マインド・クァンチャ - The Mind Quencher
- 作者: 森 博嗣
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2015/04/24
- メディア: 単行本
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当初の予定では三作の予定で、結果的に五作になったのは三作分の内容を三作に収めきれなかったということなのだろう。当初予定していた内容は本作で終わり、と書かれている。『シリーズ5作めです。当初予定していたストーリィはここまででしたので、これでシリーズ完結としても良いと思っています。次も書くかどうかは、まだ決めていません。』*1一読しての感想は、「この先があるのなら、観てみたい」、でもここで終わるのは完璧すぎるぐらいに美しい、というもの。
読み終えた時はあまりにものめり込んで、世界に入り込んで読んでいたのでそのまま現実にうまくもどってこれずにふわふわとしていたものだ。それぐらい素晴らしい結末で、読んでいる間現実の自分が消失していた。どこかでシリーズの総評を書こうかとも思うが……ひとまずはこの『マインド・クァンチャ』に的を絞っていったん書いておこう。現時点では前巻について書いたこの記事がシリーズ総評的によくまとまっているんで未読の人は参照されたし。
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一言でいえば考える侍が数々の敵と斬り合いを行いながら強さについて自問し、都を目指す物語である。ゼン(主人公)は、人間関係といえば師匠のじーさんと自分だけの空っぽな存在だった。師匠の死を契機として人里に降りていくことで、そこに人間関係特有のルールがある事を知り、市井の人間と関係を作り上げていく。人里に降りて強敵と斬り合いを経ていくうちに、ゼンは「強いとはなにか」について自分なりの考えを深めていくが、本作『マインド・クァンチャ』で、彼は欠けていたピースをまさに欠けることによって手に入れることになる。
ドラマツルギー的にはひどくわかりやすい物語・シリーズであったといえる。目的地は明確に示されており(都)、その過程でまだ未熟だった侍が様々な困難と出会いを通じて「強いとはなにか」のテーマについて考え、そして技術面でも実際に強くなっていく。この世界における彼の役割もだんだんと明らかにされ、物語はより大きなイベントへとつながっていく──、だからこの最終巻に至っても、ドラマ的な意味での「意外性」みたいなものはあまりなかった。彼が強くなるために「欠けていた」ピース、必要とされる要素自体も、物語の速い段階から明かされていたのだから、(その方法はともあれ)、まあそうなるよな、と思ったものだった。
それでも尋常じゃないほど面白いのは、プロットというよりかは表現の部分に特質性があるからだ。まるで異国の人間が、日本を放浪しているかのような「外部からの視点」を持ったゼンという侍の目線は、時代物を観るときの我々現代人の視点でもある。いつだって人々の間には多くの奇妙な風習と思い込みがある。それを当人らは何も不思議とは思わずに受け入れているが、そうした常識を持たない山から降りてきた人間からはおかしな共同幻想を信じているようにしか見えない。しかしいったん枠から外れてみてみると奇妙な風習を持っている状況こそが人間社会のルール、デフォルトの状態だともいえる。
ゼンは強さとはなにか、どうしたら自分が斬られずに相手を斬ることができるのかについてよく考えるが、その思考の奔流と実際に敵と斬り合っている時の研ぎ澄まされテンポ良く転換していく思考の描写は対照的だ。平時はあーでもないこーでもないと思考を重ねるがいざ戦闘に入れば文章の区切りは早く、刹那的な相手の動きと自分の動きに神経と描写は集中してほかは削ぎ落とされている。こうしたプロットにのっかった表現の部分が我々を惹きつけてやまない。特にこの第五巻巻にあっては──ゼンが「強くなった」、ある種の極みに達したことが明確に文章表現上でわかるようになっているのが凄い。
たとえば、剣の使い手が強くなっていくのをどう表現するのか、というのは表現者としては誰しも悩む部分だろう。わかりやすいのは、昔は勝てなかった相手に勝たせてやることだ。そうすれば読者は「ああ、強くなったんだな」というのはわかる。しかし、描写として強さを表現するにはどうしたらいいのだろうか。漫画やアニメだったら、立ち振舞などの絵でそれを表現できるかもしれない。俳優ならそれはより簡単だろう。より情報量がしぼられる文字では、その難易度もさらに上がる。文章が得意とするのは立ち振舞よりも思考の流れを表現する部分だろう。それは、他の媒体では難しい部分だ。
その特性を、本シリーズでは思考をしきりに描写することで表現し、活かしてきた。ところが戦闘中に考えるのは同時に、ゼンが飛躍的に強くなることの出来ない枷のひとつでもあった。思考しているということは、それだけ時間がかかっていることでもある。思考をすれば、相手にその行動の起こりを読まれることにもつながる。自分があるから、それを守ろうとする意識も生まれてしまう。自分を完全に捨て去ること、忘れ去ること、思考を脳内から排除すること──ついに本作では、この点を表現として見事に昇華させてみせた。ゼンの成長が、「単により強い敵を倒す」だけでなく、文章表現として「ああ、ゼンは本当の意味で強くなったんだ」というのが理解できる形で。
シンプルながらも本作が完全性を備えているように感じられるのは、こうした表現上の極みへの到達と、テーマ的な頂点=強さとはなにかへの答えに辿り着くこと、最強の敵との死合、「旅」としての側面である都の到達というあらゆる要素がここで結実するように仕組まれていることもあるのだろう。神技を見たような思いだ。
ちなみに本書の引用本であるところのドナルド・キーン氏による『能・文楽・歌舞伎』は、外側の視点(ただし日本文化にはどっぷり)から能の紹介を行っている興味深い一冊で、単に色物ではなく能にのめり込み、文章表現上の類まれな才能を持った人間だけが出せるようなウマさのある本だ。本シリーズは一貫して引用文は、英文と日本文の表記を行なうことで外からの視点を意識して取り入れてきているように思うが、ドナルド・キーン氏はまさにその要素の体現者の一人である。
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何が書き得るのか(ガッツリネタバレゾーン)
ここからがっつりネタバレ。
強さ的な意味でも、権力的な意味でもまさに頂点に上り詰めたゼンであるが、あまりにも自明なこととしてそんな環境に居続けることができるはずがない。当然のようにあっけらかんと立場を捨てて逃げ出してしまうわけだが、物語にこの先はあるのだろうか、あるとしたら、どんなことが書きえるのだろうか。強さを求めることはありえるだろうか? といえば、これはないだろうなとは思う。もっと強い人間が出てきたとして、その相手と戦う必然性があるだろうか? もちろんそこには何らかの意味はあるのだろうが、うーん、無私の領域に辿り着いたゼンがそこにこだわるとはあんまり思えないな。
一つ考えられるのは、一人で修行、鍛錬の道に励むことだろう。多少の仕事を残しながらもあとはほとんど日々本を読んで工作をして過ごしている森博嗣さんの如く、山なり田舎なりに引きこもって修行をして、たまに農作業なり何なりをして過ごせばいい。もちろんそれは今後もっともありえる可能性の一つではあろうが、物語にはしづらい展開だろう。次に可能性の高いこととして、カシュウのように「後進に教える」ということはありえるだろうと思う。物語にし得るとしたら、この部分ではないだろうか。
もちろん他にいくつかのパターンも考えられるが(逃げ出した元から、ある程度の関係性復興を重ねて何か別の展開を起こすとか)、でもある種極まった人生が行き着く先はあんまり多くないものだなと思う。だが、だからこそ──何か思いもよらない別のパターンの物語を読んでみたいとも思う。「その先はあるのか」と。道を極め、最強の座に上り詰めたあとも「行く場所はあるのか」と、あえて問いかけてみたい。