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東天の獅子 第1巻 天の巻・嘉納流柔術/夢枕獏

東天の獅子〈第1巻〉天の巻・嘉納流柔術

東天の獅子〈第1巻〉天の巻・嘉納流柔術

いいなあ。
まっさらな状態でこれが読めるなんて。
あなたのことが、ぼくは本当にうらやましい。
作者が本気で読者に嫉妬しているのであります。──まえがきより。

 あ・・・あぁ。こ・・・これが夢枕獏だ。自分が知っている夢枕獏が、ここにいる…。嫉妬されてしまったぜ。ははは。面白いのだから、仕方ないよな。こんなものを書いてしまったら、そりゃあ嫉妬もしてしまう。
 面白い。
 これは、面白いぞ。
 本書は格闘技小説である。がしかし、餓狼伝のようなフィクションではなく、作中の人物にはモデルがいる。そして彼らの行動も、ある程度は史実に従って書かれているようである。とりあえず一巻は明治初期の時代。柔道の創始者である嘉納治五郎の話だ。この時代、本当に凄いメンツが世の中には存在している。本当にこれは現実にあった話なのか? と疑いたくなるぐらい。今からは考えられないぐらい、真っ直ぐな男たちである。もちろん夢枕獏が、格闘家を書いたら基本的にそうなってしまう。しまうのだが、それでもまっすぐだ。

 格闘技小説をここまで書けるのは、夢枕獏だけだ。これはもう言い切ってしまってもいいと思う。そもそも『戦い』戦争ではなく、あくまでも純粋に戦いを文だけで描写するのは非常にこんなんだ。そこには動きがなくてはいけない。絶え間なく動く二人の人間を、わかりやすく描写しなければならない。また『わかりやすく』書けたとしてもそれだけでは全然ダメで、『面白く』しなければ、格闘技小説とはいえない。拳を振って、それを相手がよけたと。それだけ書いても、淡々と描写を続けても、面白くない。夢枕獏はそれができる。戦いをどこよりも面白い場面にすることができる。凄い。
 物語に本気を乗せることが出来る作家がいる。といってもこれは自分が勝手に思っているだけであって、世間一般的にそんなことが認知されているのかどうかわからない。何の根拠もないことであって、ただ読んでいる最中に『こ、こいつ・・・本気だ…』と絶句してしまうような作品がある。それを書けるのが、本気を乗せることのできる作家だ。そして、夢枕獏氏が一番、うまい。といっても、夢枕氏の他には小松左京北方謙三、あとは伊藤計劃ぐらいしか、候補がいない。便宜上本気を乗せることのできる〜などと書いているが、実際はもっと、簡単に、わかりやすく説明できる言い方があるのだろう。

 他の言い方もある。これも非常にわかりにくいが、作中人物に対する問いかけがそのまま自分に向かってくるような、そんな時がある。たとえばこの東天の獅子でいえば、死ぬ覚悟があるか──? と登場人物が語りかけてくる個所がある。正直、鳥肌があたった。自分には当然そんな覚悟がない。ただ小説を読んでいるだけの自分には、そんな覚悟があるはずがない。だが登場人物に問いかけた言葉が、そのまま自分に向かってきているように思えた。

 どんな風にして、物語に本気を乗せるのか…。たとえば、作品を書いている時に泣いてしまうことが、作家にはあるという。それはなんとなくわかる。夢枕獏氏もよく、泣きながら書いた。などという言葉が残っていたりする。北方謙三も、水滸伝を書いている時は登場人物を一人殺すたびに、酒を飲んで悔やんでいたという(ただのアル中だった可能性も否めない。ただ、執筆している間は決して酒は飲まなかったという)。小松左京からは、そう言った話は聞かない。ただ小松左京の場合、魂がこもっている作品と、こもっていない作品の差が激しい。あるいは知らないだけかも。とりあえず共通していることといえば、どれだけ自分の物語にのめり込めるか、といっていいのではないか。自分の作品に感動して泣くことは、できる。だがそれは一種のハイ状態といってもいいのであって、それを持続させることは困難なのではないか、と推察する。一変の混じりっけなしに、疑問を持たずに、自分の作品を愛して何かを吐き出すようにして書かれたものだけが、ある種の本気を乗せることができるのではないか。たんなる精神論のようだが、他に説明がつかない。

 ああいや、本当は頭の中ではこれについてもっとまとまってたはずなのだが、いざ書きだしてみると適当なことしかかけてないわぁ。

 ついでにいえば、自分の頭の中では本気を乗せることができる作家の人たちは、みな鉛筆を手に小説を書いている(という妄想)。どんなに力強く、キーを打ちたたいても同じ文字しかでてこない。しかし鉛筆ならば、字は太くなり芯は笑えるほど折れ、そういった様を想像するのは実に楽しい。そして実際のところ夢枕獏北方謙三は、手書きなのではないかなあ? 手書きでしか、迫力がだせないということはもちろんないのだろうけど。