- 作者: 村上龍
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2002/05
- メディア: 文庫
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巻末の解説にずらりと並んだ人々の肩書を見ると、一体この本をどのような位置づけにしたいのかがよくわかる。編集の意向か、あるいは作者の意向か知らないが、そういうところが大嫌いである。テレビに出て喋っている村上龍も嫌いである。別に作家なら作品で語れ、なんて言っているわけではない。単純にテレビに出て喋ることに対して、価値を見いだすような人間の作品とはそりがあわないだろうなと偏見丸出しで思っていたわけだ。経済の話だらけだったけれど、印象に残ったのは経済だけではない。この本における自分の中での経済は、日本沈没における地震のような役割で存在していただけだった。要するに恐怖を与える存在である。
綿密な取材によって裏打ちされた情報に、構成、などなどどれをとっても職業作家としてすばらしい出来だ。村上春樹の感性とは対極の位置にある(と思う)。バクマンで天才型漫画家と計算型漫画家野二種類の漫画家がいるとしていたけれど、春樹が天才型で龍は計算型(これもかなり語弊があるけれど)だろう。作品をまったく読んでないくせにこんな事言うのはおこがましいことこの上ないが。
前おきは非常に長くなるが読むきっかけでも。BOOKOFFでたまたま105円だったというのも、もちろんあるがそれ以前に認識していなければ話にならない、じゃあどこで認識していたのかってー話である。一言でいえば漫画、それもタイトルが思い出せないような漫画である。ちょっと前にサンデーで、日本の中に国を作ってやろうという漫画が一年ほど連載していた。その時にどういう使われ方だったかわからないけれど、希望の国のエクソダスという言葉があってさらに何故だかわからないけれど時をこうして、BOOKOFFコーナーで本を手に取らせる程度には身体を動かし得たのである。それぐらいだから、きっと漫画も面白かったような気がするのだが題名を思い出せないぐらいなのでひょっとしたら面白くなかったのかもしれない。誰か知っていたら漫画の題名を教えてもらえないだろうか。
長い前置きはようやく終わり、話は本の内容に入っていく。どんな作品かといえば、いろんな村上龍にバカにされる小説といえよう。色んな姿形に身をかえた村上龍が何人も出てきて、色々な角度からねちねちと情報攻撃を喰らわせてくる。読者は大抵は関口のように、経済にも政治にも無知だろう。だいたい経済だの政治だのは、ややこしくなりすぎて今や詳しく知ろうとしない限りほとんどの話は一般人には理解できまい。しかし彼はわからないことには、わからないといえる人間、ある意味素直だったわけだ。唯一無知なせいで、悪夢かなにかのようにいたるところからいろいろな村上龍に知識をひけらかされる。経済を語る村上、政治を語る村上、言葉で伝えきれない感覚的なものを伝えてくる村上、重ね合わさずにはいられない、この無知な関口に自分を。読んでいて可哀想になってくるぐらいである。
恐ろしく印象的なこの一言からまずは書いてみよう。
「この国には何でもある。本当にいろんなものがあります。だが、希望だけがない」
うむうむ、確かに日本には希望がない。窒息寸前の閉塞感、よくわかる。そりゃ日本に住んでいるのだから、わからないはずがない。そして何度も作中で指摘されているように、日本には数々の致命的構造欠陥が多々ある。若い世代がたくさんいないとやっていけない国民年金や、金融市場経済、どれをとっても劣化しガタがきている昔のおもちゃのようだ。そしてこの小説が示したのは、もし仮にこのままの状況が進行したら本当に日本人は窒息しちまうぞ、、本当に日本沈没しちまうぞという話であってその場合どうしたら日本は救われるかを端的に示してくれたわけである。日本の崩壊を食い止める唯一の方法は新しいビジョンを提示する大きな集団が日本に現れることだ。明治維新のような革命をもう一度、というわけである。
これじゃあ希望がないのもうなずける。しかし何でもあるのもまた事実。シュルレアリスムとは何か、でもユートピアを完全に再現した場合そこは地獄に近くなると言い切っている。物があふれ人が満ちて誰もが幸せになろうという到達点を目指したのならば、そこには希望は無くなるだろう。要するにどちらを取るかの問題だ。希望も満ちていて、何でもあるなんていう理想は今のところ実現不可能だろう。希望が欲しければパキスタンイラクでもインドでも好きな所に行けばいいのだ。その代り失うものは大きいかもしれないけれど。
Amazonのレビューやらなにやらを読んでいると、ひどい感想が多々ある。村上龍は中学生のことがわかっていない、とか中学生が団結したり集団不登校になったりするはずがないなどなど。そんな事、そりゃああり得ないさね。だがこの場合、村上龍がやりたいものをキャラクタにやらせようと考えた時に、それが出来るのは中学生しかいなかったのだろう。
子供はおもちゃが好きだけれど、彼らがそれを手にするとき、イメージしているものは本物なのだ。おもちゃというのは、この想像力を持っている者でないと楽しめない。大人になって、おもちゃがつまらなくなるのは、想像力が衰えるからである。
ちょっとしたものに将来の可能性を感じるのも、子供の特徴だ。石を拾ったら、将来はこんな石を沢山コレクションしよう。石について博士になってやろう。石を集めて家を造ろう。そんなふうに考えられる。それが自分にできると信じている。ところが、大人になって、さきが見えてしまうと、なにもできなくなる。一見、予測できるようになり成長したと考えがちだが、ようは、その予想を上回るような夢を思い描けないだけのこと。自戒したい。
(MORI LOG ACADEMY/森博嗣)
ようするに、作中でも書かれていたが小学生では小さすぎる、何かを始めたり、理解し応用するためには足りない。高校生ではもうすでに大人の領域に片足突っ込んでしまっている。想像力を持ち、かつかろうじて大人の真似を出来る年代、それが中学生なのである。中学生しかぴったり当てはまった年代がいなかっただけで、別に中学生かどうかなんてのは大した問題ではないのだ。またこの小説は、子供に対してどのような対応を取るのがいいのかも教えてくれるだろう。そもそも18世紀以前には「子供」なんていう概念は存在していなかった。それなのに今の大人は子供の言うことに対して、まぁ子供の言う事だから、とかなんとか理由をつけて至極まっとうなことを言っていても子供だからなんていう意味のわからない理由で話を聞こうとしない。そもそもまともな話し合いが両者の間で成り立たないのである。そういう時に取るべき手段は、暴力しかあり得ない。この場合は国の中にもう一つの国を作ってしまうという目に見えない暴力によって自分の意見を押し通していくわけであるけれど、まるで革命だ。江戸時代の閉塞感から脱出しようとして明治維新を起こしたあのときはまだ武力を使っていた。しかし今ならやはり、経済的な戦いになっていくだろう。次の革命は経済で行われるかもしれない。
一番盛り上がったのはやはりポンちゃんが国会で演説を行う場面だろう。あれはすっきりする。一番笑ったのは娘の名前をあすなにしちゃうところだろうか。おいおい・・・もうちょっと考えてやろうぜ・・・娘の名前だろうが・・。大体企業の名前を名前にするって、たとえば息子の名前をトヨタにしちゃうようなもんだろう? 何か違うと思うんだよなぁ。あすなの名前が出るたびになんか違う・・・と思い続けていた。しかし全体としては文句なしに面白い。あとがきで自分でおもしろいと思った、情報と物語が幸福に結びついたかもしれないと書いているがまさにそんな感じがする。テレビで聞いたらうざくなってしまいそうな村上龍の経済語りも、政治語りも教育論も何もかもが物語とよくからまっていたと錯覚出来た。幸運な物語だと思う。それから名言集を作ってもいいぐらい、いい場所はあるのだけれどもてんでばらばらの内容なのでやめよう。後よかった場面とかも長々と語りたいのだがそれも数が多すぎてちょっとつらい。一番良かったのはいうまでもなくポンちゃんの演説の場面だろう。多くの人はこの場面を一番にあげるのではないか。うん、正直そのあとは読んでも読まなくてもって感じだ。
褒めてきたけれど、反対に気になった点でも。基本的に日本を徹底的にこきおろして、ASUNAROを持ち上げまくっているわけだがそこに違和感がつのる。だいたい、ASUNAROはありとあらゆる事に手を伸ばすわけだがどれもこれも革命的成功! として徹底的に持ち上げられているわけだ、まずこれがおかしい。ASUNAROがやっていることは確かに既存のサービスを組み合わせたりして、あまり新しいというよりも視点を変えていくものが多いが、それにしたって全く失敗しないのはあり得ない。まるで村上龍が自分の理論は完璧だ! と自慢しているように思えてしまって胸糞が悪くなってくる。だが作品と作者を切り離して考えられない人間のたわごとなのでこれは無視してもいいだろう。