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人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス/フロイト

人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス (光文社古典新訳文庫)

人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス (光文社古典新訳文庫)

 ここに一応まとめを書こうと思っていたのだが、最後に載っている翻訳者によるまとめ解説が思いのほか秀逸で、他に書く事が思い浮かばない。軽い気持ちで買って読み始めたのだが、認識を改めさせられる一冊となった。まず第一に、フロイト精神分析入門を読んで以来ただの胡散臭いおっさんだと思っていた自分のフロイトへの偏見が取り除かれた。思いのほかちゃんと学者っぽいこともやっている人だった。他にも、死を無意識的に遠ざけているなど興味深い話が満載でおもしろい。読みやすい文章(これは元の文がいいのもあるだろうが、たぶん訳も秀逸)に丁寧に章がわかれていて今何の話題なのかわかりやすい。人は誰しも攻撃衝動を持っていて、その攻撃衝動を社会によって止められるために常に強い抑圧状態にいるというのはニーチェも言っていた事だが精神分析の方からのアプローチはまた面白いものがある。しかしこういう精神分析やら社会学やらの結論は、非常に丁寧に繰り返し繰り返し検証を重ねないともっともらしさがでないので、もっともらしさという観点から見れば多少疑問だ。Amazonでのフロイトの評価は軒並み高いけれど、理由がよくわからない。いや、もちろん面白いとは思うのだけれども・・・。

 最終的にフロイトは、戦争を止めるための手段としてエロスの欲動に訴えることと、社会のおえらいさんたちを自立した思考の出来る知識人を養成するという二つをあげているが、どちらも今の時点では望めそうにない。また理性的な人間を養成して、理性的な人間ばかりで構成された社会では超自我の攻撃にさらされて、誰もが自分の死を望みながら生きていくディストピア的社会になってしまうのではないかという危惧でもって本書の解説を中山元は終えている。正直本書の中で一番へーとなんとなく納得してしまったのがこの部分であった。ちなみにエロスというのは

 生を統一し、保存しようとする欲動です。(P24)

 となる。このエロスに訴えかけて戦争を防止しようというのである。まず愛する対象との絆、それから同一化。当たり前すぎることを言っていて、ようするに訴えかけているのは人類愛みたいなもので到底徹底できるものではなさそうである。エロスに訴えかけて戦争が止まる未来は見えない。だがそれは今の世間では、愛やら何やらを訴えかけても聞いてくれる下地がないからであって、下地から地道にコツコツやっていけばなんとかなるものなのかもしれない。さて、一番興味深かった部分である第二章、戦争と死に関する時評だけ自分なりにまとめてみたいと思う。もちろん解説のまとめでことたりているのだが、自分でまとめることによって理解力もより深まるはずである。

戦争と死に関する時評

 戦闘行為に参加しなかった人たちは戦争という巨大なマシンの歯車となって、情報を隠蔽され自分たちが進むべき方向を見失い、何でもいいから自分たちの向かうべき方向を指し示してほしくてどんなヒントでも歓迎する状態だという。こういう悲惨な状態をもたらした要因として、一つは戦争への幻滅でありもう一つは必要とされた死への心構えであるとしている。

戦争への幻滅

 古代ギリシアの時代は闘争というものは騎士道精神とでもいうべきものにのっとって行われており、現在のような血なまぐさく人が大量に死んでいくものではなかった。戦争への幻滅を感じさせた二つの要因として、ひとつ目に国家は国民に犠牲を強いるくせに秘密主義や事実隠蔽などの不正行為の連続によって人々は国家に不信感を持つようになった。二つ目に高度に発達した文化に参与していた個人が残虐な行為をするようになったというものがあげられる。

偽善の役割

 文明社会は個人個人に、許容量以上の善い行動をするように押しつけてしまい力量を超えた生活を強いられているため、人々は文化を維持するために偽善を駆使しなければならない。現代文化はいわばこうした偽善に頼って構築されているのである。
 またこれに関連して、先程戦争への幻滅と書いたけれども、実際には偽善で成り立っていた文明社会であって世界市民はみんなが思っていたほど徳の高さを実現してはいなかった、つまり戦争が起こったことに対して大きく幻滅するほど堕落してはいなかったのではないか? という問いかけが沸き起こる。
♦死への心構え
 死そのものに言及している。いわく我々は死が必ず自分に訪れることを認めなければならない。われわれは死というものを嫌悪し、出来れば口にするのを避けたい、必然的なものなどではなく事故とか疾病とかと関連付けて偶然的なものとして考えたいと直接対決を避けている。

 死を生の考慮のうちから排除しようとするこの傾向のために、ほかにもさまざまな営みが断念され、排除されてきた(P75)

 とある。だが戦争という人間が大量に死んでいく現象によって死と向き合うことになり生が中身を取り戻したのだ。

死後の世界

 愛する人が死んでしまった時に、身体は朽ちて行っても愛する人への思いが尽きないために死後も別の形で存在していると考えるようになった。こうして死後の世界における生という考え方が生まれたのである。これもすべて死に生の終焉という意味を与えないようにするための工夫だった。

現代人と死

 現代人の無意識も他人の死の願望で満ちている。たとえば子供はまだ社会の暗黙のルールみたいなものを知らないから簡単に友達に対して死ねよ! などという暴言を口にする。大抵親は冗談でもそんなこと言っちゃいけません! といって叱るけれども、子どもは大まじめで死ねばいいとその瞬間は思っているのだという。これは何も子供に限った話ではなくて、大人も口に出して死ねよ! などとは言わないものの無意識下では本気で相手の死を望んでいるのだ。私は他人の死なんて臨んだ事が無い! と自分も思ったがちょっと考えてみてほしい。たとえば他人との接触において嫌なことがあったとして、たいていはもうあの人とはあわないようにしよう、とか次からはもっとなんとかしよう、という結論に落ち着く。だが明確に相手を殺す、排除することが出来る社会ならば、当然それが選択肢にあがってくるはずなのだ。要するに今の我々はあまりにも文化やら何やらに飼いならされてしまっているのではないか、ということである。
 同時に自分の死という考えを拒否している。最終的に戦争が存在するのは仕方がないことなのだから、戦争に自分を合わせていくべきなのではないか、として締めている「生に耐えようとすれば、死にそなえよ」
 さて、ちょっと短くまとめようとしすぎて失敗している感がありありだがこんなところでいいだろう。他の四つの章も面白かったのだが、解説を読めば万事OKなので。またこの章の中でも二つ程本当かなあ? と疑問に思った点があったので、そこについて書き遺してから終了とする。

 強い同情心を持つ人、人道主義者、動物愛護家が、小さい頃にはサディストであり、動物をいじめる癖のある子供だったことも多いのである。

 少なくとも身の回りにいる動物大好きな人は軒並み小さい頃から動物が好きだったけどな。それから人道主義者なんてものには今までの人生では出会ったことが無い。

 遠隔操作による兵器で殺した敵のことにも、まったく気に掛けることも、煩わされることもないのである。

 昔はあった敵は殺すなという掟が、現代の文明人には感じ取れなくなっているというが本当かなあ? 戦争心理学の本を読んだ事はないけれど、テレビなどの半端な知識でも戦場から帰って来た人間の大半がトラウマ持ちになったり、ほとんどの人が相手に向けて銃を撃つのをためらったりとどいつもこいつも敵を殺すのに抵抗感を未だに持っていると思うんだが・・・。