基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

サイエンス・イマジネーション 科学とSFの最前線、そして未来へ/瀬名 秀明,山田 正紀,堀 晃,円城 塔,飛 浩隆

科学者たちが現在科学がどこまで進んでいるか、また未来はどうなっているのかをそれぞれの立場から考察するノンフィクション部分。
著名作家陣らによる科学者たちの問いかけに対して、アンサーソングとしての短編が載っているフィクション部分。
それらが交互に挿入され、とても刺激的な面白い一冊の本となっている。いやー凄く面白いなあ。作中でパソコンを考え出したのはフィクションが先か、それともノンフィクションが先かという問いかけが出されたが、まさにその答えと同じくほとんど同じクォリティの内容だった。どちらもまったく不満が残らない。短編は正直期待していなかったのだが(アンサーソングという形式で面白いものが作れるとは思わなかった)どれもこれも凄い。それから科学者たちの問い。これがどれ一つとって、SFのテーマに据えても面白くなりそうなものばかりで大放出だなあ(ネタの)という感じ。本当に子供みたいな人たちだな、みんな。あんまり楽しそうで、何故か無性に寂しくなる。祭りの後の静けさというか、小学校の頃みんなでわいわい遊んだあと一人帰る道の寂しさとかそんな感じ。面白かった部分を抜擢してみる。

スイッチをオンにするだけで、ハッピーになれる。

驚くべきことに、これがもう実現しているという。脳内電気刺激という研究があって、報酬や喜びに関わる神経系に電極を刺して、ラットやマウスが自分でそこに刺激を与えられるようにしておく。そうするとそいつらは際限なくそのスイッチを押し続ける。これを人間で想像すると際限なくスイッチを押し続ける人間とか相当怖いけれど、つまりはそういうことである。実際に鬱病の患者にこの方法で脳を刺激すると鬱の状態が改善したという。なんとも素晴らしいことのように思えるが、何故あまりおおっぴらになっていないのだろうか。現代人の悩みがこれで一つ解決されるかもしれないのに。やはり多くの人は、こういうのは操られているとか感じてしまうのだろうか。副作用のない麻薬みたいなものだと。しかし私達は酒を飲んでハッピーになったりコーヒーで眠気を覚ましたりして、脳の状態をすでに自分で作用させてるじゃないかと、この発表をした川人光男さんは言うわけである。そこでこの後この問題を社会の人々はどう捉えるのか? というのがここでの問いかけである。

読んだばっかりなのにもうあまり覚えていないのだが「宇宙消失」にも似たような問題が出てきた。モッドという脳内の色々な感覚を改変してしまう概念が、あの世界ではもう当たり前になってしまっていた。MODといえばオンラインゲームをやっていたり、それでなくとも普通にパソコンゲームをやっていれば出てくる単語である。本来ゲーム内に足りないと感じている部分、つまり衣装がもっと増えたら面白い! とか銃の音がショボイ場合自分でもっといい銃の音を差し替えたり。つまりこの概念はオンラインゲーム上ではすでに受け入れられているのである。そう考えれば、人々の間には下地がすでに出来上がっているといえるかもしれない。でも現実でやろうと思ったらどうかなー? お前ら酒飲んでハッピーになってんだからスイッチ押してハッピーになって何が悪いんだよっていわれたらそりゃそうか、とも思うけれどやっぱり躊躇してしまう気がする。現に宇宙消失でも主人公はかなり悩んでいたし。何でかなーと考えた時に、酒やコーヒーはちゃんと体の中を通って、それで中から作用を及ぼすからじゃないかと。それを外から電極くっつけてビビッはいハッピー、じゃ何の実感もわかない。何で体の中から作用すれば受け入れられるの? となるとこれがまたさっぱりわからないんだが。何にしろ鬱病に効果的な以上(本当なら)それなりに普及はするだろうし、そして少しでも普及したならば次第に使われ方も増していくだろう。本当に便利なら、の話だけど。

今こうして科学が次々と発達していくのを見ていると、人間の倫理観が全然追いついていないなあというのがわかる。コピー羊だかが誕生した時随分とコピーの是非について語られていたような気もするのだがもう誰もあんなこと問題にしていない。一時期活性化した議論はどこかへいってしまって、今では平然とクローン動物を食べるか食べないかの議論をしている。このままどんどんなし崩し的にいつのまにか人間のクローンが出来て、これについてあーだこーだいっているうちにクローン人間から臓器移植!なんていう問題が持ち上がってまたあーだこーだいってるうちにどんどん科学だけが先へ進んで行ってしまうのかもしれない。今もクローン動物を食べたいか食べたくないかのアンケートをちょっとみてみたが、そりゃ誰だってわざわざ食べたいとは思わない。でもあるなら、そして安かったりするならば食べるという人もいるのである。うーん、でもやっぱり人間は難しいかな? わかんないや。

死の発見

 言語には時間と空間を超越した表現が可能です。言語のこの特徴に気づいた人間は、自己の時間的・空間的限定性に気づいてしまいます。これが死の発見です。死を発見した私たちは、死という不条理を克服するべく言語の使用方法を戦廉させてゆきます。永遠の生へのあこがれが言語を刷新し文化の蓄積を可能にしました。文化の蓄積は、芸術や宗教、科学、愛など、人間の心に感染しやすいテーマを生み出しました。

 そんでもってテーマを生み出したりしたのは確かに凄いことだけれども、そのせいで(死を発見してしまったせいで?)言語を持った文明は種としての寿命が短くなってしまうのではないか? 両立することは不可能なのか? というのが岡ノ谷一夫さんの問いかけである。言語を持った文明の寿命が短いのではないか? という問いかけの根拠が多分知的生命体が地球にやってこないからということなのだろうがなんとも頼りない根拠のような気がする。たまに思うのだが知的生命体がいたとしても、そいつらも光速を超えられないんだからそんな簡単にこれるはずないじゃん。みんな宇宙人っていうのに夢を持ちすぎてるんじゃないの? と。どんなに科学が発展しても光速の壁が越えられない(ワームホールとかの利用も難しい)となったらほとんど交流できる可能性はなくなってしまうんでねーかなあ。これはちょっとわからん。


短編集は山田正紀飛浩隆が良かった。円城塔はやっぱり円城塔だった。堀昇の作品を読んだのは初めてだが、他の本も読んでみたいと思った。瀬名秀明はいきなり自分の本を二百冊配ったりとナルシーだなと思った。結婚式の引き出物みたいにもらった人の多くがこんなんもらってもなあと苦笑する場面が浮かんだ。