かれらは一人の例外もなく、口が悪く、挑戦的で、こうるさくて、胸糞がわるくなるようで、横暴で、喧嘩好きで、辛辣で、無作法でに喰ったらしく、礼儀もしらず、呪わしく、悪魔的で、軽口ばかりたたき、おっちょこちょいで、うとましく、憎しみと敵意にみち、お天気屋で、傲慢で、分別にかけ、おしゃべりで、人を人ともおもわない、やくざな、実にもって興ざめな輩だった。かれらは眼つきがいやらしく、人をむかむかさせ、つむじ曲りで、金棒曳きで、品性下劣、吐き気がしそうで、あまのじゃくで、ことごとに拗ねてみせ、ひねくれ者で、争いを好み、乱暴で、皮肉屋で、気むずかしく、平気でひとを裏切り、残忍このうえなく、や番で、ゆかしさにとぼしく、癇癪もちで、他星人ぎらいで、ぺちゃくちゃと騒々しく、わざと人間に嫌われるように、そして出くわす相手はだれかれの見境なく困らせてやろうと、たがいに鎬をけずっているのだった。
──火星人についての記述
自分が選んだ1つの事がお前の宇宙の真実だ
──カミナ『天元突破グレンラガン』
読む前は、なんで火星人ゴーホームなんてタイトルなのだろう? と疑問を持っていたものだったが、読みはじめてすぐにその理由が判明した。うざい、とにかくうざい。しかも溢れかえっている。地に満ち満ちている。しかもこいつら透けている。対処のしようがない。この世の罵倒言語をことごとく使っても足りないぐらいうざいのである。
本書を読んだことのある人間ならば、引用した火星人についての記述が誇張表現であるどころか、まったくの事実であることを知るだろう。ある日長距離クイム(ほとんどテレポーテーション)を会得した火星人が10億人、地球へおしかけて迷惑行為を働きまくるというどうにも出落ち。あるいはあらすじ落ちのようなこのネタを長編にまでしたてあげて、なおかつうまくまとめあげてみせるというこの強引な力技に読んでいて笑いが止まらない。
普通は短編で充分なネタを、読ませ続ける魅力を持っているのである。
火星人ゴーホームと発狂した宇宙、どちらが好きかといわれれば断然こちらだな。もちろん筒井康隆が書いたように、人によって好みはわかれるところだろう。
結末についての作者のあとがきがあるが、いやいや、これは文句がつけようがない。もちろんあやふやな結末は嫌だ! という主張も当然あるだろう。世には結末がぼかされたような作品が多々ある。許せるものと、許せないものがある。ぼかそうと考えた人間は何かの意図があってぼかしたに決まっているが、それを納得するか納得しないかは、完全に読者にゆだねられるのである。ゆえに許せるぼかしと、許せないぼかしの中にあるのは明確な基準などではなく完全に個人の主観である。ありだと思えばありだし、なしだと思えばなしだ。その点でいえばこの終わり方は、あくまで個人的にはありであるし、あとがきで言いたかったのはそういうことだろう。この終わり方で納得できないやつは、勝手にてめーで考えろ! ということだ。
発狂した宇宙の主人公も小説を書いているし、火星人ゴーホームの主人公も(主人公といっていいのかどうかは不明だが)SF作家だ。単純に自分が作家だから、知っている知識を応用しやすいという理由で、主人公の職業を作家にしているだけかもしれないが。現に主人公の職業が、やけに作家が多いというインタビューを受けた作者が、単純に自分が作家でわざわざ調べなくていいからと答えていたこともある、名前は忘れてしまったが。
他にある共通点といえば、どちらもこれ以上ないってほどハッピーエンドってことだ。愛する妻を手に入れ、問題は全部解決して順風満帆何事もなし。いいねぇ、気持がいいねぇ。フレドリック・ブラウンが書く恋愛にストーリーは、単純明快、快刀乱麻いやはやまったくシンプルである。
第一部は、火星人がきたことによって起こった様々な問題が書かれているが、さもありなんと言う感じで今読んでも何の違和感もない。ただ世界の総人口が30億人となっている。このあたりはさすがに1950年付近というところか。2008年現在世界の総人口は67億をちょっとこしている。ほんの60年ぐらいで軽く2倍以上の総人口になってしまっている。恐ろしい話である。そりゃ森林は伐採され飯は足りずに景気は悪くなるといいたくなる。
あらためて本書を眺めまわしてみると、主人公最後の方まで問題解決に向けての努力をまったくしていない。驚くほど展開の波がゆるい。まるで映画宇宙戦争のように、火星人の脅威を身に受けていらいらしているだけである。
本書にも書かれているように、自分のせいで火星人が来たと信じてしまった人たちもたくさんいただろうし、自分のおかげで火星人が去ったと信じた人たちもたくさんいるだろう。ありそうな話である。自分が選んだ1つの事がお前の宇宙の真実だってグレンラガン風にね。火星人来襲はおいといて。読んでいて、最初に明かされた火星人の弱点、それはつまり親切にされることである。ということは人類全体が火星人に博愛の精神でもって対応したら火星人は行く場所がなくなって帰るっていう筋だろうな、と考えていたのだがそれは全くのお門違いであった。うーん、いい案だと思ったのだが。
イシュルティが世界人類に向けて一致団結を呼びかける場面は、名場面という他ない。イシュルティの呼びかけに応じて世界各国のイエス! が飛び交うまるで少年漫画のラストのようだ。ちなみに思い浮かべたのはドラゴンボールと金色のガッシュである。サ・タ・ン!サ・タ・ン!他にもCLANNADの場面も彷彿とさせる。
これは哲学小説である、という解説の言葉にまったく同意なのだが、いやしかしこれは哲学小説であると同時に、純粋な科学小説でもあるぞ、と思いながら読んでいた。残念なことにその発想の根拠はどこかに行ってしまった。残念な話である。書いているうちに思い出すかと思っていたがとうとう思い出さないままここまで来てしまった。思いださないという事はたいしたことじゃないのである。そもそも、と話を無駄に発展させていけばそんなたいしたことを今までに書いた事があるのかといえばもちろん書いた事が無いのであるが。ひねくれた答えを出せば、哲学小説なんて言葉は割と便利な言葉である。いったいこの世のどこに哲学していない小説があるというのか、つまらない小説にはつまらない小説なりの哲学があるし、哲学なんてどこにでも含まれているのさ、ときざっぽくいってみたところでたいしたことはない。