基本読書

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時間についての雑文

宇宙を織りなすもの――時間と空間の正体 上

宇宙を織りなすもの――時間と空間の正体 上

はじめに

 時間、自分なんぞはこの単語を聞いただけでわくわくが抑えられないのですが、一般的にはどうでしょうか? 恐らく程度の差こそはあれ、みな好奇心を抱くのではないかと思います。時間とは何だろうか? どこから始まってどこで終わるのか? 過去には行けるのか? 言うならばこれらの問いは身近にある極上の謎であって、それを追い求めるのは人間としての本能と言えるのかもしれない。だからこそ面白い、好奇心がむくむくとわき起こってくるのだろうと推測できます。そんなわけで時間についての雑文です。宇宙を織りなすもの──時間と空間の正体上巻のまとめ的記事でもあります。下巻はビッグバンによって宇宙に何がもたらされたか、さらにはひも理論とは何なのか──などなど、もう少し深いところにもぐっていってしまうので、とりあえず上巻だけ。本自体の感想はまた後日書く。

時間とは何か? ──時間は本当に流れているのか

 確かに、普通に生活していれば時間は一方向に向かって流れているように思える。朝起きて時計を見たら規則正しく同じ方向へ針は動く。朝ごはんを食べている時に牛乳をこぼしてしまったとしても、牛乳はひとりでに戻ったりはしない。こぼれたままである。川が上から下に流れていくように、時間はある一定の方向へ向かって流れているのだろうか? 過去から今を経て、そして未来へと向かって?

「過去、現在、未来」という区別は幻想だ

 現在というのは非常にあいまいな言葉で、物ごとは変化し続けているのに現在、今をどうにかして定義しようとしたら写真のように止めた瞬間をイマと定義するしかない。「今」の世界にはもうマイケル・ジャクソンはいないし、栗本薫も、伊藤計劃もいない。このページを見ている眼の前にはパソコンあるいは携帯、電子機器があることだろう。しかし見ているものをストップモーションのように止めて、今を定義しようとしても、そこに見えているのは実は今ではないのである。あなたはこのページに書かれている文字を、今ある状態の文字そのままに見ているわけではない。これを画面から30センチ離して読んでいるとするt、あなたが見ているのは十億分の一秒ほど過去にある文字なのだ。月を見た時に目に入ってくるのは、1.5秒ほど過去の月だ。人間が二人いて、ある物を一緒に見つめていたとしても、それは同じ物を見つめているわけではない。二人の観測者の間にはズレがあって、それは同じ人間になるでもない限り重ね合わさる事はない。

 こうして、もしもあなたが、「宇宙は、今あなたの心の中にあるストップモーション画像に含まれる事物でできている」と考え、「あなたの今は、空間内のはるか遠くで自由に運動できる別の人物の今と対等だ」と認めるなら、宇宙には、時空内のあらゆる出来事が含まれることになる。

 現在というものは捉えられないものなんですよね。たとえば地下鉄サリン事件、あれも2009年6月27日の現時点から見れば過去の出来事ですけれども、光の伝達速度十五年分の位置に地球を観測する人間がいるとすれば、それは「現在」の話なのです。変化しようのない時空内の場所として、一度起こった出来事は記録され続けます。

時間は逆向きにも進むことができる?

 すでにある物理法則のどれもが、時間が逆行する可能性が無いとは証明できていないのである。それどころか、時間が逆行出来ないのがおかしい、とすら言ってもいいぐらいである。時間は未来へと向かっていくように見えるが、それと同じぐらいに当たり前に過去へと向かって言ってもおかしくはないとそう言っている。ここで湧き上がってくる問題は、じゃあなんで逆向きに時間が移動する事例が見当たらないの? というもの。これにはエントロピー増大の法則が密接に絡んでくる。エントロピー増大の法則を簡単に説明すると

 たとえば、あなたの書斎がきれいに整頓されている場合、そこには「秩序」がある。このときあなたの書斎のエントロピーは小さい。しかし、あれこれ仕事があって整理がおぼつかないと、書斎は乱雑になってくる。秩序がなくなってくる。エントロピーが増大しているのである。エントロピーを小さくするためには、整理整頓という大仕事をつぎ込まなければならない。それが面倒で放っておけば、乱雑さはますますひどくなる。つまり、エントロピーはますます増大する。これが、きわめて不正確であるが、もっともわかりやすいエントロピー増大の法則である。──時間はどこで生まれるのか/橋元淳一郎

 となる。要するに時間が一方向へ向かっていくように見えるのは、エントロピーが常に増大し続けるという宇宙の法則に従っているからであるといえる。ただそこで更に巻き起こる問題が、何故エントロピーは増大するのか? というものだ。結局のところ問題は最初に戻ってくる。それを解き明かすためには宇宙創成の時、すなわちビッグバンの時までさかのぼらねばらない。

 ビッグバンが起こった時、宇宙は限りなく秩序だった状態で始まったという。つまり限りなくエントロピーが小さい、生理整頓された書斎の状態である。そして、そんな状態で始まったからこそこの宇宙はエントロピーが増大するという法則を与えられた──そういうことになる。実を言うとここで、じゃあなんで宇宙はエントロピーが小さい、秩序だった状態ではじまったんだよ? という問題が持ち上がるのだけれども、それはまだ解決されていないらしい。

犬や猫には時間の概念があるのか

 ここからは時間はどこで生まれるのか/橋元淳一郎の本について。犬や猫には未来という概念がないという。人間が未来という概念を知る事が出来たのは、それが必要だったからだ。仮に時間という概念が無かったらどうなるのだろうか。きっと三時間後にはまたお腹が減るだろうから、今食べるのを我慢して三時間後のために残しておこう、というような事は出来なくなるだろう。過去という概念がない場合、経験から学ぶなどといったことが不可能になる。そもそも人間だって元はといえば野生動物だったのだから、時間の概念を把握していなかった可能性だってある。それについて以下の文

 もっとも、われわれの祖先は一万年ほど前までは、時間という概念を持っていなかったと思われる。彼らは他の生物同様、獲物や来襲者の「動き」といった刹那刹那に生きていたのであり、そこから時間概念が生まれるためには、もっと余裕のある生活(農耕など)が必要だったに違いない。それゆえ、時間は人間の理性が生み出した後発的な概念であり、よりプリミティブには、「動き」こそが生き延びる条件だったのである。

 なかなか面白い。