基本読書

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さよならまでの読書会: 本を愛した母が遺した「最後の言葉」 by ウィル・シュワルビ

なんとなく読書会と入っているので手にとってみたのだけど、あんまり読書会とは関係がない。章ごとに署名が冠されているが、別にその本について長々と語っているわけでもない。膵臓癌に侵された読書好きの母と、その息子が2人っきりでどんな本を読んできたのかという回想録になっている。二人は同じ本を読んできて、会う度に語りあうが、その重要な焦点は「近いうちに死ぬという現実にどうやってお互いが向き合っていくのか」である。

末期癌、レベル4なので当然遠からず死ぬ。一年はまず無理で、2〜半年ぐらいの間生きているのがせいぜい、というのが平均だ。母親は闘病することを厭わないではいるものの、そういう問題でもない。「いつだって、誰だって死ぬかもしれない」と漠然と考えながら生きている人はいるだろうが、「数カ月後に確実に死ぬ」という切迫感をもったときに、いったい何を読もうと思うだろうか。

そういう「読書家の死への向き合い方」としても興味深い。読みながら自分だったら3カ月後に死ぬ(確定)と言われたら何を読むだろうかと考えてしまった。長い本はつらいかもしれない。話の途中で死んだら死んでも死に切れない。シリーズものには末期癌は適さない、かといって短いものばかり読んでも満足感が得られるかどうか。

新作を読むのか、あるいは自分が過去に読んできた傑作たちを改めて読みなおすのか。小説を読むのか、ノンフィクションを読むのか。もうノンフィクションは読まないような気もする。もう今から去っていく場所のことを知ったところで、どうしようもないだろうから。といっても別にノンフィクションを読む理由はそれだけでもないけれど。

本書によると末期癌の母は読む本を新旧取り混ぜて選んだという。むかし読んだ傑作と、いまなお出てくる新しい本。だいたい半々ぐらい。それがいいのかもしれない。まあなんにせよ、死ぬ前にどんな本を読むのかに正解も不正解もないだろう。好きなように読んで、何を読もうが死んだら消えていくのみ。でも新しい本を読んで、駄作だったら殺してやりたいぐらい難くなるかもしれないけど。

それにしても、たとえ末期癌であっても本を、死の直前まで、それもなかなかのペースで読nんで、楽しむながら語り合うことができる(こともある?)というのは本読みにとっては羨ましいし、朗報である。今なら電子書籍も充実しているから、本が買えなくて、読むものが尽きるという悲惨な状況も免れそうだ。『一気に本が読めているかぎり、終末はまだ見えない。 p341』

二人にとって本を読むというのは、本への理解を深めることが目的というよりも、お互いがお互いのことをもっとよく知るための工程のようにも読める。そもそもアメリカはブッククラブが盛んで、割と日常的な光景としてブッククラブを自宅で開催したり、書店で開催したりするが、そこでももっぱら「人と語らうこと」をメインに、その為の潤滑油として本を使うスタイルが多い。

本というのは相手と親しくなるための媒体であるとする考えが本書に一貫して通底しているものだ。二人は本を読んで自分たちの考えを語り合っていく。たとえば夏目漱石の『こころ』に出てくる『「自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しさを味わわなくてはならないでしょう」』という部分に二人とも胸をつかれ、孤独を感じたことはあるか? というディスカッションにつながっていく。

本に書かれていることから問題や、問いかけを読み取って自分たちへと還元させていく。本作は別に悲劇的な話ではない。むしろ明るいと感じられるぐらいだ。それも常に本のことを通して、明るい話も暗い話も平等に棚に上げることができるからなのかもしれない。本はたいてい一人で読むものだが、でも読んだあとはコミュニケーションの肴としてつかうこともできる、ということを教えてくれる一冊だ。

さよならまでの読書会: 本を愛した母が遺した「最後の言葉」

さよならまでの読書会: 本を愛した母が遺した「最後の言葉」