基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

1Q84と牛河

1Q84〈BOOK3〉10月‐12月〈前編〉 (新潮文庫)

1Q84〈BOOK3〉10月‐12月〈前編〉 (新潮文庫)

1Q84〈BOOK3〉10月‐12月〈後編〉 (新潮文庫)

1Q84〈BOOK3〉10月‐12月〈後編〉 (新潮文庫)

特に理由なく村上春樹さんの長篇作品を全部読み返していたんだけど、一番好きな作品は1Q84だなあと思った。一番長い作品ということもあるが、要素が複合的にからみあって、強い違和感を感じさせない。作中で起こる不可思議な出来事、象徴的な出来事もどれも魅力的ですぐに惹きつけられる。何しろファースト・シーンが渋滞した高速道路の非常用階段をタクシーの運転手にそそのかされて降りるシーンからはじまるのだ。『見かけにだまされないように。現実というのはつねにひとつきりです。』

そして、降りていくのは社会の為に敵となる存在を消す凄腕の女暗殺者であるというあまりにも漫画的な展開。彼女が狙うのは幼い女性への様々な虐待を行っている謎の宗教団体、そのボスで──。この女の異常なキャラクター性からすれば、もうひとりの主人公格、単なる数学の塾講師、作家志望だが芽がでない男はキャラが薄いが彼は彼で異常な事態へと巻き込まれていく。

何より僕が好きなのは牛河というキャラクタで、教団から仕事を請け負う個人調査員といった役割ながら第三部にいたってはついに視点として語られるようになる。ずっと青豆、天吾のサイドからしか語られてこなかった物語が、一転二人をなんとかして追い詰めなければ自分がマズイことになる牛河の視点が追加されるのだ。青豆、天吾からすればこの男は脅威で、驚異的な粘り強さと勘の良さで二人のつながりを突き止め、彼が探し求める青豆の居場所のすぐちかくにまで肉薄してみせる。

この男の何よりもリアリスティックな視点が僕は好きだ。起こったことを起こったことと認め、物事をそこから逆算して考える。たとえそこで起こったことがあまりにもありえないことだったとしても。有能なのに見た目が醜いばかりに、多くの人間にうとまれ、信用されず、何らかのコミュニティの一員として迎え入れられることはない。また彼の性向自体も一匹狼のそれであり、群れになじまない。生まれながらにしてろくでもない人生が約束されているような男。それでもことさらに悲嘆するわけでもなく、ひたすらに自分の役割、仕事を丁寧に丁寧に遂行してみせる。

敵としての牛河の魅力は何よりもその「ふつうさ」にあるのだと思う。超常現象が跋扈するこの世界において、彼はあくまでも人間が人間らしく仕事を遂行しているようにみえる。教団の首領、青豆に仕事を依頼する金持ちの女性、金持ちの女性のボディガードにして殺しから脅しまでなんでもやる男、異常なキャラクタがいくらでもいるなか、彼は醜くも有能なただの男だ。それでも執念深く青豆に肉薄し、彼は「ふつう」の領域から天吾と青豆、二人の「主人公」が共有している秘密──二つの月を発見するにいたってみせる。「世界を切り替えて」みせたわけだ。ただの手際の良さと執念によって。

 やがて、牛河は息を呑んだ。そのまましばらく呼吸することさえ忘れてしまった。雲が切れたとき、そのいつもの月から離れたところに、もうひとつの月が浮かんでいることに気づいたからだ。それは昔ながらの月よりはずっと小さく、苔が生えたような緑色で、かたちはいびつだった。でも間違いなく月だ。そんな大きな星はどこにも存在しない。人工衛星でもない。それはひとつの場所にじっと留まっている。
 牛河はいったん目を閉じ、数秒間を置いて再び目を開けた。何かの錯覚に違いない。そんなものがそこにあるわけがないのだ。しかし何度目を閉じてまた目を開いても、新しい小振りな月はやはりそこに浮かんでいた。雲がやってくるとその背後に隠されたが、通り過ぎるとまた同じ場所に現れた。
 これが天吾が眺めていたものなのだ、と牛河は思った。

牛河が月が二つあることを認め、自分がいた世界が決定的に変質してしまったことに気がつくこの一瞬がこの作品を通して二番目に好きだ。なぜかはわからない、しかし世界は変わってしまっている。月が二つある世界は自分が今までいた世界ではありえないのだと。その衝撃は並大抵のものではないが、その一瞬の認識の切り替わりのタイミング、驚きを見事に表現しているように思う。牛河は到底主人公になりえない男でありながらも、主人公らが共有している秘密に有能さでもって踏み込んだのだ。

 牛河は自分をリアリスティックな人間だと見なしていた、そして実際に彼はリアリスティックな人間だった。形而上的な思弁は彼の求めるところではない。もしそこに実際に何かが存在しているのなら、理屈がとおっていてもいなくても、論理が通用してもしなくても、それをひとまず現実として受け入れていくしかない。それが彼の基本的な考え方だ。原則や論理があって現実が生まれるのではなく、まず現実があり、あとからそれに合わせて原則や論理が生まれるのだ。だから空に二つの月が並んで浮かんでいることを、とりあえず事実としてそのまま受け入れるしかあるまいと牛河は心を決めた。
 あとのことはあとになってゆっくり考えればいい。余計な思いは抱かないように努めながら、牛川はただ無心にその二つの月を眺め、観察した。大きな黄色い月と、小さな緑のいびつな月。彼はその光景に自分を馴染ませようとした。こいつをそのまま受け入れるんだ、と彼は自分に言い聞かせた。なぜこんなことが起こり得るのか、説明はつかない。しかし今のところそれは深く追求するべき問題じゃない。この状況にどうやって対応していくか、あくまでそいつが問題なのだ。それにはまずこの光景を丸ごと理屈抜きで受け入れるしかない。話はそこから始まる。

異常な世界であることをじっくりと受け入れていく。自分の頭がおかしくなったのかもしれないし、逆にそれは本当にそこにあるのかもしれない。本当にそこにあるとしたら、それはあるものとして扱われなければならない、たとえそれがどれだけありえなさそうに思えるものだったとしても。じわじわとしみこんでいくようなこの現実感覚の変容はとてもSF的だと思うわけである。

これは「二番目に」好きなシーンだといったが、一番好きなのはこの牛河が青豆のボディガードにその存在を認識され、あっけなく拷問され情報を明け渡しさくっと殺されてしまうところだ。ふとした瞬間に意識をおとされ、そのまま手足をしばられ、拷問を受け、ビニール袋を頭にかぶせられてそのまま秘密を葬り去るために窒息死させられる。無残にも、苦しみながら、飼っていた犬のことを思い出しながらただ死ぬ。

自分でもこのシーンがなんで好きなのかはよくわからないが、1Q84を読み返すときに(それは大抵眠れない夜だったりするが)必ずこのシーンは読み返す。有能な男であっても、完璧ではない。痕跡は残すし、彼の他に有能な人間もいる。微妙なボタンの掛け違いが重なって、呆気無くゴミのように死んでいくのだと。「なぜ、おれが」という一瞬の驚き。人間、死ぬときはそんなもんだよなと思う。思いもがけない存在に遭遇し、わけもわからず情報をはかされ、苦しみながら死んでいく。

意識がぷっつんと途切れて、牛河が自分でも理解できないまま自分になつかなかった犬のことを思いだして死んでいくシーンを読むと、なんとなく「さあ、寝ようかな」というようなノリで、「さあ、生きようかな」と思うのだ。

「悼んでやったほうがいい。それなりに有能な男だった」
「でも十分にではなかった。そういうことですね?」
「永遠に生きられるほど有能な人間はどこにもいない」
「あなたはそう考える」と相手は言った。
「もちろん」とタマルは言った。「俺はそう考える。あんたはそう考えないのか?」

ニコニコ動画に連載動画の第一話をアップロードしました

↑これです。というだけの話で終わりではあるのですけど……。

「VOICEROIDを使って現代SF入門をやったら(僕以外には誰もやらないだろうし)面白いのでは」と思いつくのは10秒ぐらいでも実行するのはえらい大変で。そもそもは居酒屋で高校時代の友人に「俺はSFマガジンで書くことになったんだぞ」とちょっと得意気にいったら「SFってスターウォーズみたいな? そういやスターウォーズ新しいのやるよね」と2秒もしないうちにスターウォーズの話題にうつられたことに怒りを感じ、こいつらはどうせ本なんか読まないでニコニコ動画ばっかり見てるんだろぉ?? と偏見に偏見をかぶせかけるようにしてだったらニコニコ動画でSF入門をやろうと思ったのがきっかけでしたね。

クォリティ自体は低い。今のところ月1更新の全12回ぐらいは最低でもやろうかな、そしてとりあえず12回までいったところで第一回の再生数が1000を超えていたらいいなぐらいの目標値でやっていたり。だいたい発端こそ「ニコニコ動画しかみないような人間(書評ブログなんか絶対読まない層)に現代SFとは何かを教えよう」というものでこそあれ、実際にはこういう体裁とクィリティだと観られないであろうことはわかっている。いわんやこのブログや自分のTwitterで告知したところでSFファンばかりだ。

なんというか、影響値的な意味であったり、費用対効果(そんなものがあると仮定して、だけど)的にはこの動画をつくる時間でブログなり何なりを書いていたほうがずっといいんだろうけれど、動画をつくるっていうのはやったことがないからけっこう面白い経験ですよ。VOICEROIDを使ってみたり、動画編集をやってみてそれがものすごく大変だと気がついたり。たいへん苦労するかわりに、自分に今のところ何ができなくて、少なくとも何はできるのかというのが明確になって、模索状態の中でやった次はもっと明確に「できないこと」を狙い撃ちにして「できること」に変えていく楽しみも生まれるし。

KindleDirectPublishingができるようになった時に自分で電子書籍つくったのも、あれはあれで凄くクォリティは低かったしずいぶんできることは限られていて、でもそれが楽しかったな。「次はもっとこうしよう」っていうのが生まれてくるのがいいんだよね。それはぼんやりと「こんなことしたいなあ」と思い浮かべているとあやふやなままだけど一回やってみると「つぎはこんなことしたいなあ」が具体的なレベルにまで落とし込まれてきて。

だからとりあえず今回は動画をつくって、しばらくつくってみるつもりだけど、この後もう一回電子書籍をつくって、その後はイラストレビューなり(イラストのレビューでなくイラストでレビューする)、音楽レビュー(音楽をレビューするのでなく音楽でレビューする。なんだそれ)とかいろいろやってみたいなと思って。「本をいろんな人間に読んでもらいたい」という動機よりかは、レビューなら僕はぽんぽん出てくるからそれにあわせて「あれもこれも」と出力形式を変えて楽しんでいるのが近いかもしれない。

僕はどうせレビューをやるんだったらそのレビューそれ単体でもおもしろいものがいいなあと思う。物語形式にしてもいいかもしれないし、本筋に何の関係もないギャグが挟まれまくってたり、個人的な人生が合間合間に入っていてもいいかもしれない。レビューの形式はイラストでも音楽でも文章でも動画でも音声でも踊りでもいいし、扱う対象もフィクションとやノンフィクションやマンガやアニメや人間の人生といったものに境界線をもうけずに越境していきたいものだなと思う。

適切なおすすめのやり方

自分がすごくすごーく大好きな作品があったとして、そのおすすめのやり方っていうのはけっこう難しい物がある。

そのむずかしさにもいろいろな手段と方法と目的があってそれぞれに難しさがあるものだが、まあ一つおすすめの方法は(方法としておすすめってことじゃなくてね)僕がやっているようにブログやらTwitterやらに、それがどのように素敵で、素晴らしく、生活を一変させる可能性があるのかとか、そういう利点をつらつらと並べ立てて「わぁー素敵ね!」と思ってもらうことだろう。

これのいいところは不特定多数に広く普遍させられる可能性があるところで、同時にそれを読んだ人間も別に自分に個別に訴えかけられているわけではないので「興味があったらまあ」ぐらいの軽いスタイルで受け取ることができる。ただ、熱意をこめてもうまくやらないとなんだか空回りしているようにみえて滑稽だし、だいたいみんな自分に向けられていない文章なんかあんまり真剣に読まないから、不特定多数に向けた文章で人に行動を促すのは大変だ。

もう一つ、今度は逆方向にボールをなげてみると、身近な友人に「きみはこれを楽しむべきだよお」と個別におすすめする方法もあるだろう。ふつうはこっちの方が多いかもしれない。学校や仕事の雑談で、友人同士の会話の中でその人が何を楽しんでいるのかは話題になるものだし、じゃあ君もやってみなさいよという話になったりもする。で、ここからが本題なのだけど、おすすめしている方は既にそれを体験していて、「これはすごい!/すばらしい!」と思っているからこそそれを推しているのだが、おすすめされる側は当然それを体験しておらず、要するに半信半疑な状態でそれを聞いているのだ。あたりまえだけど。

僕が前働いていた場所で、水曜どうでしょうが好きすぎて、仕事が終わって家に帰ったら必ず水曜どうでしょうを流して何かを見る(当然今まで水曜どうでしょうを何周もみている)という人がいて、そのおかげで話し方やツッコミの入れ方、会話のテンポの取り方が完全に大泉洋や番組の藤村Dの生き写しみたいになっていて(いや〜ほんとにやられてるねえ〜〜みたいな)、それもつまらないのならまだしも面白さまで再現している感動的なレベルのファンだったのだ。当然ながら彼は僕に水曜どうでしょうをみなさいよおーといって僕にDVDを押し付けてきて、僕もまあ、そんなに言うなら……と思って義理で見る。

見ると、確かに面白い。確かに面白いのだが、義理で見ているのだ。次会ったら感想を聞かれるだろうからと、面白いながらも休日に嫌々見ている。それで、最終的には10分か20分ぐらいみて、話を適当にあわせるようになってしまった。僕は本もたくさん読むし、ブログも書く。それは毎日非常に楽しい体験だ。その「楽しい時間」を、他者の意向で邪魔されているように感じる。ようは、人間基本的には日々を過ごしているわけである。その日々の生活には当然、予定があってその人特有のリズムがある。お気に入りのテレビ番組があるかもしれないし、ゲームをするのかもしれない。人と会うのかもしれない。「誰かに何かをおすすめするというおことは、そうした普段だったら何かをしていたスケジュールを強制的に変更させることになりえる」

ようは、おすすめをするのならば長い目でみてほしい、というだけのことだけど。その人にはその人の基本的なスケジュールと予定というものがあって、興味範囲の移り変わりというものもあって、いま・そのときに自分がどれだけハマっているものだったとしても、相手がそれを受け入れられる態勢が整っているとは限らない。早く体験してくれとせかしたり、何度も何度もおすすめするしてしまうと、逆に嫌気がさしたりといったことがあるだろう。一度おすすめですよとぽんとボールを相手になげて、それだけでも相手の中ではけっこうじわじわと残るものだ。もちろん最初からおすすめあいをしましょうとか、お互いの好みを把握していて気楽に・おすすめすることそれ自体が日常に組み込まれている場合は問題ないだろうといろんなパターンも存在しているのだけど。

僕も誰かにおすすめするときは(ブログの記事もすべてはそうだ)、「人生のうちのどこかで体験してくれればいい」とすごく長い目で考えている。今日・明日の話ではなく、2年とか10年とか、ある時ふっと受容されるべきタイミングというものがくるものだ。ふっと時間が空いたり、なんとなく趣味の変わり目であったり、たまにはいつもはやらない、たとえば本を読んでみようかなと思うときだったり。意外とそういう時に、過去におすすめされたものがふっと頭のなかに想起されるものだ。

実を言うと僕は今水曜どうでしょうにドはまりしていて、かたっぱしからみているところなのだけど、あの超水曜どうでしょうファンのおすすめから既に3年ほどが経過している。それもふっと思い出したというよりかは、ニコニコ動画に水曜どうでしょうの無料の1話目が上がっていて、そういえばあのおっさんは猛烈に水曜どうでしょうをおすすめしてたなあ……懐かしいなあ……と思ってクリックして見始めたら、そこからドはまりしてしまった。面白くて面白くて仕方がない。今度は僕のしゃべり方と文体が藤村Dや大泉洋さんの影響を受け始めているぐらいだ。

まあ、そういうわけだから、水曜どうでしょう、超おもしろいよ(水曜どうでしょうの話だったのか)。

水曜どうでしょうDVD全集 第1弾 原付ベトナム縦断1800キロ

水曜どうでしょうDVD全集 第1弾 原付ベトナム縦断1800キロ

『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』をダシにして文明再興SFを語る

この世界が消えたあとの 科学文明のつくりかた

この世界が消えたあとの 科学文明のつくりかた

先週末HONZに文明が一旦崩壊したあと、いかにして文明をリスタートさせるのかをテーマにして書かれた『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』の記事を書いたらこれがけっこう読まれていたみたいだ。honz.jp
アクセス数とかはわからないけど※この記事を書いた後でアクセス数を見れるようにしてもらえました。 なんかブックマークコメントやTwitterの言及がいっぱいついていた(Twitterの方はみてないけど)。やれ異世界転生物で使えそうだとか、SFでこんなものがあるとか。僕もこの記事を書きながら自分のブログだったらSFへの言及がマシマシになって収拾がつかなくなっていただろうと思ったので、ただHONZに書いた記事を自ブログに転載してもつまらないし「こんな文明再興SFもあるよ」とか「こんな文明再興SFがあった(読んでない)けど面白そうだ」とかそういう話をしようと思う。

ひと言で「文明再興SF」といってもそこには幾つかの種類がある。たとえば文明崩壊後の世界の人々がいかにして生き抜くかを描いた作品は『ザ・ロード』やら『ブラックライダー』やらいろいろある。特に英語圏では最近世界崩壊後作品が大ブームで洋書SFを調べていると「また文明崩壊系かよ」と辟易してしまうぐらいだ。そういうのは「再興」してないから一応除外。また『まおゆう魔王勇者』のように地球とは成り立ちの違う異世界に、現代の科学的知識を導入し文明を一足飛びに進化させる傾向の異世界ファンタジー系列もあるが、現代文明が一旦崩壊したわけではないのでこれもまあナシとしよう。そこを入れはじめたらキリがなくなってしまいそうだ。

じゃあ、反対に文明再興SFに含まれる条件は──と細かく決めていくつもりもない。適当に思いついたものをあげていこう。というように、僕は別段この分野の専門家でもなんでもないので、「こんなのもあるぞ」とか「これも知らないのかよ」みたいなのがあったら好きな手段で伝えてくれると嬉しい。「異世界転生物はとりあげないといったけどこれは傑作だぞ!」とかあったらそれもヨロシク。

怨讐星域

怨讐星域? ノアズ・アーク (ハヤカワ文庫JA)

怨讐星域? ノアズ・アーク (ハヤカワ文庫JA)

何から始めようかなあと思ったけど、一番最近読んだ梶尾真治さんの『怨讐星域』全三巻からはじめよう。SFマガジンで8年以上もの長きにわたって連載された作品で、さすがにそんなに長い間連載していたらテーマなり思想なりがズレて作品としてブレブレになっているんじゃないのと心配になる。心配になるが、実際はベテランの貫禄をみせつけられるように、最初に設定された芯が図太く、まったくブレることなく最後まで走りきってみせた。結末には賛否ありそうだが、1巻2巻3巻どのエピソードも楽しませてくれる。
怨讐星域? ニューエデン (ハヤカワ文庫JA)

怨讐星域? ニューエデン (ハヤカワ文庫JA)

どこが文明再興なのか? 太陽フレアの膨張で「地球ヤバイ」状態になっている状況から物語が始まる。で、一部の選ばれし人々3万人は世代間宇宙船ノアズ・アークに乗って遠くはなれた別の惑星へ飛び立っていく。一方地球に残された人々は「あいつら、自分らを捨てやがった! 最悪だ!」と失望に沈むのだが、なんと星間転移技術が発明されてノアズ・アークが何世代もかけて辿り着く予定だった惑星に「先に」到着してしまう。ただしそこは当然文明も何もない、知識だけがある未開の地だ。たまたま生き延びた「残された人類」は、自分たちを一体化させる手段としてノアズ・アーク号に乗った人間達への「復讐」を宗教のように揺るぎなく灯して、いつかくる裏切り者共への悪意を胸に文明を再興させることになる。
怨讐星域? 約束の地 (ハヤカワ文庫 JA カ 2-16)

怨讐星域? 約束の地 (ハヤカワ文庫 JA カ 2-16)

めちゃくちゃワクワクさせる設定ではなかろうか? 何も知らずに世代間宇宙船で様々な問題に追い立てられる人々と、未開の地での再生を交互に描いていく本作はエピソードの一つ一つが珠玉の短編であると同時に血のつながりが如実に感じられる異なる進路を辿った「人類の物語」になっている。……まあ、文明再興の部分はあまり書き込まれずに、割合さらっとしているんだけど。でも面白いですよ。

天冥の標

天冥の標〈1〉―メニー・メニー・シープ〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

天冥の標〈1〉―メニー・メニー・シープ〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

全10部での完結を目指して今まさに走っている最中であるシリーズ物で、そのうちの一作がこの記事のテーマである「文明再興」にあたる作品。もし諸君らがこの記事を読んでどれか一つだけ、別に何冊あったっていい、心の底から面白い本に出会えるのであればと信じる人間であるのならば、この作品を読んでもらいたい。ここにはSFの楽しみが、小説の面白さの極みが全て詰め込まれている。
天冥の標〈1〉―メニー・メニー・シープ〈下〉 (ハヤカワ文庫JA)

天冥の標〈1〉―メニー・メニー・シープ〈下〉 (ハヤカワ文庫JA)

パンデミックSF、スペースオペラ、エロ、超高度AIじみたロボット、人類以外の知的生命体まで物語に加わって極力物理描写に則って描かれていくこの世界はもはや単なる人類の物語ではなく、広い広い宇宙それ自体を主人公とした一大宇宙年代記じみた圧倒的なスケールを獲得していく。そのうちの一節で、人類は「残存人類──○○○○人」と具体的な数が数えられるほど追い込まれることになる。本作が文明再興物としても飛び抜けて凄まじいのは、文明が破壊され人類がその数を減らす様を徹底的に描写し続けてきたことだろう。銀河に広がってきた人類を丁寧に積み上げて描くこと。ぐつぐつとよく味がしみこむように煮込んできたご自慢の世界に対して、ぶちまけてなおかつ火をつけてみせた。

冷酷なドSにしかそんな所行はできない……と読んでいて呆然としたものだ。本シリーズはしかし、当然ながらそこから人類を立ち直らせるにはどうしたらいいのか、どのような問題が立ち上がるのか、資源のリサイクルの問題、欠けた知識は何なのか、復興のスピードはどれぐらいなのか……一つ一つをこれまで世界を積み上げてきたのと同じぐらい丁寧に描写してみせる。圧巻といっていいが、何分長いので、覚悟のある人に挑戦してもらいたいものだ。ちなみにシリーズ全体のレビューは下記参照。huyukiitoichi.hatenadiary.jp

復活の地

復活の地 1 (ハヤカワ文庫 JA)

復活の地 1 (ハヤカワ文庫 JA)

『復活の地』は全三巻の文明再興物語──ではなく、ドでかい災害にあった国を立て直していく国家再生物語なのでこの記事の趣向からはズレるのだが、小川一水さんの『天冥の標』を紹介したので近接作品としてついでに。幾つもの惑星に国家群が散らばっている状況で、都は壊滅するし政府は瓦解するし周囲の惑星からつけこまれそうになるし、そういう状況をなんとかしようと皇族と官僚が死ぬ気でがんばるぞ!! っていう、設定の派手さとは裏腹にやっていることはとてつもなく地道さを必要とする作業だ。しかし、復興とはそういうものではないだろうか、とも思う。

スタークエイク

スタークエイク (ハヤカワ文庫 SF (713))

スタークエイク (ハヤカワ文庫 SF (713))

ロバート・L・フォワードのハードSF『竜の卵』の続編。『竜の卵』は読んで、滅茶苦茶面白かったんだけどこっちは読んでない。なぜ読んでないのか? たぶん忘れていたんだろう。中性子星の表面で過ごす特殊な知的生命が人類から知識を学んで加速的に成長する、というほとんどそれだけの話をハードに描写したのが『竜の卵』だったけど、こっちはその文明が大規模災害に襲われ、一旦崩壊し、今度はそこからの再興を果たす物語のようだ。0から移動して10に至ったものが(前回の積み上げを無にするようにして)まだ0になるのって続編としては悪手のように思えるけど評判は上々。

悪魔のハンマー

悪魔のハンマー 上 (ハヤカワ文庫 SF 392)

悪魔のハンマー 上 (ハヤカワ文庫 SF 392)

ラリイ・ニーヴン&ジェリイ・パーネルによって書かれた、彗星の地球衝突物。ちなみにこういう古い作品は読んで記憶から引っ張り出してきているのではなく、最近SFマガジンで3号連続で行われたハヤカワ文庫SF総解説という海外SF2000番を全網羅した解説記事をあらって目についたものをピックアップしているのだ。あとHONZ記事についたブックマークも参考にしてます。はい。悪魔のハンマーが彗星のことなのだとしたら単なるディザスターストーリーなんじゃないの、と思うところだけど「実際にぶつかった後」、の食料不足や巻き起こった塵による気候変動など様々な問題に対処していく物語のようで、再興とはまた違うのかもしれないけれどサバイバル的で面白そう。内容はここを参考にさせてもらいました。⇨悪魔のハンマー: Manuke Station : SF Review

宇宙のサバイバル戦争

宇宙のサバイバル戦争 [SF名作コレクション(第1期)] (SF名作コレクション (6))

宇宙のサバイバル戦争 [SF名作コレクション(第1期)] (SF名作コレクション (6))

著:トムゴドウィン、これはブクマコメントを見て知ったもの。全く知らなんだ。2005年の復刊だが、なんと在庫がある。これはストーリーはなかなかおもしろそう。重力が地球の三倍もある(これはAmazonに載っているあらすじからとっているが、別の場所では1.5Gともある。)惑星に取り残された人々が何世代もかけて自分たちをそこに置き去りにした人達への恨みを胸に生き延び、文明復興に勤しむという。最初に書いた『怨讐星域』しかり、『天冥の標』しかり、時を超えて受け継がれていくのは「血」だけでなく「恨み」もあるんだなあとこうして過去の作品を振り返ると思う。

黙示録3174年

黙示録3174年 (創元SF文庫)

黙示録3174年 (創元SF文庫)

これはAmazonのあらすじだけでめちゃくちゃおもしろそうだから一部引用。『最終核戦争の結果、一切の科学知識が失われ、文明は中世以前の段階にまで後退した。だがその時、一人の男が災禍を逃れた数少ない文献の保存につとめるべく修道院を設立した。そして30世紀をすぎる頃、廃墟の中から再建が始まろうとしている。今度の文明こそは、自滅することなく繁栄の道を歩めるだろうか?孤高の記録保管所が見守る遠未来の地球文明史。』あらすじだけ読む限りでは今回のテーマに最も近い作品ではなかろうか。Amazonのレビューも熱が入ったものが多い。ただしこれも1960年付近に出版された作品で随分古い。

ティアリングの女王

ティアリングの女王 (上) (ハヤカワ文庫FT)

ティアリングの女王 (上) (ハヤカワ文庫FT)

ティアリングの女王 (下) (ハヤカワ文庫FT)

ティアリングの女王 (下) (ハヤカワ文庫FT)

随分古い作品ばかり・しかも僕が読んでない本を連続してローテンションで書いてきてしまったので、最近の、ついでにSFからも離れてファンタジーで話を出すと『ティアリングの女王』は実は文明再興SFの側面を持ったファンタジーだったりする。跡継ぎの石を持つ主人公の女性は実は王女で、ずっと安全の為人里離れた森で暮らしていたのだが──。「なんてコテコテのファンタジーだ!!」と読み始めは思うが、実はこの世界「渡り」という事象によって過去にあった人類文明のほとんどが失われてしまっているのだ。

しかし一部の本(指輪物語)や技術は依然存在しており、彼女は王として隣国に搾取され貧困に悩まされる自身の国を牽引していく必要に駆られる時、まず「印刷技術」を普及させようとする──。シリーズ第一弾でまったく完結していないのが残念だが、装いはファンタジックながらも実態としては文明再興SFのような側面を持っている作品なのでついでにご紹介した。

そんな感じ

こうやってみていくと、非常に限定した中であっても文明再興は様々なバリエーションに分かれますね。そもそも文明が破綻されるまでを綿密に書き込むか・書き込まないかがあるし、人類文明か・人類文明以外かの区分もあるし、意外とあっさり文明を復興させてしまうSFもあれば、何百年も復興させられずにぎりぎりの生活を強いられ続ける作品もある。

だらだらと書いてきてしまったが、他にもたくさんあるだろうな。ファウンデーションシリーズとかはここに加えてもいいものだろうか? とか色々考え始めて、検索したらいくつか文明再興っぽい作品がヒットしてしまったが(マイクル・P・キュービー=マクダウエルのアースライズとか)、日本沈没……はともかくとして第二部以後はどうなんだとかいろいろ思い浮かんできたけど疲れたのでここらで切り上げます。なんか面白そうなのがあったらここのコメントでもいいし、Twitterでもいいし、メールでも良いのでご連絡くださいな。

※07/02追記 皆様方コメント感謝。この記事はコメント及びブックマークにて完成しますのでコメントまでご参照あれ。

内的な満足の繰り返しが普遍性を産むか

先日こんな記事を書いた⇒みならいディーバという奇跡 - 基本読書 書き終わった後、ふう疲れたと一旦リラックスしてそれを他人が読んだもののように眺めてみたら、なんかこれはけっこうちゃんとした文章だなあと思った。なかなかこの作品についてこれだけ書ける人間はいないだろうと。作品の良さをよく捉えられているように思うし、何より書いている人が本当にこの作品を楽しんだことが伝わってくる文章だ(自画自賛だが客観モードの時はこんなかんじだ)。気持ちをここまで文章に載せるのもそうそう簡単なことではない。そういう時、素直に自分で自分を褒めてあげたくなる。

こうした深い内的な満足さえ得られれば、反応なんてなくたって構わないというのが僕がブログ(に限定しておこう。たとえば依頼された文章は達成目標が増える)で文章を書く上での基本姿勢だし、依然その姿勢は変わっていない。ただ現実認識の方は変わっていく部分もあったなと思う。ブログというパーソナルな場所で書く以上、反応が得られなくても満足感があれば問題ないのはその通りではあるのだが、内的な満足のハードルをクリアしていく過程が結果的に普遍性を獲得していくことがあるようだ。

内的な満足をクリアする為のハードルって、一回一回高くなっていくものなんだよね。みならいディーバの記事も書き終わった時にまじまじと読み返して満足感に浸ることができたけれども、次は少なくともそこは越えていかないと満足感も得られない。自分という人間が他の人間と好みが著しく異なっているかといえば別にそういうこともないのだから、自分が本当に満足できるものを追求して、ハードルが上がっていく、あるいはより深く掘り進んでいく過程は最終的に内的な領域を越えていくように思う。

カート・ヴォネガットの『国のない男』という本の中にこんな一節がある。

芸術では食っていけない。だが、芸術というのは、多少なりとも生きていくのを楽にしてくれる、いかにも人間らしい手段だ。上手であれ下手であれ、芸術活動に関われば魂が成長する。シャワーを浴びながら歌をうたう。ラジオに合わせて踊る。お話を語る。友人に宛てて詩を書く。どんなに下手でもかまわない。ただ、できる限りよいものをと心がけること。信じられないほどの見返りが期待できる。なにしろ、何かを創造することになるのだから。

どのような理屈でそうなるのかということはわからないがとにかく最初に読んだ時から好きで、事あるごとに思い返していたのだけど、先に書いたような事とも通じているのかなと思った。ずっと理屈もわからず信じていたことをあとづけで理屈を思いついたわけで、どうでもいいような話かもしれないけれども、こういう小さな気付きが日々積み重なっていくのもまた楽しいものだ。

だからなんだという話でもないけれど、たとえそれが非常に内的な満足の繰り返しであったとしてもそれを続けていった先には普遍的な部分に通じることが何事にもあるのかなという話だった、ということにしておこう。

あえて信者になるということ

宗教の話ではあるが、宗教の話ではない。

キリストだなんだのとそういう話ではなく、ある好きなコンテンツ制作者に対しての、態度の話である。小説にしろマンガにしろ、そうした「作品」は大抵の場合決まった値段で売られているが、実際的には「その人しか生み出せない独占的商品」なのであって、買う人がいるのならば一作5万円などの値段にしても、問題はない。ただ実際には「その人にしか書けない、超絶オリジナリティの作品」というのは滅多になく、そういうことはあまりおこっていないようだ。となんか話の枕に適当なことを話してしまったがこの後の話とはあんまり関係がない。

ある作品を我々が面白いと感じるのは、クールに作品を分析していった先にあるかといえば、そうではないことがほとんどだろう。体験した、まさにその時に多幸感や体温の上昇に伴った何らかの興奮、感情の動きを感じ、そのあとに事後的にいまのはいったいなんだったのだろうかという分析がくる。「ぜんぜん楽しめなかった」という人間に、それが楽しかった人間が「なんで!? こことかこことかこことか楽しかったじゃん!?」とその分析を話したとしよう。それを話された側はほとんどの場合、その人が「楽しんだポイント」がわかるだろうし、「自分が楽しむべきだったポイント」もわかるかもしれないが、そうした解説をきいて「面白かった!!」と体験した時の感覚が一転することは、まあまずない。

感動はようするに主観的なものなのだ。その時の、自分の体験が面白さに還元される。僕は普段はなるべくならフラットな感覚で本を読み始めたいと思っている。「これから読む本はおそらくは面白いだろうが、つまらない可能性もある。粗がある可能性があるし、時間がなくて適当に創りあげられた作品の可能性もある」といろいろな可能性を想定して、読んだり観たりする。しかし中には「絶対にこれは神の創りあげた傑作なのであって、仮につまらないと思うことが一瞬あったとしてもそれは自分が間違っているのであり、この聖典から自分は最大限できる限りの魅力を引き出さなければいけないのだ」と思いながら読む作家もいる。

僕にとってのそうした作家とは森博嗣先生と神林長平先生の二人だ。この二人の作家の作品は、だから僕はいかなる意味でも批判しようとは思わないぞ、と思って読む。仮に批判したくなったら、それは自分の読み込みが足りないからだと。こうした読みはいびつな、間違っているかのように思えることだが、しかし小説を読むというその主観的な体験を最大限効率化させるためには、こうした「あえて信者になるということ」が必要なのではないかとも思う。何かを見出そうと積極的に読み込むことによってしか見えてこないものというのもある。もちろん僕だってブログにいろいろと書く以上「あいつはどんな作品でも異常に好意的に読む」と思われたらちょっと嫌だなと思うから、そんな読み方をするのは二人だけだし、この二人の出す作品でつまらないなあと思いつつ無理やり面白味を見出したといったこともない。やはりそれだけスゴイ作家だと思うし、そうした安心感があったからそうした信者読みを始めたのだともいえる。

周りを見渡してみると、こうしたあえて信者になる読み・観方をしている人が、意識しているのか無意識的なのかは問わずとして、幾人もいるように思える。ほとんど信者と化していて、絶対的にそこから正しさを見出そうとする。僕はそれはフィクションを受容する態度として、好ましいものの1つだと思う。結局のところ、テキスト(広義の意味。映像も含む)から、引き出したもん勝ちなのだ。もちろんそうした人たちと、暇つぶしに読んだり、観たりしている人たちの温度差や、読み込もうとする熱意は全く異なるから、対話をしようとしても噛み合わないことになる。相手と自分がどれだけの正しさをかけて読み取ろうとしているのかを意識していないと、コミュニケートがうまくいかないこともあるだろうと思う。

現実の宗教と同じで、自分が信じる分には自由なのだ。信じている宗教で輸血が禁じられているから、たとえ自分が死ぬとしても輸血はしないでくれといって死ぬことも自由だろう。だがそれを他人様の玄関まで押しかけて勧誘するのは個人が行使できる自由を超えている。人は何を信仰するのも自由だ。それを人に押し付けない限りにおいては。僕はある作家を大変楽しく、そこから情報を最大限引き出そうと思って読むが、それは僕の個人的な営みである。

今回の教訓は、たまには信者読みをしてみるのもいいんじゃないかということと、信者読みをしている人としていない人はコミュニケートするときに温度差に気をつけようというあたりか。

だれの息子でもない

だれの息子でもない

文章のスタイルはいったいいつ確立されるものなのだろう

村上春樹の初期エッセイをなんとなく今読み返している(村上春樹堂シリーズ)。村上春樹という作家はデビューが割合遅かったこともあってか、出てきた時点でほとんど文体が完成している作家だった。エッセイの調子も、小説の文体も、もちろんその後の研鑽を続けていく中で幅が広がったりあるいは技術的に洗練されたりといった部分はあれど、「村上春樹の文章」は、当時のエッセイ集や第一作『風の歌を聴け』からして既に確立していたのだ。

で、これは僕が見る限りだいたいどの作家にもいえるものであるように見える。どういうことかといえば、「魅力的な文章を書く人間は最初から魅力的な文章を書いている」ということである。円城塔氏が大学生だったか高校生だったか当時に書かれた文章を読んだことがあるが、すでにして現在と同じスタイルを確立していた。筒井康隆だってデビュー時にすでにスタイルがあった。そうした実例をいくつかみていく中で「ああ、結局のところ、文章ってのは、そのほとんどが才能なのではないだろうか……」と思うようになっていったのである。

もちろん書き続けていく中で小手先の器用さは増していくと思う。技術的な部分と言ってもいい。僕もおそらくは書き始めた時からみれば今はそこそこすらっとした文章になっているはずだが、いかんせん圧倒的に才能がない。文章は大雑把に分ければ「何について書くか」と「それをどう書くか」に分けられるが、前者は視点の問題であり後者はスタイルの問題である。視点を獲得するのは簡単にはいかない。技術的な部分があるかといえば、もちろんそうした面もあるのだろうが、大半はどんな知識を持っているのか、どんな経験を持っているのかによって変化していくだろう。

スタイルはどうだろうか? 作家ごとに文章のスタイルがある。僕もやはり、村上春樹の文章を読めば「村上春樹みたいにこじゃれた感じでふわっとさりげなく、どうも申し訳ございませんねえと自虐感を含ませて比喩をまき散らしながら書きてぇ」と思うし、筒井康隆の文章を読めば「筒井康隆みたいに突然相手に切り込んでいってブルドーザーみたいに地ならしして圧倒していく速度のある文章が書きてぇ」と思うし、円城塔の文章を読めば「円城塔みたいに要所要所でくるっと転調し切っ先を突きつけてくるような直角の文章が書きてぇ」と思う。今さらっと一人一文ぐらいで流してしまったが他にも世の中には天才的なスタイルを持った作家がいて(たとえば町田康とか)とてもとても一文でそのスゴさをあらわすことはできないし、分析もできそうにないのである。

分析できないんだから「うわあ真似したいよう」と思って、コピーしようとしてもぜんぜん似ない。七味を一回ふりかけたぐらいの微妙なエッセンスを含めることぐらいはできたかな? と思うことはあれど、僕の文章が彼らの特性を吸収してふわっとしたりきれっきれな文章として変化していくことはまるでない。もちろんそんな簡単にコピーできたら世の中文章書きなんて仕事が成立するわけないので当たりまえだが、結局絵かきが最初は模倣から入ったとしても最終的にはみな独自の絵柄に枝分かれしていくように、どれだけ頑張って真似しようとしても、どうしたってその人独自のスタイルみたいなものに寄っていってしまうものなのではないだろうか。

そしてそれが必ずしも魅力的なスタイルに帰結するとは限らないのである。僕のような例は、何らかのスタイルの模倣精神や、それに基づいて大量に書いたからといって、ものすげえ魅力的な文章になるのかといえば、そうではないことの一つの実例だと思って見ていただきたい。8年間で累計2000記事以上書いているから、300万文字とか500万文字とかの途方も無い量の文章を書いているはずなのだが、もうこれがぜーんぜん僕が敬愛するような人達の魅力的な文章にならないのだ。

結局のところ文章とはすなわち視点の置き方であり、情報の抽出と取捨選択の勘所であり、バイオリズム的な部分にそって出力されてくるものであり、つまりは生きてきた経験がそのまま表出されてしまうものなのではないだろうか。だからこそ「マシになった」「多少よくはなった」とは研鑽によっていえるようになるだろうが、「劇的に変化し魅力的になった」という変化を文章・文体で起こすのは難しいことなのではなかろうか。そういう人、見たことありますか? 長年の作家生活の中でクソみたいだった文章がものすげえ魅力的な文章に変化していくような人? 

しかし文章のスタイル的な部分がそれまでの人生によって構築されていくのだとしたら、その人の文章が根本的に構築されるのはいったいどの場面なんだろうか? 村上春樹の書く文章は小学生のときからあんなだったのか? 円城塔の文体も? 少なくとも村上春樹が小学生のときに書いたといわれている文章「青いぶどう(だったかな?)」には、小学生の時点で村上春樹スタイルが確立していた。きっと物凄く嫌な子どもだったに違いない。これはまあ一握りの天才の話で一般化は困難であるが、一つの教訓ではあろう。

僕は僕の文章が天才的に魅力のある文章になることは既に諦めてしまっているが、まあ書き続けていれば、自分なりのスタイルには結局のところ落ち着くところには落ち着くものだろうからそれでいいじゃないかと思うようになってきている。物凄く魅力的なわけではないが、たいしてうまくない文章にはたいしてうまくない文章なりの、下町の味的な、なんかそういうしょぼいまとまりみたいなものが感じられるであろう。そういうものはしょぼいけどしょぼいなりにそれまでの歴史を感じさせる、そこはかとない面白さが生まれるものではないだろうか。

村上朝日堂 (新潮文庫)

村上朝日堂 (新潮文庫)

読書会の形式についていろいろ考えてみる

むかし読書会についてはこんな記事を書いたことがある⇒読書会について - 基本読書いろんな形式で読書会をやってきての雑感で、ざっくりとした要約としては「長編一冊を複数人、あまり仲良くもない人間でもたせようとすると間がもたない。」っていう大きな問題がひとつあり、その解決策として有効だと思ったのは、「スゴ本オフ形式(たとえば音楽、のようにてテーマを決めてそれについて各自がオススメ本を持ってきてプレゼンする)」「ビブリオバトル形式(スゴ本オフにゲーム性をもたせたかんじ。実際はいろいろちがうけど)」「(アンソロジーだとなおよし)短篇集で語り合う短編形式」の3つだってところ。

ちなみにノンフィクション系の読書会であるとか、難解な本を全員でディスカッションしながら読み進めていく勉強会系読書会などいろいろあるがひとまずここでは小説系の読書会についてのお話。スゴ本オフ形式もビブリオバトル形式もどちらも面白いが、参加者同士がその場で深く語り合っていくという感じにはならないのではなかろうか。短編形式は一つ一つの短編についてわりあい時間をとってあーでもないこーでもないと参加者が語ることができるけど、ただ人数にあっという間に限界がきてしまう。昨日やった読書会でも6人で16編もやろうとしたらさすがに時間が足りなかった⇒読書会『さよならの儀式 (年刊日本SF傑作選) (創元SF文庫)』の開催報告書 - 基本読書 

もちろん大人数になってもチームを分ければいくらでもできるけど、せっかく集まったのにチームが分かれるんじゃあんまりおもしろくないと思う。チーム替えなどが行われても結局折角集まった人間が分割されている状況に変わりはないし、何よりそういう分割させてやる形式の読書会は20回ぐらい試した経験があって、あまり楽しくなかった。こっちは盛り上がっていないのにあっちは盛り上がっている……とか嫌だしね。読書会では体験したことがなくても合コンで似たような思いを経験した人も多いのではないか。

他にどんな形式がありえるのか

というわけでここ数年は忙しかったこともあり、短篇集メインの読書会形式でやっていたのだが、できれば他にもいろんな形式でやってみたいとは思う。やりづらいといっても長編を語り合いたい場合だってあるし。こっちはしかし主催者側の難易度があがるんだよね。ようは論点をあらかじめ幾つか用意して、ディスカッションのような形で話が進まないとあっという間に終わってしまうから。開始十分でみな自分の感想を語ってしまって「わたしはこう思いました」「うん……そうですね。」「そうですね。」「そうですね……」 「……ほかは……もうないですね……」となって無理矢理話題をひねりだすような読書会を僕は何度も経験しているので、もうやりたくない。

一冊の長編だと厳しいが、シリーズ物だともっとやりやすいだろうと思う。まだ完結していないシリーズであれば「これから先どうなるのか予想」とか「好きなキャラクタ、嫌いなキャラクタ談義」とか「一番好きな巻はどれか」とか話の広がりがある。実はこれを『天冥の標シリーズ』でやろうと思って、記憶があやふやな人向けの単巻オチまで書いた全あらすじとか、議論になりそうなお題のリストとか、作中のあやふやな部分のまとめの資料とか作ったんだけど、募集までかけたものの途中でやっぱり面倒くさくなってひっこめてしまった。でもたぶん開催したら面白かったと思うな。準備は大変だけど。

他には作家縛りだったら間が持つだろうなと思う。問題は人が集められるかどうかってところか。でも集まるかどうかはとりあえずおいておこう。好きな作家、それも多作な作家であればあるほどいくらでも話すことは湧いてくるものだ。好きな作品を語り合ってもいいし、嫌いな作品を語り合ってもいい。筒井康隆語りとか超したいし。

海外ではどうやっているのか

しかし本当に長編でやるのは難しいんだろうか? アメリカやイギリスではどうも読書会はずっとポピュラーな存在のようで、いたるところで読書会が行われている。何しろ読書会系のサイトだけでもものすごい数がある⇒BookMovement | Tour BookMovement はいろいろ見た中ではもっとも使いやすいウェブサイトで、他の物はこっちを参照⇒Book discussion club - Wikipedia, the free encyclopedia 。で、これらはどうもあまり凝ったことはしない。難しく形式を考えたりもせずに、ざっくりとやる一冊をテーマに決めることが多いように思う(もちろん探せば凝った形式などいくらでも見つかるだろうが、全体の傾向としての話)。

こんな話だったり⇒さよならまでの読書会: 本を愛した母が遺した「最後の言葉」 by ウィル・シュワルビ - 基本読書、小説・映画だがジェイン・オースティンの読書会のような雰囲気が一般的なのだろう。ようは「テーマ本と主催者がいて、そこに都度都度参加者が集まってくる」ではなく、「4〜6名ぐらいのBook Clubがまず結成され」、「その4〜6名ぐらいのClubが定期的に集まる日を決めて、友好関係を深めながら、だらだらと本の話を肴にコーヒーでも飲む」みたいな感じ。気心の知れた間柄なので毎度毎度「いま何読んでいるの? そういえばこの前オススメしたアレ、読んでくれた?」と話し始めて読んでたらその話を始めたりといった感じでだらだら進んでいく。

もとより議論というか、自分たちの意見をガシガシ言うお国柄だからこそ成立する関係性かもしれないが先に読書会グループをつくりあげてメンバーを固定させてしまうような、こういう形式も、ありだなあと思う。何より誰も彼も負担が少ない。少なくとも一回はこういうBook Clubをつくってやってみたいが、いかんせん僕にはそんなことができそうな知り合いがまるでいないのが残念なところか。

音楽は「ライブの時代だ」といわれる(コピーされて音楽自体では金儲けができないから)。本もまるきり同じとまではいわないけれど、ライブ性への欲求は高まっていると思うので、ある意味本のライブである読書会についてもこれから先いろいろ検討してみたいところだ。

文体について

自分の中でひとつの文体が固まってきた感覚がある。

七年もblog書いて、書いた総文字量が四百万文字を越えようかというのだから、いまさらな話ではある。つい最近までひとつの記事の中でですますとだ、であるが混ざっているぐらいだったから、月日も書いた分量も対して問題にはならぬのかもしれないが。と前置きはこれぐらいにして今日は文体の話。しかし文体を語るのは、いつも思うのだが難しい。

文体を語る文章それ自体が文体の中に含まれており、「これこれこういうものだよ」と相手に提示しにくい。それは文字の並びであり、そこから生み出される感覚はパラメータ的に評価できるものではない。もちろん小説における文体と、こうしたくだけた文章における文体と、お固い学術書のようなものを書くときでの文体は異なってくるから一概にいえるものでもない。

文体ができてきたといいながらもどうも僕の文章はかもしれぬ、とか気もするとか、一概にいえるものでもない、とか、あやふやな印象をあたえる言葉で塗り固められている。このへんもっと断定的にして、すっと通るような文章にできればいいのだが、そのあたりには、あまり興味がわかない。

自己確認の為の文章がまず第一目的にきているからであり、文章を売るようになればまたそちら方面への興味が湧き、異なった文体になっていくだろうと思われる。つまりこの文体はblog専用、それも特にPVを意識することのない、書き散らし専用のものだといえよう。とまあ、ここからは小説についての文体の話に話題を絞っていく。

小説における文体

小説を書くにしても、作品ごとに文体というのは変わるものだ。一人称小説であれば、主人公が変わったのに文体が変わらなかったらおかしい、と僕は思う。文体とはある意味世界の見方である。たとえばなんの変哲もない小学生の一人称が難しい漢字を使いまくった昭和の文豪みたいなスタイルだったら違和感があるだろう。そんな感じ。もちろん文体が変わらない(変えられない?)作家も幾人もいることだろうが、それが良い作用を生んでいることはあまりないと思う。

ただ漫画家毎に絵柄があるように、作家の文体にも人それぞれの得意不得意というものがあり、その強みを見つけ、その方面での能力を強化していくことのできた物書きはみな強いと思う。

強烈な個性を持った文体の作家たちは、それだけで好きになってしまう。村上春樹はいうに及ばず、夢枕獏に町田康に筒井康隆、北方謙三に円城塔にサリンジャーに──きりがないからやめよう。逆に森博嗣とかは、僕は大好きな作家だが文体の個性としてはだいぶおとなしめだと思う。スカイ・クロラで一瞬で行を切り替えていく演出などは独特だが、あれは文体ではなく演出技法だという認識になる。

好きな文体の中では──たとえば筒井康隆の文体は乾いており、現状を正確に捉えつつも、どこかしら常にユーモアを含んでいる。ドタバタと特殊な状況下であたふたする人間を書く場面になると、その乾いた描写は異常な状況をより引き立てることになる。北方謙三の文章は岩を削っていくような硬質な文章だが、そこには同時に成熟した男の色気をにじませてくる(それは三国志のような歴史物でも同じだ)。

中でも町田康ときたら、これはもう説明不可能。その最高傑作である『告白』の冒頭をみよ。

 安政四年、河内国石川郡赤阪村字水分の百姓城戸平次の長男として出生した熊太郎は気弱で鈍くさい子供であったが長ずるにつれて手のつけられぬ乱暴者となり、明治二十三年、三十歳を過ぎる頃には、飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な無頼者と成り果てていた。
 父母の寵愛を一心に享けて育ちながらなんでそんなことになってしまったのか。
 あかんではないか。

あかんではないか、でぞわぞわっとくる。まず最初の文章がほぼ漢字だけではじまるところでなんじゃこりは、なにやら難しい話が始まったのかなと思う。そのすぐ後に、気弱で鈍くさいとか手の付けられぬ乱暴者とか、やたらと小気味いい文章が続く。そして一息ついたかと思ったら、「作者が世界にツッコミを入れてくる」。

なんだ、それ。滅茶苦茶だ。「作者がツッコミを入れたら、あかんではないか!!」と思わずツッコミを入れたくなってしまう。しかもこれ、「だめじゃないか」だと完全に作品が死ぬよね。「あかんではないか。」と関西弁だからこそそれまでの雰囲気がすべて吹き飛んで、物語がぐるんと回転して得体のしれないところへと踏み込んでいく。なんなんだ、これは、と。

一定していない文章だ。漢字だらけかと思ったら突然くだけた文体になり、そうかと思ったら突如真面目に時代小説を書き始め……たと思った瞬間にメタ視点からのツッコミが入る。縦横無尽。あらゆる要素がぶちこまれていることがこの短い一文でもわかるだろう。円城塔さんの不安定な文体などは町田康に似ているが、種類としてはまたまったくの別物で、文体というのもこうして一人一人千変万化し語っても語りきれるものではない、奥が深いものだと思う。円城塔先生の文体について - 基本読書

告白 (中公文庫)

告白 (中公文庫)

これはペンです (新潮文庫)

これはペンです (新潮文庫)

KDPで本を出すことについて

冬木糸一のサイエンス・フィクションレビュー傑作選

冬木糸一のサイエンス・フィクションレビュー傑作選

Kindle ダイレクト・パブリッシング (KDP) で本を出しました。サイエンス・フィクションレビューのオススメ本ばかりを集めた傑作選になります。よく勘違いされることですがKindle本というのはKindle端末を持っていなくても買えるのですね。iPhoneやAndroidのアプリでKindleアプリがあるのです。

出すのはかなり簡単でしたね。どうやって出すのかを調べるのに30分ぐらいかけて、後はblogから本にする文章を集めてきて並び方を考えたり文章をちょこちょこと直したりエッセイを2万文字ぐらい書き足したり引用やリンクの設定をePubファイルように追記したりして、出すまでにかけた時間はだいたい15時間ぐらい。

ここで細々と出すための手順についてぐだぐだと書いたりはしない代わりに、参考にしたサイトを書いたり自分がつまずいたところについて書いておきます。その後KDPについて思ったこととか考えたこととか。

KDP 本 出し方で2番めに出てきたサイト⇒Kindleダイレクトパブリッシングで電子書籍を出版するときの注意点まとめ - Six Apart ブログ でだいたいここを見てやりました。ありがとうございます。あと公式サイトをみたり⇒Amazon Kindleダイレクト・パブリッシング:AmazonのKindleストアで自費出版を まあ、見たといってもやり方自体はかなり簡単なのです。

基本的にKDPで検索して出てくる一番最初のページへ赴いてKDPアカウントを作り口座情報等を登録して、上げるためのePubを作って情報をKDPの登録サイトに言われるがままに入力していってぽちっと送信を押すだけ。まあ問題はどうやって「中身」を作るんだよ! っていうところだと思いますが。

最初に紹介したページにも書いてありますが、文章と表紙のみのシンプルな構成なら⇒電書ちゃんのでんでんコンバーター - でんでんコンバーターこのサイトに引用タグとか見出しタグとか(それも全部サイトに書いてあります)を挿入したテキストファイルを入れてタイトルとか著者名とか入力し、変換ボタンを押すと勝手にePubファイルが吐き出されます。

ここで出来たファイルをKDPの登録時にぽちっと入れると今度はKDPのサイト側で勝手にKindle用のファイル形式であるMobiに変換してくれます。公式サイトを見る限りePub以外でも幅広くサポートしているみたいなのですけど先人がePubで出しているのでそれに習いました。

そもそもなんでMobiに変換しなきゃいけねえんだこの糞野郎と思うわけですが変換しなけりゃ通してくれないので仕方がありません。ちなみに書いているうちにでんでんマークダウンによる記法のサポートなどが受けられる電子書籍の執筆ツール「でんでんエディター」を公開しました - 電書ちゃんねるを使って変換後の形式なんかをチェックしながらやってました。

表紙は

物ができたらあとはKDPで情報を入力してあげるだけですが、これは特に問題なし。問題は表紙ですが僕の場合絵が書けるわけでもなく書ける知り合いがいるわけもなくPhosterとかいうよくわからないiPhoneアプリを作って適当に作りました。おしゃれなベースとなる表紙を選択して、その中に自分で文字を追記できる形式で表紙がつくれます。所要時間5分。

審査とか

あげたら審査とかが入ります。これが一日ぐらいかかったりかからなかったり。割合早い。blogの文章をそのまま入れたりすると「それWeb上に上がっているやつっぽいけど権利とかだいじょうぶだよね??」というメールが送られてくるんですが、いや、ほんとに大丈夫なら別にいいんだけどね? みたいな謎の確認が入っているだけで特に何をやれとも書いていないのでなにもしてません。自分が著作権者であることをどこかに書いておいたほうがいいかもしれないです。

日本だけ遅延

で、審査が終わると出版され、「出版されました!」と威勢よくメールが飛んでくるのです。ところが、アメリカやブラジルやフランスやドイツでたしかにページが作成され買えるようになっているのに、日本だけ出ていないということが僕の場合ありました。特に何も書いていないのでなぜ日本だけ出版されていないのか謎でしたが、15時間後ぐらいに確認したら日本でもちゃんと出ていました。日本で出てなかったら意味がねーだろうが!!

再アップロード

出したものを再アップロードすることもできます。修正版ですね。ただこれが不思議なことにKindleのサイト上にあがっているものを、自分のところに再度最新版を落としなおしてくることが出来ない。いえ、サポートにはちゃんと「版が変わったりして購入者に通知してダウンロードしなおしを行いたかったらうちらんとこにメール送ってね」と書いてあるんですがその通知までに受付から数週間かかるとかで冗談じゃありません。

サポートセンターを通さず、修正したものが本当にKindleストアにあがっているのか(なにしろ日本だけ出版が遅れたりという経緯があるので出版完了メールが当てにならないのです)を自分で確かめたいところですがサポート掲示板とかをみたら「一回ライブラリから完全削除して買い直すしかないですね」と……。

それはマジでか……というほかない。いや、そんなわけないでしょう? いまあがっているものが本当に最新かどうか確かめるのに買い直すしかないの?? ありえないよね?? と思ったのですが他の解決法も結局わからず。買い直すしかないのかだろうか。僕は、たまたまコンタクトをとれる人が買っていたのでその人にどう変わっているのか聞いてしまいました。

追記
内容が増補・更新された最新版のKindle本を再ダウンロードする方法 - 忌川タツヤのブログ
教えてもらいました。そうか、この方法なら何週間も待たされなくていいのか。ありがたやありがたや。

blogを本にする意義。

blogを紙の本にする試みは既に作家の方々が何度も実戦しており編集や注釈などを加えて「売れる」ということがわかっています。これを別にその辺の素人が自分のblogでやったって何の問題もないことです。別に金がかかるわけでもなし。手間もそれほどかからないことは(少なくとも出すことだけを目的にすれば)わかるでしょう。もちろん本気で売ろうと思ったらもっと時間と戦略を練らねばダメですよ。

Twitterはフローでblogはストックなどというけれども、実際にはblogも更新時に人ががっときて後はたまに検索流入がある記事がいくつかあるぐらいでほとんどは死蔵されていく。下に下に流れて数日後にはあっという間に見えなくなって誰に顧みられることもない。そこに「編集」を加えてある文脈の元に組み直せば新たな意味を産み、死蔵された記事も別の形のストックとして生き返る。

もちろん、blogを書く以外でもどんどん出していけばいいと思う。特に絶対に紙の本にならないようなニッチなのをぽんぽん出せるのがいい。SFフィクションレビューなんてそもそも紙の本でも一部の著名な作家以外出せないですからね(最近池澤春菜さんの乙女の読書道が出ましたけど。)。同人誌だとどうしても刷るのにお金がかかるしね。

次はサイエンス・フィクションをもっと楽しむためのノンフィクション集とか、サイエンス・フィクション&ファンタジーレビュー傑作選とか、Kindleで洋書多読勉強法、みたいなニッチな本を出していこうかなと思ってます。

ところで売れるのだろうか?

宣伝しなけりゃ当たり前ですが売れません。だいたい大学生の4割が読書時間ゼロだなんて言っている時に電子書籍で本を読むやつがどれぐらいいるんだっつー話です。たとえばサイエンス・フィクションレビュー傑作選で想定しているのは「Kindleを持っていて1ヶ月に1,2冊SFを買うような層が1000人程度いると仮定して、そのうちの10人に1人が買ってくれたらいいかな……」ということで目標数100ですからね。

宣伝なんていくらでも出す場所があるので、積極的にお金を払ったり表紙を凝ったりあちこちへ呼びかけをしたりしてそもそもの題材を吟味して(電子書籍で読むんだからそういう層が好みそうな物にしたり)やっと1000や2000が見えてくるといったところじゃなかろうかと思います。

プラットフォーム囲い込み死すべし

とはいっても正直いってAmazonのやり口は好きじゃない。一度AmazonでKindle本を買ってしまえばあとは別のプラットフォームで買いたいとはなかなか思わないものです。特に読書用のデバイスなんか買った日には、本屋に閉じ込められてここから出るなと言われるのと同じことですよ。

オープン化の流れは既存の企業が方針を変更しない限り(する未来が思い浮かばないですが)新しいスタートアップがチャレンジしていくしかないですが、なんとか舵をきってほしいところ。HTML5とかそれを元にしたePub3とかいろいろ面白そうなことは起こってきてるのに。

ツール・オブ・チェンジ 本の未来をつくる12の戦略

ツール・オブ・チェンジ 本の未来をつくる12の戦略

村上春樹さんの小説の記述をめぐってのこと

村上春樹「心苦しく、残念」町名変更へ 小説のたばこポイ捨て記述めぐり (デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース

下手な手を打ったなこれは、ということに尽きる。世界の村上とはいっても話題が盛り上がりに盛り上がった長編で300万部を超えるぐらい。短篇集は当然ながら100万部を超えることもない。いったいそのうちの何人が、その将来単行本に収録された短編に書かれた町のタバコのポイ捨てのことを気に留めるだろうか。もちろん気に留める人はいるだろう。

また気に留める人がいるいないに関わらず、これはプライドの問題、事実無根のことが書かれていることへの反論であるというだろう。もちろんそうに違いない。そんなことを否定するつもりはない。これはきっと実態とは異なる間違った記述だったのだろう。一方で、所詮架空のキャラクタがいったことでもある。また一方では現実に存在する地名であるがゆえに、架空のキャラクタだからといって何もかもが許されるわけではない。

どこからが問題で、どこからが問題にならないのか。その境界は(某ドラマが騒がしているように)曖昧だ。今回のケースが大雑把に境界を「あり」と「なし」にわけて考えてどちらに転ぶかといえば、まるで町に無関係な立場の僕ははっきりと「なし」だと思うが、当事者からすれば譲れない思いもあるのだろう。それ以上に「真意を問いただすにしても他にやり方があったんじゃないの」という気持ちのほうが強い。

報道のされ方でいろいろ歪んでいったのかもしれないが、「屈辱的表現」などと言いながら真意を問いただすとは最初から随分な喧嘩腰ではないか。修正を願うにしても、態度を含めていくらでもやりようはあったのでは……そういう意味で「下手な手を打ったなこれは、ということに尽きる」と最初に書いた。

そして村上春樹さんの立ち位置はこれはこれで立派なものだ。表現の自由だなんだのと大きい話ではなく、「不愉快にさせるつもりで書いたわけではなかった」からこそ相手を不愉快にさせてしまったことを受け、町の名前を変更することにした。相手へと寄り添った考え方だ。もちろんそれほど重要な箇所ではなかったからこそ変更がきいたのだろうし、根幹に関わる部分なら突っぱねただろうけれども。

ですから僕としてはあくまで親近感をもって今回の小説を書いたつもりなのですが、その結果として、そこに住んでおられる人々を不快な気持ちにさせたとしたら、それは僕にとってまことに心苦しいことであり、残念なことです。中頓別町という名前の響きが昔から好きで、今回小説の中で使わせていただいたのですが、これ以上のご迷惑をかけないよう、単行本にする時には別の名前に変えたいと思っています」

自分の都合を押し通せばいくらでも押し通せる場面であったように思う。味方が多ければ多いほどいいものでもないが、「真意もなにも、フィクションの登場人物が語ったほんの一言ですよ。それ以上でもそれ以下でもありません」と突っぱねたとしても「村上はひどいやつだ」と思う人が過半数を超えるとは思えない(これは微妙か)。

むしろその程度で一度決めた表現を曲げるのか、とかこんなことがまかり通ったら今後も同じようなことが起こるとか、むしろこうした態度に対する批判もいくらでも起こりそうなもので、また面倒くさい事だ。それでも僕はこの態度、応答は村上春樹さんのこれまでやってきたことの延長線上のように思えて、ちょっとほっこりしたのだ。

本の見切りについて

図書館の魔女 by 高田大介 - 基本読書 先日読んだ『図書館の魔女』という小説は本に関する語りがまた面白い小説で、1400ページを超える大作ながらも本の迷宮に迷い込んでいくような気分が味わえる傑作だ。本好きならオススメしたい。その中にこんな一節があった。「図書館の魔女」と呼ばれる図書館の主、声が発せないので手話でしか喋れない少女が、自身のところに仕えにやってきた少年キリヒトが放った問いへの応答である。

 「ではマツリカ様も全部の本を読んでいるわけではない?」
 ──当たり前だろう。
 「読まなくてもどういう本かは判るんですか」
 ──当たり前だろう。読まなくたって読む価値が有るか無いかはすぐ判らなけりゃ、こっちの一生がいくらあったって追っつかないだろう。
 いいかな、キリヒト、読むのは最後の手段なんだよ。読む前に読む価値が有るのか無いのか、そこを見極めるのが最初の手続きなんだ。誰に読まれずとも構わない書物、必要な誰かが読んでいればすむ書物、翻って少なくとも読んでいる誰かを知らねばならない書物、我とわが身で繙読せねばならない書物、場合によっては生涯をかけて読み込まねばならない書物、書物の価値にはその書物により、また読む人により自ずと軽重があるのだ。

たしかに。特に意識しなくても、駄本傑作とたくさんの本を通過していくうちに、自然と自分の中で本の選別が自然と行われているようになる。「本の見切り(読む価値があるか、ないかの判断)」を、読む前に行うようになるのだ。これは自分には読む価値がないな、と。実際には、そんな本ばかりである。自己啓発書とかね。ああいうのも、何十冊も読んだ上でクズな理由を自分なりに理解して読むのをやめている。ライトノベルも1000冊以上読んで「これは読まない」というラインを自分の中では明確に決めているので、あっという間にその判定はできる。

それを読んだ時間が無駄だったかというと、まあ無駄だったのかもしれないが、今では自分なりの理屈でもって手を出さないようになっているので、ある意味進歩はしているのだと思う。最強の護身は勝てない敵に近づかないことだみたいな感じか。無数に存在する本をすべて読む訳にはいかないのだから。本読みとしてのレベルがあがっていくたびに(別にファンファーレがなるわけではないが)、だんだん自分にとって近づくべきでない本がわかっていく。

見切りの能力をどうやってつければいいのか、といえば、やはり読むしか無いだろう。それは本の価値が人によって異なるからでもある。僕にとっては傑作である「図書館の魔女」だが、あれは本が好きな人間の為の本だと思う。なにしろ1400ページ超えと果てしなく長いし。それはつまり本好きにとっては価値がある本でも、その他の人々にとってはあまり価値がない本だということになるかもしれない(もちろん、これはたんなる適当な一例だ)。見切りとは価値の見切りであり、価値判断基準を他人から持ってくる訳にはいかない以上どうしても自分で読み、細かいすり合わせを行っていくほかない。

もっともこうした本の見切りは諸刃の剣でもある、というのが最近の実感である。どういうことか。最近、もう新刊を買う気があまり起きなくなってきて、古典かここ50年ぐらいで評価が固まっている本ばかり読んでしまう。今までの経験から、あきらかに、何十年も残り続けている本の方が面白く、自分にとって価値があると判断するようになってきたからだ。

もちろん最新の知見といったものは新刊からしか得られないが、最新の知見が必要としている状況でもないし、仕事で必要なものなどは新刊で取り込んでいる。新刊、日々新しく生産される本が過去の名著に勝るところがあるとすればそれは「現代をテーマにできること」と「過去を踏まえて論を積み上げられること、別の方向へいけること」だろう。それらを求めてやはり新刊もちょこちょこと読んだりはしている。

余談だが、だからといって「古典を最初から読め!」と人に進める気にはならない。というのも、古典を読んで楽しめる、そこから多くを引き出せるようになったのは僕の場合、現代の新刊を数多く読んでいったからなのだ。新刊、現代の書は先に書いたように過去の著作を踏まえて書かれている。自己啓発書なら7つの習慣が大本であるように(いや、これは適当だけど)、科学でも小説でも、いくらでも辿っていける。古典を読んで面白くてたまらなくなってきたのはつい最近のことで、自分の中で今まで読んできたいろんなことが、古典を読むことで根っこの部分から結合、統合されてくるのが愉しい。いきなり古典から読んでも理解できなかったんじゃないかなと思う。

話を戻して、新刊への注意は一応残しているけれど……というところから。新刊へ向ける注意がどんどん失せているのは確かだ。これ、「見切りの能力が向上した」といえる側面もあるが、一方で「単に新しいものを取り込む力がなくなったんじゃないの?」と自問したりする。実際どうなんだろうね。見切りの能力が向上したのか、はたまた「自分の趣味はこれ! あとは趣味に合わない!」と自分で勝手に思い込んでしまって「視野が狭くなっているのか」というのは、どうにも自分だとうまく判断がつかないところがある。

この世に存在する無数の本をすべて読めるわけがない以上、自分にとって何が必要な本なのか、といった判断は最重要である。「本を読む」といった時に一番高いコストは値段よりも時間だからだ。が、それらを「視野を狭めずに」摂取するにはどうすればいいのか、というのが最近の悩み。スゴ本のDainさんとかは、きっとそれらを「スゴ本オフ」という場で取っ払おうとしているのだろうと傍からみていると思う。結局、自分の視野の狭さを取っ払うためには他人の介在を入れるしかないのかな。

大学生の頃に有効だったのは「この棚の端から端まで読もう」という読み方だった。好みも糞もなく読むのである。ただそれは良い図書館と、それをやるだけの時間があってこそだ。「身銭を切らないと本の見切り能力はつかない」という人もいるが(dankogaiさんとか)、あんなもんは本を売ってる側の人間なんだからそういうのが当然で、実際には身銭を切ってリスクをとるせいで、外れをひかないためにより趣味が袋小路に入っていくものだ。

とかそんなことをつらつらと考えていた。

図書館の魔女(上)

図書館の魔女(上)

図書館の魔女(下)

図書館の魔女(下)