タイトルそのまま、清涼院流水先生の小説作法。
本気で清涼院流水先生に小説の書き方を習おうと思っている人はいないだろう。
先生は自身の作品を小説の枠外にある「大説」と名付けているぐらい現代の小説の「ルール」からは外れている作家である。本書のまえがきでもこのように触れている。
要するに本書は、よくある「有名な小説家が満を持して崇高な小説論を初披露してくれた、ありがたい本」などではなく、本邦初の「大説家が小説の常識のすぐ外側から客観的に小説について語った本」なのです。であればこそ、世に数多ある小説指南書・作法本とは根本的に異なる論点から小説について語った特異な本になりました。
もちろん多くのファンはこの逸脱に惹かれているのだ。先生は特異な本と言っているが、まあ読者はこんなもの求めないだろう。実際のところ小説作法に特別な箇所なんてなかったし。だから本書を読む人はどちらかというと「常にルールから外れた物を書いてきた先生は、どんな考え方で書いているんだろう」という興味から手をだす人が多いはず。
◆小説家になる動機と方法 ◆「書く」という覚悟 ◆小説のテーマの見つけ方 ◆小説のジャンルの問題 ◆ジャンル越境の難しさ ◆小説のアイディアについて ◆小説の人物造形について ◆小説の書き方と文章について ◆いくつかの自作について ◆スランプについて ◆タイトルやペンネームについて ◆職業作家になるということ ◆読者について ◆小説の未来と今後のこと
そういう興味から入るならば充分満足できる内容。もうこれ、ほとんど自伝といっていいぐらい「清涼院流水の人生語り」になっている。本来の趣向からすればなってしまっている、と言ったほうがいいのかもしれないけれど。あるいはこれも先生なりのルールからの逸脱なのかもしれない。
で、本題の小説作法は、キャラクターの項と文章について書いたところはなかなか面白かった。先生の作品は元々個性的なキャラクターが多く出てきて(そして一瞬で死ぬか消えるかする)大塚英志をして「この中の誰を主人公にしても一冊本が書ける」的な賛辞を遅らせたぐらいのキャラクターメイカー(この使い方であってるのか?)なのだ。
文章に関しては「名文家」というわかりやすい特徴はないけれど普遍的でわかりやすい文章を書く。特徴がないが、特徴がない文を書くのはなかなか難しい。
本書を読んでいて少しだけ失望してしまったのは、自作の自慢ばかりしていることだ。自分で自分が凄いと言いふらすのは結構かっこ悪いものがある。清涼院流水という爆弾は後進の為に大きな道を作り、今も作っている。
舞城王太郎や西尾維新といった作家は清涼院流水なくして生まれなかった(ま、そんなことはないだろうが)。本来ならもっと評価されてしかるべきなのに、しかし現状の認められ具合を見ると、先生は破壊者であって、創造者ではなかったのかもしれない、と少し思ってしまった。
- 作者: 清涼院流水
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2011/09/24
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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