この本は……すごい。この世は夢かうつつかを高校生みたいに考えてみた - 続・はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記⇐これを読んで、読んでみたのだけど、これはすごい本なのだ。なにがそんなにすごいのか。風呂敷がでかいんだ。
我々ヒトはここ数万年ほど解剖学的に変化しておらず、すなわち脳にも変化はない。僕らは脳を使って言葉を発して、脳を使って感情を発露させたり物を考えたりする。ヒトはなぜ社会を創るのかという問いにレヴィ・ストロースは「交換」をする為だと答えた。ではなぜ交換をするのか。脳は信号を交換する器官である。ゆえに、それこそがヒトが交換を行う理由であるとする。
「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である」という説を本書では繰り返す。もっとも僕はこの点に関しては大いに疑問があるが、いちいち反論をあげるつもりもない。とにかく風呂敷はデカイ。そしてそれは良く構築されている。僕は気持ちよく、世界の真実を知ってしまった! と信じこむ。それが面白いのだ。
神などいないという人がいる。神がおわすという人がいる。こうした思考は数あれど、「思考の形式」にはそれ程の違いもないと本書では喝破する。形式とは形のことである。養老孟司さんは解剖学者なので、脳の形を扱う。「脳がどうなっているのか」を通して「ヒト」を知る。これが唯脳論の目標である。
さて、上記の内容とも関連しているが、本書では面白いテーマがまだまだある。ひとつは、「現代とは、要するに脳の時代である」というテーマだ。
現代では、社会がほとんど脳そのものになってしまっていると養老孟司さんはおっしゃる。どういうことか。都会とは、要するに脳の産物だからである。あらゆる人工物は、人の脳の中で考えだされ、生み出されたものだ。都会においてはありとあらゆる物の配置に人の考えが反映されている。
現代人はだから、いわば脳の中に住む。伝統や文化、社会といったものもすべて脳の産物であって、僕らは家にいても道を歩いていても脳に触れ続けているといえる。僕はよく新宿にいくのだが、あの高層ビル群を見ていると、人の脳が創りだした景色に、圧倒される気持ちになる。
過去において現実とは我々を制約するものであり、それは常に自然災害だった。今もたしかに自然災害は起きるが、そこまで大きな制約にはならない(3.11のことを念頭においても、なおそうだろう)。今となっては我々を制約するものは「脳」である。これが本書の革新的なテーマのひとつである。
ここからの論理も明快でとても凄まじい。すべてが脳になっていく。脳とは管理を善とする。身体を管理し、全体の制御を管理する。社会は暗黙の内に脳化を目指すが、そこでは「身体性」の抑圧が起こる。なぜなら脳とは身体を管理するものだからだ。脳は最後には身体の死によって滅ぼされる。
個人としてのヒトは死ぬもので、脳はそれを知っている。だから脳は身体が死んでも生き続けるものとして社会を作り出す(この論理はすごいな)。個人は滅びても脳化した社会は滅びない! 何度でも蘇るさ!(というかそもそもよみがえる以前の問題で途切れない)。
こういった社会では「死体」は極限の身体性として用いられる。しかし脳は最終的には自分を滅ぼしてしまう管理しきれない身体性を嫌うので、死を隠そうとする。ただ……いくら隠そうとしても、ヒトが死ぬのは変わらないものだ。隠しきれぬものではない。我々の社会は、身体性について弱点を持っているのだ。
本書が語るのはそれはしょうがないということなのだろう。結局僕らは脳で考えることしかできず、脳の機能に誘導をどうしようもなく受けてしまう。脳が身体性を嫌うというのであれば、そうする他ない。わかっていても止められない、悲しいぐらい弱い存在なのだ。
でも本書がそれを指摘できたというのは、とても意味の有ることだ。どうも僕は本書からは「どうしようもないんだ」という諦観ではないのではないかと思う。
- 作者: 養老孟司
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1998/10
- メディア: 文庫
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