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読んでいない本について堂々と語る方法/ピエール・バイヤール

読んでいない本について堂々と語る方法

読んでいない本について堂々と語る方法

 オスカー・ワイルドとともに、一冊の本を読むのに適した時間は十分であると結論する。これを守らなければ、本との出会いはなによりも自伝を書くための口実であるということを忘れかねないからである。

雑文

 つい昨日書いたばかりのエントリー、小説の自由で小説ってそもそも何なんだ? ということを書いたものはあまりない、というようなことを書きましたけれど、その次に読んだ本書がもろにそういう本でした。タイトルと、わずか230Pという短い分量と、釣りとしか思えない軽い目次故に読み始める前は、出落ち本だろうと侮っていたのですがその実とても内容の深く面白い本であります

 まあ予想通りタイトルは釣りでしたけれども。自分は本を読んでいる時に、気分がいいから読んでいる本が面白いのか、あるいは読んでいる本が面白いから気分がいいのかという問いに悩まされることがあるのですが、本書についていえば間違いなく後者であるといえます。読んでいる間に面白くてうきうきしてきました。

 『読んでいない本について堂々と語る方法』が知りたい人は少しがっかりするかもしれませんが、本書は方法論というよりかは読んでいない本について堂々と語ることはなんて素晴らしいんだろう! というところが焦点になっております。そういうわけで何故読んでいない本について堂々と語るのが素晴らしい行為なのか? ということが延々と語られるわけです。本書が読書論の本として高く評価されているのも、その説明がわかりやすく、また非常に納得のいく話だからこそでありましょう。以下内容に触れつつ紹介してみましょう。

読書における世間の規範

 第一に世の中ではまだまだ読書が神聖なものとされています。そのせいで読んでいないというだけで常識が欠けていると言われてしまうような事態が起きたり、誰もが読んでいる本を読んでいない人間は軽んじられてしまったりするわけです。。第二に、通読義務とでもいうべきものがあります。本というのは最初から最後まできっちり読まないといけない、飛ばし読みや流し読みは一般的にいってよくないこと、どころかそれでは本を読んだとは認められないといってもいいでしょう。第三に、ある本について語る場合はその本をしっかりと読んでいなければならないというものです。本書の主な内容としては以上であげたような読書の規範をしゃらくせぇー! と打ち砕いていくことが書かれています。

「読んだ本」というあやふやな状態

 そもそも「読んだ本」というのは、いったいどういう状態になった場合に本当に「読んだ本」といえるのでしょうか。過去に一度でも読んだ事があるという定義では、子供の頃に読んで記憶に一片たりとも残っていない本についても読んだといえます。また半分だけ読んだ本を「読んだ本」というカテゴリにいれてもいいだろうか? などという疑問もわき上がってきます。

 読んだ本とは何か、という問いは思ったよりも深いです。たとえば自分たちがすでに読んだ本と考えている物は、しかしすべて厳密に記憶しているわけではありません。一字一句覚えていられるわけではないのですから、同じ本を読んだと言っても誰もが頭の中にその人独自の本のあり方が存在しているわけですね。本というのは本質的に不確定なものです。そして、いずれ忘れ去られていくものです。だったらそんなものを精読する必要が、いったいどこにあるでしょうか? 

 出だしの煽りだけ紹介して終わり、ということで。内容は読んでたしかめてください。全体のまとめとして、本書が語っているたった一つのことは、書物について語ることではなく自分自身について語ること、あるいは書物をつうじて自分自身を語ることこそが重要であるということです。われわれは本について語っている時に、つい「本」それ自体について語っているつもりになってしまいますが実際のところ語れるのは、「本」とはまた別の領域の話なのです。以下忘れたくないところまとめ

批評家は通読なんかしなくていい

 批評家は批評を頼まれた作品を通読していないっていわれることがあるけど、もちろん通読なんかしないよ。少なくともすべきじゃない。ワインの銘柄や品質を知るのに一樽ぜんぶ飲みほす必要はないだろう。ある本に何らかの価値があるかどうかを知るには半時間あればじゅうぶんだ。いや、形式をつかみとる本能がある人間なら、十分もあればじゅうぶんだろう。退屈な本をだれが読みとおしたいなどと思う? ちょっと味見してみるそれでじゅうぶんだ。じゅうぶんすぎるぐらいだと思うね。──『芸術家としての批評家』オスカー・ワイルド

作家を前にしてどう感想を言うか?

 作家が必ず口にする言葉に、自分が書いた本について言われていることが、自分が書いた事と全く違う…というものがあります。これは前述したとおり、誰しも自分の頭の中にある「本」は別々なものであるからこそ起こってしまう悲劇なのですが、それゆえに作者自身に自分の考えを言う事は(特に細部にわたって言及する場合)危険であると言っています。語れば語るほどに作家は自分が書いたことが伝わっていないことに悩むことになってしまうからです。して結局のところ二人の人間のそれぞれ思っている「本」は符合しようがないのですから、そんなことをしたところで無駄なんですね。

 したがって、読んでいない本について著者自身の前でコメントしなければならない状況にある人間に与えられるアドバイスはただひとつ、とにかく褒めること、そして細部には立ち入らないこと、これである。作家は自分の本についての要約や詳しいコメントなどまったく期待していない。それはむしろしないほうがいい。作家がもっぱら望んでいるのは、作品が気に入ったと、できるだけあいまいな表現で言ってもらうことなのである。

 それにしても、作者と読者の乖離がこれ程深刻なものだとすれば、作者による自作解説などというものは恐ろしく無駄な行為であるといえます。というよりも、作者の解説が至上、神の言葉に等しいと感じる人々にとってはそれは作品の幅を拡散状態から一点に収束させてしまう非常に恐ろしい行為なのではないでしょうか。などと考えて終わり。