基本読書

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「わからない」という方法

「わからない」という方法 (集英社新書)

「わからない」という方法 (集英社新書)

 橋本治本は二冊目だが、ようやく面白さがわかってきた。それは何故か? 自分が橋本治の本を読み始めたのは、内田樹を介してであったのでどうしても比較してしまうのだが、内田樹はわかりやすく、橋本治はわかりづらい。内田樹の語る内容は、どれも驚きに溢れていて物凄くわかりやすい。そして読んですぐに『正解』が与えられたような気分になる。読んだ後、こちらは宇宙の真理を得たかのような錯覚に陥って、それをすぐにでも人に話したくなる。しかし実際に人に内田樹の言っていることを話そうとしても、どうしたって全部伝えられるはずはないし、それについてつっこまれても内田樹によって示された一本道しか知らないこちらには、相手へと伝える方法がわからない。結果、内田樹劣化コピーともいえる内容を、あたふたしながら繰り返すだけとなる。

 対して橋本治はスタート地点が「わからない」状態から始まる。この本で繰り返し言われていることとは、「なんでも簡単に''そうか、わかった''と言えるような便利な正解は、もうすでにない」ということだ。とにかく橋本治は「わからない」を繰り返す。それはもうウザイぐらいに。大半の読者はこれをウザイと思うだろうし、クドイとも感じるだろう。しかしこれはほとんど意図的なもので、馬鹿相手には同じことを繰り返さなくてはならないと言っているようなものである。しかしそれは「わからない」ことを放棄してしまっている現代人には効果てきめんかもしれない。自分はいかに「わからない」を無視してきたかが、本書を読んでいてよくわかるのである。正解だけを求めて、一冊の本の中で言いたいことだけを抽出して、自分の中へ納める。それを正解とし、それ以外を排除していたのではないかと、『考える』きっかけになった。この本を読んでも「こうすればいいのだ」なんていう理解にはたどり着かない。ただ「なんだかよくわからなかった」感覚が残るだけである。その先へは自分で考えて進むしかない。そして内田樹と比較して面白いのはまさにその点だ。自分で考えるしかないことに気がつけたから、面白いと感じるようになったという、それだけの話。