が成した「改暦」を書いた。ひたすらシンプルに改暦という夢と、その事業がもたらす変革、困難、そしてその時代性を書いていた『天地明察』はすっきりとした気持ちのいい作品だった。とてもよくまとまっていて、面白かった。傑作だった。しかし──あまりにシンプルすぎる、という見方もあるだろう。

冲方丁の作品には、マルドゥック・スクランブルシュピーゲルシリーズのような底を覗くような、清濁併せ飲んでかつ底が見えないシリーズまであるのに、なんだか綺麗すぎると僕は少し物足りない思いをしたものだ。そこで出てきたのがこの『光圀伝』だった。ひょっとしたら、天地明察の成功で気をよくして同じような題材で書いてみただけかもしれぬと思っていたが、とんでもない勘違いだった。

光圀伝を通して語られるのは「大日本史(明治時代に完成した歴史書)」の事業だ。また、戦乱が終わり太平の世が訪れた時代を書く。合戦を何百年も続けてきた国で、人を殺すことが当たり前の価値観を覆し、殺さずに済む時代とは何なのか、学問が平等に行われ繁栄が日常となる平和な時代をどのようにして創り上げるのかといった難題が問われた時代だった。

戦乱の世であれば、問題自体は意外とことは簡単なことに気づくだろう。殺されれば終わりで、殺して奪い取れば勝ち。死ねば生きるかといった単純な問題に還元され、わかりやすい。しかし太平の世を創りあげる方策はそう単純ではなく、誰もみたことがない世の中を創りあげなければいけない、難しい事業だ。そこで見出されたのが歴史だった。未知の時代を生きねばならない時に、歴史が道標の代わりになる。

戦乱ではなく、太平の世にある後世にまで残る事業を語るという点では、『天地明察』と対をなすといえる。どちらも戦乱の後の太平の始まりという、微妙に扱いにくい時代を切り取りながら、「暦」と「歴史」という題材でもって「今と地続き」の射程をもった物語として語っている。やはり「時代小説」を書きながらこれだけ現代で受け入れられる作品を書いたのはひとえにこのような「広い射程」を持ったことが大きかっただろう。

しかし──この二作品において、題材に対しての肉付けはまったく異なる。天地明察はテーマ、幹にそってそれ以外が綺麗に省かれたすらりとした傑作だが、光圀伝は光圀という一人の男の「人生」を書く。この男にとっては、先ほど述べたように歴史編纂も出会いと別れの人生の一部に過ぎない。削ぎ落とせないほどの肉が、光圀という一人の男を構築している。

本書の冒頭で語られる内容が印象的である。いわく書は手入れの難しく、人の手のかかるものであり、それゆえ人を殺しもする。たとえば火災に襲われた時に、大切な亡失を許さない書を持っていたとする。仮にそれが何十巻にも及ぶ大著であったとしたら、持ち出すこともかなわず人と一緒に焼失してしまうだろう。

書の亡失を防ぐ一番の方法は、幾つも写し、それぞれ違う場所で蔵することである。だがあまりに書が多ければ、それも不可能である。京人が、多額の金銭を支払って古今和歌の伝授を請うのもそうした理由による。教える側が、ただ金銭を欲するのではない。書を護持するために必要なのである。これこそ文書が、簡明を尊ぶ最たる理由であろう。

なるほどまったく理に適っている。文化を自己増殖し伝播する一個の生物であるという考え方をミームと呼称するが、コピーのしやすさは文化の生き残る力をあげる。と頷くのだが、本書の分厚さは750P近くであり、まったく簡明ではない。いきなり自己批判かと思えば、そのすぐあとに続くのがこういった内容である。

いわく「如在、此の二字はすなわち尊敬の義なり」というのを「如才」と略すことで「正理を大失」するというのである。つまり略されてしまうことで正しい意味が喪失してしまうものもあるのである。簡明に頼ることで失われることもある。だからこそ本書の冒頭では『書は"如在”である』と書くのである。

書は”如在”である。
まさに聖人が述べたように、もういない者たち、存在しないものごとを、あたかもそこにあるかのごとく扱い、綴ることをいうのである。

引用部の後半はまさに「歴史」が書かれる意義である。なぜこの世に歴史が必要なのか。それは遠い過去に不在となったものを、現代の者が知るための唯一の手段である。史書に記された人間は、みんな生きている。この世はそうした人々の無限の生の連なりなのだ、というのは「歴史編纂」のテーマでもあり、同時に光圀の人生を余すところなく書いた本作自身の表現でもある。

この『光圀伝』は天・地・人の主に3つの章からなっていて(途中に断章のようにして、未来の光圀による手記が入る)天・地の章で光圀は人と出会い、自分の未熟さを知り成長し、最後の人の章で、光圀はその事業を受け継いでいく。人と畜生を区別するすべは、人は受け継ぐということである。どの章も素晴らしいが、出てくる人間がすべて「凄い」のだ。一例として宮本武蔵をあげよう

この男、ほんの数十ページしか出てこないキャラクタなのに、むしろ直接的にその凄さが書かれないからこそ凄さが際立つ。台詞もほとんどないのだが、行動で見せる。少ない言葉はすべて光圀のその後の人生に影響を与えていく。思えば本作に出てくるやり取りというのは、これだけ長大な物語にも関わらず無駄というものが一切なく、直接相手の心根に響く刀のような言葉ばかりである。

本書に出てくる「偉人」とも言うべき人物たちは、みんな二つの心を持っているようにも見える。また宮本武蔵を例にあげると、血気盛んに合戦のことを教えてくれという光圀に対して宮本武蔵はとりあわない。業を煮やして「あんただって、また戦国の世になればいいと思ってるんだろう」と幼い光圀がいうと、ゆっくりと頷く。

しかしそうゆっくりと頷く表情は、惜寂の念なのだ。同時に、地獄を望んでいるという冷酷な認識だった。『人間の残忍さが剥き出しになることへの許容だった。けだものの道と知っていて進みたがっている己への哀惜だった』思えば僕らもまた戦争反対などといいながら何万人も人を焼き頃したり突き殺している武将達に夢中だし、何十万人も焼き殺す三国志が大好きだ。

このような矛盾した感情を肯定していく物語といえるのかもしれない。天地、そして人の章に至るまでに、親しい人間が次々と光圀の元を去り、あるいは光圀に消されていく。驚くほど悲しくて、最初から最後まで涙が止まらない。ただそれでも受け継がれていくものがあり、光圀の胸にあるのはつらさだけではなく、喜びがある。『虎が泣いていた。悲しくて泣いているのではなかった。』は冒頭の文章だが、本書は光圀がこの境地にいかにしてたどり着くのかという物語である。

天地明察』でもそうだったのだけれども、本書は冒頭の場面がそのままラストシーンにつながっている。しかし円環構造というわけではない。最後の場面から書き始められるのはこれが「史書」であることの証左であるのだ。歴史は今に至るまで連綿と受け継がれてきた。歴史の先にあるものは、人の生である。この物語は、時代小説と歴史を扱って僕らの人生にそのまま繋がっているのだ。

僕にとってはオールタイムベスト級。これほどの作品に出会える機会は、滅多にないぞ。信じて読んでくれ。

光圀伝

光圀伝

天冥の標6 宿怨 PART 2:小川一水は人間が想像したことのない世界へ走り出してしまった

今、滅茶苦茶に広い宇宙のどこかで、人間が死んだり生きたりしている間もまるで関係をもたず、予想もつかない形で展開を続ける意識体が存在していたら──そしてそれが我々の太陽系にやってきて全く異なるそれぞれの目的を果たし始めたら、それに人間が巻き込まれたら──どんなに面白いのだろうか。とそんなことを真面目に考えてしまうのは僕の頭が湧いているからなのかもしれないが、しかしSFの面白さとはこのように現実を拡張したところにある。ありもしないことを考えること。文字列によってディティールを積み上げまるで本当のことのように思わせて興奮させること。

これは小川一水による『天冥の標』シリーズの、第六弾(第六冊ではない)なのでもはや新規に紹介をするつもりはないのだが、いちおう段取りとして。本シリーズは小川一水による十巻本として幕を開けた。小川一水が持てる力の全てを注ぎ込んだSFを創ったらどうなるのか、という問いかけから始まった本作は、「全ての力」がまったく誇張ではないことを、驚きとして一巻ごとに思い知らせてくれる。

その物語も今や第六弾の、PART2だ。PART1を読んだ人はそれが500年に渡って虐げられてきた救世群の革命の狼煙だったことを既に知っているだろう。本作はつまり、待ち望んだ革命そのものである。それもちゃちな革命ではない。地面に張り付いて、銃声が響くようなありふれた戦争ではない。想像力を使って綿密に構築された宇宙空間上の戦争だ。それも小勢力の小競り合いなどではなく(地球と月の戦い、のような)、全人類への宣戦布告という破滅的なスケールでの戦争なのだ。

戦争を宇宙に持ちだした時に、何が問題になってどういう解決法があるのかっていう細部の詰め方が凄くて感動して泣ける。たとえば戦場が地上から宇宙へうつって問題になるのは敵の探し方だ。探知が必要な距離は地上であればせいぜい1千キロのところが、1万キロ、10万キロに跳ね上がる。『レーダーの反射信号は対象までの距離の四乗に反比例して弱まるので、原理的に、一万キロ用のレーダーは百キロレーダーの百万倍のパワーを必要とする。』燃える。産まれてきたことに感謝するレベルで面白い。

宇宙は広く勢力はバラバラになっているが、宇宙のどこにも僕らが一冊ないしかけて読んできた主人公たちが、もしくはその子孫たちがいる。そして未来も。本書で書かれている2500年の時代から300年先の未来も知っているが、そこに至るまでの過程はわからない。

『どんな星も結局みんなブラックホールになる』、しかし本当に重要なのはその過程。一巻で明かされた2800年に向かって、欠けていたピースが今、次々とハマりつつある。そしてこの革命、戦争だ! 宇宙世紀を書くというアイデア、そして各陣営に焦点を当てて一作ごとにまったく別々の時代、人々を書く本作を追いながら、実はずっとこれを待っていたのだ。

様々な人種が入り乱れて、500年にも渡る「歴史」を断片的にとは言え、細部まで含めて書いてきたこの物語が、真に面白くなるのは戦争なのだ。

なぜか? 僕たちは今このシリーズをここまで追いかけてきて、ラヴァーズたちの思惑、救世群の救われなさ、アンチオックスの未開拓な地を求める精神性、そして作中のほとんどが気付いていないその起原の物語、人間が気付いていない「被展開体たち」のそれぞれの思惑を、全て知っている。これらはばらばらに展開していただけだったが、太陽系全てを巻き込んだ戦争が起こることですべてが「関係者」になるのだ。

誰に感情移入すればいいのかわからない。あっちにもこっちにも思い入れのある子孫かもしくはその人がいるのだ。そして、未来にも。かつてありとあらゆる宇宙戦争ものが書かれてきた。しかしこのような形で多面的に、先行のSF史を踏まえた上、それらがごちゃまぜにした形で歴史に放り込まれた一大SF史実は存在しなかった。何千年もの歴史を細部までディティールを詰めていくこの根気はすごすぎる。

凄く面白いシリーズを小川一水は書いていると思っていたが、とんでもない思い違いだった。凄く面白いどころじゃない、かつて比肩するものがないぐらい面白い作品を書いている。小川一水は誰も想像したことのない世界へ走り出してしまった。もう絶叫すればいいのか、驚けばいいのか、呆れるべきなのかもわからない。*1

全人類への宣戦布告、何千艦といった規模での艦隊戦、宇宙要塞がある時代の戦闘方法、陰ながら支援し、人間の技術レベルを引き上げる異性知識体、500年にも渡る怨念、そして未曾有の危機に出現する、ずっとむかしから存在した謎の超兵器・ドロテア・ワットの存在──。ただのキーワードが、どれひとつとっても胸が騒ぎ出すのが本シリーズの凄さだが今巻のそれは異常だ。

ワンピースぐらい売れればいい。
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天冥の標6 宿怨 PART 2 (ハヤカワ文庫JA)

天冥の標6 宿怨 PART 2 (ハヤカワ文庫JA)

*1:本文をネタバレにならないよう改変しています