- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2007/09/04
- メディア: 文庫
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ちなみに本書の中で一番感動したのはバガボンドやヴィンランド・サガで繰り返される『真の戦士とは何か』という言葉の意味を、論理的に説明したところである。今までなんとなくへーそうなんだよくわからんけど、と思いながら読んでいた真の戦士論であるが、これでようやく理解できるようになった。素晴らしい。
本当の戦士とは何か?
居着きという言葉がある。一般的にいえば緊張、つまりは心理的なストレスが原因で身体能力が極度に低下することを意味する。普通の人間であればだれもが経験するこの居着きは、常に生死のやり取りをしていた武士にとっては致命的問題であることは言うまでもない。緊張して実力が発揮できませんでした、てへなんて死んでしまったらいえないのだから、必死である。そして失敗できないという過度の恐怖がさらに居着きを増進させる。これについて柳生宗矩著『兵法家伝書』にはこう書かれている。
勝とうと思い詰めることは病である。策略を使おうと思い詰めるのは病である。習得した技術をすべて使おうと思い詰めるのは病である。先手をとろうと思い詰めるのは病である。相手の出方を待とうと思い詰めるのは病である。このようにあれこれ思い煩うのをやめようと思い煩うのも病である。なにごとも心がひとつのことに固着するのを病と呼ぶのである。
病とは固着することである。意識がある一点に集中し、身体に兆候が表れてしまうことが病である。打ち込んでくる刀をみて、それに合わせて反撃しようとする状況は相手の刀に意識が固着しているといえる。そうすると自分の動きが相手に筒抜けになってしまうそうである。
なぜ筒抜けになってしまうのか、その仕組みを解説する。
例えば、自分が手を動かして何かを取ろうとするときは実際に手が動きだすよりも前に、眼で目標を補足して次に手の動きの支点となる肩の部分にわずかな「起こり」が生じる。武道の場合、動き始める前にこうした「起こり」を示すことはほとんど致命的に近いという。よって武道家という厄介な人たちは「起こりを消す」ために色々やらねばならないわけである。そうすることが勝利への道だからだ。そのためにまず「中枢からの指令抜きで、手足を動かす」ことが必要になってくる。その為には緊張すること、居着くこと、意識を一つに縛られること、つまりこれらが中枢からの指令なわけであるが、排除しなくてはならない。
「起こりを消す」理想の動きとは、人形の動きである。人形の動きには意識がない。ただ身体の動きがあるだけである。頭を動かして視線を決めたり、肩に支点を作ったりする必要がないからである。ここに武道における技術的完成がある。いうなれば無我である。何も考えず。どういうことかというと、「勝つ」ために「勝つ」という意識を頭から消失させなければならないのである。敵に勝とうと思うことは居着くこと、意識を持ってしまうこと、つまりは敵に意識を読まれることに繋がってしまうからである。
敵を忘れ、私を忘れ、戦うことの意味を忘れたときに、戦う者は最強となる。なぜなら、彼にはもはや「守るべき自我」も「破るべき敵」もないからだ。その身体運用はあらゆる「居着きを」を去った融通無碍、完全に予見不能の自在境に到達している。しかし、その最強の身体は、もう戦うことに意味を見出すことができない。
「私」を攻撃から守ろうとする意識は必ず身体に徴候化する。それは「居着き」として身体能力を低下させ、「起こり」として心身の情報をリークする。それを防ごうと望むのであれば、私たちは非中枢的な身体運用を習得しなければならない。そして、非中枢的身体運用の習得は必然的に「守るべき私」という観念そのものの廃絶を要請せずにはいない。敵に勝つためには勝つことを忘れ、私を守るためには私を忘れなければならない。そして、当然のことながら、「敵に勝ちたい」という欲望を棄てたものにはもう勝つべき敵がおらず、「私のことを忘れてしまった」私にはもう守るべき「私」がいない。
敵に勝つため、自分の身を守るために始められたはずの武道が、最終的に極めた場合は敵に勝つことも、自分を守ることも忘れ去った果てにあるとはなんとも驚きの話ではないか! ヴィンランド・サガのおっさんも、バガボンドのじーさんもこの境地に達していたんだろうなー。