- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2008/04
- メディア: 単行本
- 購入: 2人 クリック: 51回
- この商品を含むブログ (70件) を見る
無意味にあらすじでも(これはあらすじなのか?)
本シリーズの特徴は、話がつぎつぎに些末な法へ、否、多方面へと逸れていくために、なかなか話が進まない、本題が何であったかを忘却してしまう、もともと本題などない、というまさに人間の思考、人間の会話、人間の会議、人間の委員会、人間のワーキンググループ、人間の国会、すなわちほとんどの人間関係を象徴している点になる。
感想でも
うまいウソのつきかたとは、本当のこととウソを程良く混ぜ合わせることだ。 本書は世間的にはほとんど本当のことを書いているとして扱われているようだが、配分としては絶妙な具合だと思う。というか、読者にこれは本当のことか? それともウソか? と考えさせる小説といった点が、素晴らしい。つまり、小説家とはつまるところ壮大なウソツキなのだから、本書は小説として素晴らしい。さて、完結編ということで最後には壮大なオチが(文字通りの意味である)用意されている。この演出というか、最後の部分の構成だけは、強烈な既視感を感じる。最初から最後まで、未だかつてなかった人称(何人称といえばいいんだろうこれ)で書ききったことも凄ければ、このオチには何か、冗談ではない凄さを感じた。ううむ、ネタバレしないように書くと伏字だらけの小島秀夫インタビューのようだ。何も伝わってこない。
さて、本書で『水柿君シリーズ』は完結である。一巻からして十二分に面白かったけれど、二巻と三巻はそのうえを行く面白さだった。特にお気に入りは三巻で、笑いとその他の部分のバランスが絶妙である。一番笑って、一番情報として得るものが多かったのが本書だ。その他の部分とは、うーん色々あるけれど、つまりはエッセイで書いているようなことだよね。あとはモリログアカデミーの授業で書いているようなこと。まあ正直エッセイとかモリログアカデミーを一通り読んでいる人ならばどこかで目にした内容ばかりなのだけれども、自分は物覚えが非常に悪いので何回も何回も繰り返し読んでも楽しめるのだ。
笑った部分、ここが重要なのだけれども、パスカルの出現が大きい。言うまでもなくパスカルとは、単位ではなく(単位は突然出現したりしない)、水柿くん家の犬のパスカルのことである。とにかく、スマコさんの親馬鹿っぷりが面白い!
「それよりも、体重が重いことが問題じゃないかな。自分の体重が重くなっていることに、まだ気づいてないないとか」
「どうやって教えたらいい? おでぶさんって呼ぶ?」
「そうじゃなくて、あまり、いろいろやらない方が良いってこと。ササミとか」
「うーん、でもねぇ……、散歩のあとのササミは堪らんぜよ」
「誰が言ったの?」
「パスカル」
「土佐藩みたいだったけど、もしかして土佐犬?」
こんなの! フロで読んでたら笑いすぎて溺れるかと思った。次の日の朝刊とかにでっかく、『冬木糸一氏、笑いすぎて風呂で死ぬ。原因を生み出した森博嗣を容疑者として任意同行を求めた』とかなりそうなぐらい!
最後の方は、今までのふざけたノリがナリを潜め、真面目な話が顔を出す。つまりはいつもの森博嗣的なエッセイ語りが繰り広げられるわけであって、それだけだったらいつものことなのだがこれは小説である。小説を読んでいる、という意識はずっとこちらにあって、この真面目な語りに直面してさらにぐちゃぐちゃにされる。これははたして本当に小説なのだろうか? どこからどこまでが本当で、どこからがウソなのだろうか? 普通、小説を読んでいるときは、全部ウソだ。というのは共通認識が読者の頭の中にある。だがこの小説の場合は違う。明らかに本当の事としか思えない数々の出来事がある。水柿くんシリーズがミステリィだと思う最大の理由はここで、つまりこちらが推理する事とは、小説の中で起きる事件などではなく、どこからどこまでが本当で、どこからどこまでがフィクションなのか? ということだ。現実とフィクションが渾然一体となっている。最後、軸がフィクションの方へ大きく傾いてメタ化し、最後の一言でメタの極地に飛んでいくのが非常に良かった。
読んだ人を泣かせるのが最も簡単である。
人間というのは、とにかく泣きやすい動物であって、物語の中でペットとか子供とかが死ぬだけで、そのペットとか子供の可愛さのレベルなどほとんど無関係に涙が出る仕組みになっている。人が泣いている顔を見るだけでなく人も多い。泣ける話というのは、一流から五流ぐらいまで、涙の量は同じだ。泣ける作品を貶めているのではない。泣けるからといって良い作品だとは限らない、というだけだ。
これは常々思っていたことである。よくテレビで盲導犬物語、などというものを(主にどうぶつ奇想天外が)やっているのだが、我が家の両親はこれを喜び勇んでみていた。だが自分は断固として見ようとはしなかった。泣くのがわかりきっているからである。もしその決意に反してみてしまった場合、なんでこんな話で泣いてしまうのだ・・・! と自己嫌悪・・・とまではいかなくても、納得いかないなあ…という不条理な感覚に襲われる。なので絶対に見ない。
そういった、特に何のてらいもない話で泣いてしまうのに抵抗感を感じてしまうのには理由がある。上記の引用文で、森博嗣は一流から五流まで、涙の量は同じだ。と書いている。つまり問題はここで、技巧を凝らした素晴らしい作品を今までに体験して、それで泣いているのに、今さらそんなシンプルな涙を流したら価値が自分の中で同じになってしまう。それが嫌だ、と感じているらしい。
小説の売れ行きは、面白さとは関係がない。
何故なら、本を買う人は、本をまだ読んでいない人なのであって、それが面白いかどうか知りようがない、という動かしがたい特性のためだ。では、友人に勧められて、あるいは他人の評判を聞いて買う、ということはないのだろうか。もちろん、多少はあるだろう。しかしそこういった内容の面白さが原因でベストセラになるものはほとんどないと断言して良い。
ふむ。確かに言われてみれば、ベストセラーになっているからといってそれが面白い、内容が素晴らしい、とはもうこれまったく関係がない。それは、確かだ。身を持って幾度も痛い目にあっている。ふと考えてみたが、一切何も考えずに、何の情報も持たずに、本屋にいって直感に身を任せて本を買った。という経験が全くない。常にどこかから線がつながって、本を買う。人にお勧めされたとか、好きな作家がオススメしていたとか。自由意思はいったいどこにあるのだろうか。
じゃあ、一体何が売れ行きに影響するんだ? といえば、作者の名前である。そもそも名前を知られていないと買う気にはならないのだから当然といえる。名前を知られて初めて土俵に立てるのだ。世の中にいったいどれだけの人間が、名前も知らない作家の本を買うだろうか。少なくとも自分はしない。聞いたことのない作家はいつまでも聞いたことが無い作家のままだ。
値段が売れ行きに影響するのか? といえば、それに関して水柿くんがやったことといえば印税を受け取るのを拒否し、本の値段を極力安く設定した。そうすることによって売り上げが変化するのか? という実験である。結果はほとんど変化なし、といった塩梅であった。
次に、宣伝である。水柿くん、今度は新聞に一千万円を出して、かなりでかでかと広告を打った。しかし売上にはほとんど影響がない。宣伝も効果はあるのは確かだが、総合的に、戦略的にやらないとダメなようである。まあ、長々と書いたが以上の実験というのも本書で書かれていることなので話半分に聞いておいた方がいいだろう。あくまでも本書は小説なのである。フィクションである。
僕らは利己的な存在です。
人間はいつでも、自分にとって一番価値のあるものを選ぶ。価値がみえないときは、価値がありそうなもの、あるいは、いずれ価値が出そうなものを選ぶ。無駄なように見えても、けっして無駄は選択されない。その人が信じる最善の道を必ず選んでいるのだ。怠けた方が良いと思うから怠ける。罪を犯してでも欲しいものが手に入る、そちらの方が良い、と思うから罪を犯す。人を裏切ってでも、自分の思いどおりにしたい、と思うから人を裏切る。人を愛した方が、自分に価値がある、と考えれば人を愛するだろう。全部同じだ。誰もが自分の欲望のままに生きている。ただ、価値を見出す道理が、それぞれで違っているにすぎない。