基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

男と女、虚構と事実、過去と未来、微妙でありながら大胆──『両方になる』

両方になる (Shinchosha CREST BOOKS)

両方になる (Shinchosha CREST BOOKS)

『両方になる』はスコットランド生まれのアリ・スミスによる長編七作目になる。邦訳としては2003年に『ホテルワールド』が出た他、岸本佐知子編の『変愛小説集』などいくつかの短編が訳されているばかりで、あまり日本で知られている作家ではないだろう。僕も今回はじめて読んだのだけれども、これがまあおもしろい。

じっと見つめて細部を観れば観るほど複雑なストーリーが脳内に練り上がってくる一つの絵画を鑑賞しているようなおもしろさがあり、どちらも同じく「第一部」からなる物語はどちらから読むかで物語に対する印象を大きく変えるだろう。実際、この『両方になる』は原書の販売方法も特殊で、同じ書名ながらもバージョン違いの本が二冊売られており、買ってみなければどちらを読むことになるのかわからない(わからなかったかどうか、実はよく覚えていないのだが……訳者による『実験する小説たち』ではその詳しいギミックが書かれていた)。とにかく二バージョンあるのだ。

日本でも16年に『僕が愛したすべての君へ』と『君を愛したひとりの僕へ』という、「どちらから読んでもいいが、読む順番によって印象が異なる」二冊の作品が出ていたりもするが、本の中身に二バージョンあるというのは僕は聞いたことがない。仕掛けとしてけったいなことをやっているわけではあるが、中身が難しいなのかといえばそんなことはない。母を亡くしたばかりの21世紀を生きる少女にたいして背後霊のように付き従う15世紀イタリアの画家と、少女自身を中心として描かれる再生と芸術の物語であり、男や女、破壊と創造、虚構と事実など無数の”二項対立”をごたまぜの”両方に”して複雑さを取り戻そうとするような、とても美しい傑作だ。

ざっと内容を紹介する

物語は二つの「第一部」、それぞれ最初に載せられた絵にちなんで〈目〉パートと〈監視カメラ〉パートから成り立っている。邦訳版が二バージョン存在しているのか一冊しか読んでない僕にはわからないのだが、実際に存在していたら粋だなと思う。

少なくとも僕が読んだのは、15世紀イタリアの画家背後霊パートである〈目〉の方が最初だったので、その紹介から入ろう。こちらはいきなり15世紀の画家が幽霊的存在として少女の後ろに現れて混乱する場面から物語がはじまるのでこっちとしては最初わけがわからないのだが、わけがわからんと思いながらじっくり読んでいくうちにだんだんと状況が理解されていく。彼は何らかの理由でそこにおり、少年は恐らく大切な人を失って悲しんでおり、見た目から少年だと思っていたが、よくみたら少女であることが判明し、それらと同時に画家自身の過去を思い返していくことになる。

この画家の人生がまたおもしろい。彼は実在するフランチェスコ・デル・コッサという男性の画家で、本書の世界でもそうなのだが、作中では実は女性だったということになっている(アーサー王かよ)。幼少期の頃のこと。母親の死後、彼女が母の服を着続けて生活していたのを父が見かねて、彼女を兄たちと同じく男の子として育てることで、(彼女が)大好きだった絵を描く人生を歩ませてやろうとしたのだ。

 わしらの世界は間違いない、と彼は言った。いつだって仕事はある。しかし、女の格好をしていては、修行はさせてもらえない。女の格好では、わしがおまえを弟子にすることさえできない。早速来週にでも、鐘塔の仕事に取り掛かってもらいたい。だからといって、鐘や塔を作る作業ではないぞ。壁画を描く作業をさせてやる。道具はわしが用意する。そうして、わしやお兄ちゃんたちと仕事をしている姿を周りのみんなに見せて、おまえの存在が認められて、おまえがそういう存在になったんだってことが誰の目にも明らかになったら──

画家となるために、女性でありながらも男性としての人生を歩む。その後、親友であるバルトと出会い、彼に連れられて風俗へと行くのだが、ことをいたすわけにもいかない。だが彼女(彼)は絵描きである。女性たちに手を出さずに、特別な絵を描いてやり、一緒に睡眠をとることで、その評判はたちまち風俗界に広まってゆく──。

監視カメラパート

(僕の場合は)続く監視カメラパートでは画家に取り憑かれていた少女の物語が展開する。彼女の母親はどのような存在だったのか。どのようなやりとりをしながら日々を過ごしていたのか。彼女の母親の台詞はひとつひとつがヒーローのように格好良く、少女に大人として相対する態度を崩さない。『そうかもね。と母が言う。でも、私がどう思うかはどうでもいい。私が知りたいのは、あなたがどう思うか。』

少女は女性だがジョージという(一般的には)男の子の名前で呼ばれ続け、嘘をついているかどうかわからない人間、こちらをスパイしている人間を逆に尾行する、忘却と想起、破壊と創造、虚構と現実、過去と現在といった二つで1セットのモチーフが一枚の絵に同居するかのようにして存在しており、それらはどちらかだけではなく”両方になる”ことができるのだと繰り返し、無数の形で表現されていくことになる。

 本当のことだもの、と母が言う。私はいちばん最高。でも、いちばん最高の何なのかしら?
 過去か現在か?とジョージが言う。男か女か? 両方というのはありえない。必ずどちらかのはず。
 誰がそう決めたの? どうしてそうでなくちゃいけないの?と母が言う。

おわりに

にわかには受け入れられない死を受け入れること、複雑なことを理解するときなど、どうしても時間がかかることが世の中にはあるし、探偵小説の真犯人のようにすっと割り切れる回答が出てこないこともある。『両方になる』は、そうしたスパッと割り切れない、時間をかけて丁寧に扱うべき問題を丁寧にすくい上げていく。

〈監視カメラ〉パートと〈目〉パートが交錯していく時の興奮など、歴史が反響し響き渡っていくようで、ギミックだけではなく小説としてのおもしろさも保証しよう。