基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

三国志 九の巻 軍市の星/北方謙三

ネタバレ有

帯でネタバレいい加減にしろばかやろ。なにが心の中で蘇る死もある。さらば、関羽雲長よ! だ。関羽死ぬのが1秒で認識出来てしまったじゃないか。しかもいざ読み始めたらいつ死ぬのかが気になって内容が全く頭の中に入ってこなかった。結局死んだのはラスト1ページ。

自分だけかもしれないが、関羽の影が非常に薄かった。もちろん、曹操の元にいたところから、敵将の首を取って劉備のところへ帰還するシーンなどはなくちゃならない場面でもあるし、関羽の存在感もでていたけれど、やはり張飛との対比がちょっと弱いような気がした。張飛劉備の足りないところを補っているように関羽ももっと単純なわかりやすい補い方があればよかったのだが。

悩む関羽、というのも新鮮だ。今まで読んだ三国志関羽の死にざまに至る過程といえば、あまり描写されていなかったものだ。それが荊州で一人とりのこされ、いつか劉備張飛と肩を並べて闘う日を願う描写が入っている分、重たく感じる。関羽の死が。単純に話に深みが加わったという話ではなく、想像の余地が生まれたというか、いやそれが話に深みが加わったということなのだろうか?いまいちわからないが。

ラスト何十ページか、曹操が、孫権が、関羽を殺す算段を立てている描写なんてほとんど読んでいなかった。何故関羽が殺される計画をねっているところを殺されるのを嫌がっている自分が読まねばならないのか。水滸伝を連載しているときに、作者に助命嘆願がいったというが初めてその気持ちが理解できた。何故関羽が殺されなければならないのか。

しかしそうはいってもいられない。もうみんな歳だ。正直、寿命で死んでもおかしくない歳の武将ばかりになってきた。寿命で死ぬよりは、こんな終わり方の方がよほど軍人らしい。関羽が布団の上で死ぬところなんて、想像できない。しかし、関羽、六十五になっても戦場に立つつもりでいたのだ。自分もへたれちゃいられんなぁと思う。六十五なんてまだまだ先だが、五十五になって、十年後、闘い続けている自分を想像できるだろうか。もうどこかに落ち着いて、余生をじっくり暮らそうと考えているような気がする。というか、今この時点ですでにそう考えているのだからもはやどうしようもない。


 劉備とともに、闘うことができなかった。張飛と、轡を並べることができなかった。趙雲とも、会えなかった。しかしそれは、特別口惜しいということでもなかった。
 みんな、益州から自分が闘うのを見ていたはずだ。ともに、闘ったのだ。心の中では、ともに戦場にいた。長い、実に長い歳月、ともに闘ってきたのではないか。


ぐおおお。関羽おまえ・・・。なんという漢。やってくれる。ドッカンドッカンきた。ドッカンドッカン。 膝を叩いて腕立てを五十回ぐらい息継ぎ無しでやり続けられるぐらいの興奮を与えてもらった。


 「郭真、旗をあげよ。関羽雲長の旗を」
 「はい」
 「城を出る。私は、最後まで諦めぬ。男は、最後の最後まで闘うものぞ。これより、全軍で益州の殿のもとへ帰還する」
 十名、それが全軍だった。


十名、それが全軍だった、で鳥肌が。一度曹操にくだったときも、死ぬほど悔しがっていたからな、これほど一貫して変わらなかった漢というのも珍しい。十名しかいないのに、まるっきり諦めていないところがすげぇ。さすがに曹操
今度は助けを出さない。老いたのだろうか、屈服させようという気力がなくなったのか。曹操が、あきらめを知ったか。

馬の名前が、赤兎の子供なのに、赤兎と読んでいるのはどういうことなんだろうか。新しく名前をつけてやらないのか? それともやっぱり赤兎ってのは種類名なのだろうか。この赤兎の名前はちょっとした謎だわさ。


 「関羽雲長、帰還できず」
 呟いた。
 次第に、視界が暗くなった。


帰還しろばかやろおおおお。この最後のセリフ、今までと違い、ちょっと浮いてるような気がしたがどうなのだろう。印象に残るフレーズだが、どうにも違和感がぬぐえない。まぁいいさ、関羽だ。関羽雲長の死のシーンだ。そこに何かケチをつけるつもりはない。この巻は、この場面以外求めていないのだ。

死ぬ事によってその存在をアピールしたのかもしれない、と考えた。いなくなってはじめてわかる、その存在のでかさだ。