- 作者: 清涼院流水
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2009/05/27
- メディア: 単行本
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あらすじ
元日の午前零時、全国の初詣客が大量に消失し、同時に警視庁や県警本部が謎の集団により占拠された。それが<ゼロ計画(コズミック・ゼロ)>の幕開けだった。計画を実行するのはそれぞれが特殊な能力を持った7人組“セブンス”。リーダー・タクトの指揮の下、彼らは日本中の人という人を次々と消していく。一体どうやって、そして何の目的で? 前代未聞の異常事態に日本中が大パニック。上は首相から下は普通のカップルまで、さらに米英の諜報部員や某国の工作員たちも、生き残りをかけて奔走するが、日本の人口は着々と減り続ける。
果たして日本はこのまま絶滅してしまうのか!?
今回、『コズミック・ゼロ』を書くことになったきっかけは、初代の担当であるIさんの情熱と、当初の刊行予定(昨年の九月)が僕のデビュー十二周年というタイミングで、干支が一巡するんだったらもう一度原点に戻ってもいいんじゃないかと考えたからです。僕の中の「コズミック」的なものをすべてリセットするという意味も込めて、『コズミック・ゼロ』というタイトルにしました。
──対談:清涼院流水×水野俊哉
ネタバレ無感想
パーフェクト・ワールドを大河ノベルとして一年間で十二冊の本を発行。その後長期にわたって沈黙を続けた清涼院流水の新作が、ようやく発売された。リンク先を読んでもらえればわかるのだが、今まで質より量を重視してきたが、ここらで質を重視した作品を書こうかと、方針転換したと言っている。最近はなんだかよくわからない作品を読み続けていたのでこの方針転換は素直にありがたいところだ。
前置きはよしとして。純粋に面白かったかどうかと問われれば、帯の最高傑作が誇張ではないと言い切れるぐらい面白かった。面白かった理由なのかどうかはやはり不明だが、今回は大説につきものの、特殊な読み方、それから文Showなどの工夫が見られない。出版社の垣根を越えて同時出版ぐらいかな? それからあとがきも、いつもは読み方指南のようになっていたのだが、ひどくまともである。
コズミック・ゼロは本人も言っているように、再デビューという煽り文句がぴったりだ。事件は1月1日、初詣現場で起きる。デビュー作であるコズミックの連続密室殺人事件が始まったのも、1月1日、初詣最中のお客からだった。この符合。もう一度、1月1日から清涼院流水リスタートである。内容的な部分でいえば、コズミックは規模としては日本絶滅とまではいかない。1300人密室で殺すと宣言しただけだ。その後のジョーカーはまた幻影城だけと、規模が小さくなる。その次のカーニバルにて、規模は一足とびにでかくなった。世界を絶滅さえるという、ビリオン・キラー(十億人を殺すもの)の出現である。
なので最初は、コズミックとカーニバルの間を埋める作業なんだな、と勝手に了解した。だが実際は違っている。あらすじに出てくる超能力を持った7人組は、カーニバルに出てきた虹の六哲人を連想させるし、彼らの手下も同様だ。実際には本書は、カーニバルの焼き直しなのだ。弔い合戦だ。明らかにカーニバルの物語は拡大を続けるばかりで、収縮されていかなかった。それならばと、御大は自分の実力の及ぶ範囲で、真摯にまとめ上げることができる規模を選んだのではないかと、そう感じた。
この物語では、ガンガン日本人が消えていく。当然それに伴って様々な問題が湧きあがってくる。それを一々まとめあげるのは普通の作家には無理だろう。仮に出来たとしても、割とこの本は短い。この中でまとめあげるのは相当難儀だ。しかし政治方面がおざなりにされることもないし、災害救助の面、国際対応、人々の反応含めて念入りに計算されている。淡々とバカげたこととしか思えないことが語られていくが、そのどれもが真面目に語られている。御大は、まとめられるのならば、規模がでかければでかいだけ話が面白くなる、と思っている。本書はその持ち味が存分に生かされた一冊になっているといえる。
なにが起きてもおかしくない。それがこの作品のメッセージだと、御大は言う。何を言ってもネタバレになってしまうので多くは語れないが、読む方も心構えとして、何が起きても絶対に驚かないぞ! という心構えで読んで欲しい。たとえどんなに心構えを持って読んでいても、恐らくどこかで度肝を抜かれることになるだろうから。
以下致命的なネタバレ有
割と突っ込みどころが少ない作品だ。やはり文Showやら、特殊な読み方などをやめると普通に面白いなあ。それは大説なのか? といいたくなるだろうが、読めばわかるとおりに立派に大説だ。誰もこんなことはやらない。まあでも突っ込みどころはいくつかあるので突っ込んでいく。
と、特殊能力・・・!?
本書には特殊な能力を持つ『セブンス』という七人組が出てくる。当然特殊な能力を持つというのだから超能力的な能力だと思うだろう。未来が見えるとか、地震が起こせるとか。ファンタスティック4的な。そうはいわずとも、カーニバルでのS級探偵ぐらいの能力はあるだろうと。何しろ日本を絶滅させようという7人である。そんじゃそこらの能力じゃ日本は絶滅させられへんて。さあ、ご覧いただこう。これが彼らの能力一覧だ。
リーダー タクト→『fぶんの1ゆらぎの声』を持つ。fぶんの1ゆらぎとは、小泉純一郎やオバマ大統領が持つといわれる美声で、これを聞くと人は不思議と安心して身をゆだねたくなってしまうという。要するにただの凄い声。
りぃーど→『絶対音感と読唇術』絶対音感にてどんな音も聞き分ける。さらに読唇術が使えるので相手がなにを言っているのか、口の動きだけで判断できるのだ! だから名前も読み取るから連想してりぃーど! 凄いぞりぃーどくん!凄いけど、世の中にはそれぐらい出来る人いっぱいいると思うぞ!
ウッド→『極度の近視である右目と、極度の遠視の左目を髪の分け目を利用して使い分ける』おお、凄いぞ! これが使い分けることができれば近いものはよりくっきりと、遠くのものもくっきりと見分けることができる! 人間望遠鏡顕微鏡だね! 凄いね!ボーン『一度目にしたもの、きいたことは忘れない』これも凄いね! 探偵学園Qとかにも同じ能力を持った子がいたけど、探偵にでもなればいいと思うよ! でもなんか普通に凄いから別に面白くないね!
スティック『眠らない少年』凄いね! ずっと起きてるんだ! 凄いね! ああ、でも眠らないっていう部分はカーニバルでも活躍したあの超人ナルシストとかぶってるよなあ。あいつも凄い黒幕っぷりだったが、スティック君も凄い黒幕っぷりだよなあ。
PA『まったく同じように両手をつかいこなし、右手と左手で別々の作業をこなすことができる。神の指先を持つ』す、すげえ。それだけで神の指先って言われてしまった。いったいこの日本には何人神の指先を持つ人がいるんだろう。すげえ。いったいそれがなんの役に立つんだ。
ぴあの『機械の専門家。特殊能力はない』ないのかよ! ないんだ!? もういいんじゃない? この際なんだってさ。トイレに一日20回は行く。とかでも誰も文句言わないと思うんだよね。とりあえずなんか適当に言っとけばいいんじゃないかなーと思うんだよね。コーヒーをおいしく入れることができる。とかさ。
え、英語・・・!?
なぜか英語で喋っている人の会話はちゃんと英語で書いてある。当然読めないんじゃお話にならないので、英語で書いた後にちゃんと日本語で訳してある。最近英語にハマっているのはわかるのだが、別に最初っから日本語で書けばいいのに。いいのに!
き、きたちょ…!?
開始数ページで日本地図と共に、日本国民1億3千万人、某国スパイ2万人、竹海荘13人と謎の人数割り振りが行われている。某国スパイとは言わずもがな、北の人たちなのであるが、直接的に表現されることはない。彼らの視点もたくさん挿入されているのだが、我が祖国、としかいわない。でもどう考えても北。直接的には確かに何にも書かれていないのだが、こんなにわかりやすく書いてしまってもいいのだろうか。しかも20,000人も国内にスパイがいるという設定で。
何でこの人ら日本を絶滅させようとしてるん?
ここが最初全くわからなかった。しかし彼らの言い分によると、世界には人間が溢れかえっているので、手初めに日本人を絶滅させてやるぜ! それから次々と絶滅させてやるぜ! ということらしい。
「われわれで、日本にいる人をゼロにしよう。これは<日本絶滅計画>であり、コズミックな──つまり、壮大で秩序のある──<ゼロ計画>だ」
などと声たかだかに宣言して日本を絶滅させた。また新しく始めるために、いったんゼロにする──。まさに御大再デビューに相応しい幕開け。
そしてだれもいなくなった。END。
「ようやく眠れるさ……」
最後のひとりも消えて、日本に残っている人は今度こそ、ついにゼロになった。
1か月前──この場所には、約1億3000万人もの人がいた。全世界では約60億の人がいた。
それが、現在はゼロに帰した。
世界には、もう、だれもいない……。
そして、だれもいなくなった。
この終わり方、投げっぱなしにもほどがあると思う人もいるだろう。俗にいうセカイ系の物語の典型で、世界では何事かが起こっているのに主人公たちはただ何が起こっているかわからずに右往左往する。ただ自分がこの終わり方に感動したのは、カーニバルでなしえなかった人類絶滅を、再デビューというこの新たな出発の地で成し遂げたことである。自分は本書を、カーニバルの縮小版であると思っていた。要するに逃げたのだと。人類絶滅なんて無理だから、日本絶滅でいいやーと。しかしそんなことはなかったのだ。御大は最初から人類を絶滅させるつもりだったのだ。直接的に世界が絶滅していく過程をあえて書かない、そのことによってようやく世界を絶滅成し得たのである。ああ素晴らしい。感動した。しかし人々をハッピーにしたいとかいう信念を語っている割に、自分の作品の中でやっていることは人類抹殺って何か凄いアンビバレンツなものを感じる。いいのか? 人々をハッピーにしたい人は自分の作品の中で、その人々を例外なく殺戮してしまっていいのか? いいんだろう。そりゃあいいだろう。いいさ。読んでいるこっちはハッピーさ。
もう少し書くことがあったので追記。そういえば流水先生といえば、作品に一貫したテーマを設定しているのが常である。本書でいえば何かというと、最初の方に書いたように『何が起こってもおかしくない』である。テーマを意識したのちに、このラストを見てみるとメッセージ性がより強くなる。いわば何が起こってもおかしくない、を強調したのがこのラストであって、これを突飛だ! とかいって非難することは簡単なのだけれども、テーマとしてみればこれ以上ないほどのラストなのである。希望があると見せかけたうえでの絶望。とってもいい終わり方だと思った。