基本読書

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好き好き大好き超愛してる/舞城王太郎

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

 確かに面白かったのだが読み終わった後に綺麗すっきり頭の中から内容が消えていってしまう系統の面白さだった。いやわからぬ。読んでいる間に何も考えていなかったから何も覚えていないのかもしれない。ちょっと感想を読んで初めてそういやメタ的だったなと気がついたぐらいだ。ガンにおかされた彼女とその彼氏というなんかいかにもお涙ちょうだい的な配置だが、特に泣かせようとか、感動的に盛り上げようとかまったくしていない。物語の始まりは作中作みたいなもので、現実と思われる話もすでに柿緒が死んだところから始まる。そんでもってもう彼女は死んじゃってるんだから、あとは彼氏=主人公がどうしていくかに注目するしかない。恋愛にしろ癌で彼女が死んじゃったー系の話にしろ思うのは、恋愛が成就するところがゴールではないし、癌で彼女が死んじゃったからといってそこがゴールじゃないってことなんだよね。癌で彼女が死んじゃったとしたらそれはスタートだし、恋愛が成就したとしたらそれもスタート。そういう意味じゃすでに死んでしまっている状態から始まっているのはとてもわかりやすいというか、過去の回想と現在が入り混じる構成+主人公の小説(?)がところどころ交差するのはなるほどと思う。

 なんだかよく分からないので小説に書かれていることを公式にしてみよう。まず最初に愛は祈りだ、という文章で始まる。よってこの世界では愛=祈りである。祈り=欲しいものを欲しいということである。無駄と知りながらも言うべき言葉=祈り 主人公にとっての祈り=ベストを尽くして小説を書くこと。過去の記憶=物語。愛しすぎていない=充分に愛していない。ということはつまり愛=祈り=ベストを尽くして小説を書くこと=欲しいものを欲しいということ=無駄と知りながらも言うべき言葉。 

 夢を見てる人間がそれが夢だと分かっちゃったら、それは夢が壊れてるってことなんだよ ←なんだか重要そうなセリフ。うむ、この夢のパートだけやけに象徴的だな。舞城作品はいつも発想がフロイト的だと思っていたが、夢を使ってくることでもっとフロイト的に。自分が得た体験が小説に反映されているか、いないかについて主人公が考える場面があるが、なかなか面白い。たいていの作家の発言を聞いていると、とんでもなSF小説でも自分の経験を形を変えて出しているといった答えが多い。ただここでいう体験を小説の形にして出す、というのがそのまんま起こった出来事を名前などを変えて出すというよりも、モチーフにしたとかの方が近い。この作品の中で、百通の手紙が送られてくるという場面があるけれどこれ多分一通目は最初から存在してないのではないか。最後、治に秘密を作りたいといって出かけるところがあるけれど、それと似たようなもので当然あるはずの手紙がないという謎でもって引きつけようとしたのでは!? まあいいか。現実とかどうでもよくなってくる。多分この中で書かれているAZMAの話とか、ニオモの話とかは主人公が書いた小説なんだろうけれど、過去の出来事はすべて物語になってしまうんだから全部一緒だ。ニオモの話も、柿緒が死んじゃった思い出も全部。ああーなるほどね、全部物語。超メタ作品だね。