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韓国の注目作家が紡ぐ、科学的でエモーショナルな絶品SF短篇集──『わたしたちが光の速さで進めないなら』

わたしたちが光の速さで進めないなら

わたしたちが光の速さで進めないなら

2020年は10年の区切りということもあって素晴らしいSF短篇アンソロジーが多数刊行され、SF短篇集も豊作だったのだけどここにきてまた凄いSF短篇集が刊行された。韓国の作家キム・チョヨプによる『わたしたちが光の速さで進めないなら』だ。

1993年生まれで本書(原書は2019年刊行)がデビュー作とバリバリの新人なのだけれども、技術的には円熟の域だ。ファースト・コンタクトあり、言語SFあり、コールドスリープ、マインドアップロードあり、テクノロジーによって変容していく人間の姿や社会を描き出していくサイバーパンク的な要素も各作品に共通していて──と、SFでは定番のネタを毎回「こう演出するのか〜!!」と驚かせてくれた。

毎回読後には現代の物語、感覚だな……と納得させてもくれ、凄い凄いとは聞いていたけどまさかここまでとは思わなかったば。詩情豊かではあるものの、宇宙や科学はメタファーにとどまらず、著者は生化学を修士までとっていて、各要素(コールドスリープとか)にはきっちりと科学的な説明の描写が入っているのも良い。

巡礼者たちはなぜ帰らない

トップバッターは「巡礼者たちはなぜ帰らない」。この短篇の紹介の前に触れておきたいのが、ル・グインの短篇「オメラスから歩み去る人々」という印象深い作品だ。平和で明るく楽しい、ユートピアのような国オメラス。実はこの国がそうした幸福を享受できているのは、建物の地下に幽閉されている一人の子供のおかげであり、その子供を助けてしまうと、神的な何かのせいでその国で暮らすすべての人々が不幸になるのだとされている。人々はそのことを青年期に告げられ、その罪、苦しみを背負って、より繁栄と幸福を大切にしてその国で生きる。

だが、オメラスから立ち去ることを選ぶ人もいる──、そうした短い短篇がオメラス〜であるが、巡礼者たち〜は立ち去るのではなく「帰らない」ことを選んだ人たちの話だ。舞台はまるでオメラスのように幸せで争いのない人々の村。彼らは、成年になると始まりの地と呼ばれる場所に向かって巡礼をする。一年が経つと、巡礼者たちは移動船に乗って戻ってくるのだが、かならず人数は減っている。「始まりの地」は、決してユートピアというわけではない。むしろ、争いのない村こそが平和なユートピアなのだ。ならばなぜ、帰らないことを選ぶ巡礼者たちが出てくるのだろうか。

ある意味では、巡礼の旅はオメラスの住民が建物の地下に鎖で繋がれている一人の子供を観に行く旅のようなものだ。「幸福の出どころを知る旅」。こうした問いかけが、人の遺伝子に手を入れるべきなのか、という人体改変のテーマと共に描かれていく。寓話、幻想的でありながら科学・SF的であるという、本作品集の基調をなすような短篇だ。ちなみに、今ならnoteで読めるならぜひ読んで欲しい。
www.hayakawabooks.com

スペクトラム

続く「スペクトラム」は一転してファーストコンタクト&言語、そして意識・人格を扱った一篇。いろいろな要素が混ざっているのだが、実にうまく混合されていてまるで違和感がない。人類は初の異種知性と接触したのだが、相手からのメッセージは決定的な「拒絶」。一切のやりとりを拒み、両者の関係性は断絶したに思われた。

しかし、語り手の祖母ヒジンは事故で太陽系の外を漂っている時に異種知性が暮らす惑星を発見し、先に接触を住ませ、何年もの間、そこで共同生活を送っていたのだという。彼らはなぜか人間とよく似ていて、明らかに情報をやりとりしているのだが、それがどのような言語なのか一緒に暮らしてもわからない。彼らの寿命は2〜3年と短く、世代交代が人間基準からするとあっという間に行われるが、なぜか一人の個体が死ぬと、次にやってきた個体がその名と性格と役割を引き継ぐ──。

彼らの言語はどのようなものなのか。個体は世代交代する時に「意識」が受け継がれているのか。そうした問いかけに鮮やかな仮説がもたらされる一篇だ。

共生仮説

「共生仮説」は、こちらもある意味ではファーストコンタクト物。リュミドラ・マルコフには、一度も行ったことのない場所に関する記憶があった。リュミドラは5歳の時から「そこ」からやってきたといい、色鉛筆を使ってその幻想的で美しい光景を描き続けてきた。その絵は忘れてきたものを思い起こさせるとして高く評価され、リュミドラの描く世界はリュミドラの惑星として愛されるようになる。だが、リュミドラの死後、宇宙望遠鏡によりリュミドラの惑星と同じものが発見されることになる。

はたして、リュミドラはなぜこの惑星のことをあらかじめ知っていたのか? 科学の歴史は、人間の特権的な立ち位置を格下げしてきた歴史でもある。たとえば、地球は宇宙の中心ではなく、人間は特別な生物ではなく、猿から進化した動物である、というように。本作は、ある意味では人間に遺された最後の牙城に切り込んでいる。

わたしたちが光の速さで進めないなら

表題作にしてワームホールとコールドスリープを扱った一篇。まずタイトルが最高! コールドスリープは基本的には光速を超えられない人間が、遠くの場所に行くために使ったり時を超えて未来に行くために使われるのがSFでは常套手段だ。

だが、仮に宇宙の移動手段としてコールドスリープ技術を研究していて、その途中でより簡潔で便利なワームホールによる移動手段ができてしまったら……という、技術のパラダイムシフトが起きるタイミングでの悲劇を描き出す一篇。コールドスリープ研究の第一人者であったアンナは、技術と技術の間のエアポケットに落ちて到達困難になってしまった、故郷になるかもしれなかった惑星に行くために、もう出ることのない移動船を廃れた駅で待ち続けている……という、幻想的な情景がたまらない。

感情の物性

もし、愉快だとか落ち着きだとかいった感情が、触っているだけで味わえるとしたら──そんな効果を謳った石が売り出され大人気になっているのがこの「感情の物性」の世界。しかし、その石がもたらす感情の種類には嬉しいものだけではなく恐怖や憂鬱もあって……と、マイナスの感情の小石を購入できる理由について話が繋がっていく。これも、「テクノロジーによる人間性の変容」というテーマが通底している。

館内紛失

マインドアップロード物の一篇。ある人物がなくなる時、その精神をアップロードできるようになった世界。移植されたデータは、本人そっくりの応答を返すが、そこには意識や自我などは存在しないというのが学界の支配的な見解になっている。

ジミンはそうしたアップロードされた精神が保管されている図書館に母親を訪ねていくが、母親の希望によって検索用インデックスが削除されていて探し出せない。なんとか繋がりを回復して検索し、母親の気持ちを知るために、母親の遺品を漁るのだが……。「アップロードされた精神は本人なのか、まがい物なのか」問題を扱ったよくある話といえばそうだけれど、遺品を漁っていく上で孤立した母親の人生が持って浮かび上がり、失ってからその繋がりを取り戻していく、エモーショナルな一篇だ。

わたしのスペースヒーローについて

遠宇宙に行くことができる、トンネルと呼ばれる特殊な穴が火星の近くに現れ、過酷な重力に襲われるそこを通過するために人体を改造した宇宙飛行士についての物語。

初のトンネルに向かう3人の宇宙飛行士の一人であるジェギョンは、インタビューで人類に夢をみせるといった大局的で通りのいい動機を一切述べず、人間が体の限界を超越するのがいかに素晴らしいのか、その未来を語って顰蹙を買った。彼女が東洋人の女性で、体が小さく、48歳で、と宇宙飛行士からするとマイノリティであったこともその反発に拍車をかけていた。さらに、彼女は実は、トンネルに飛び立つ前に一人逃げ出し、海へと勢いよく飛び込みその命を断ったのだという。

ジェギョンをスペース・ヒーローとして尊敬し、さらに実子同然にしてジェギョンに育てられていたガユンは、自身も宇宙飛行士としてトンネルに向かおうと選考過程に挑む過程で、ジェギョンが何を考えてその行動をとったのかを追っていくことになる。信念を貫く人々の物語であり、テクノロジーで人体を変容させる人々の自由と冒険の物語であり、ラストにふさわしく、新しい世代の前向きさをたずさえた作品だ。

おわりに

「巡礼者たちはなぜ帰らない」も、表題作も、「わたしのスペースヒーローについて」も、「スペクトル」もたとえ世間や一般的な価値観から乖離していたり、マイノリティであったとしても自分自身の信念・考えを貫き通す人々の姿を描き出している。同時に、そうした価値観と真反対の価値観の素晴らしさにも目を向けてみせる。こういうSF作品が今読めることは、とても嬉しいことだ。